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第47話

「ふぅー食べたー」

 

 千鶴は深めのキャンプ椅子にぼすっと沈み込んだ。折り畳み式の深めの椅子は満腹状態の彼女を包み込む。

 身も心も満たされた状態でくつろげば、そいつはごくごく当然に襲来して体を掌握していく。

 

「あーねみー。天国かここは」

「食べた後すぐに寝るとブタさんになるそうですよ」

「甘んじて受け入れよう。大体ねーBGMが良過ぎる。ここは。YouTubeでめちゃくちゃ再生されるぞ」

 

 脱力し切って空を仰いだ彼女は、星きれー、と口をだらしなくした。

 

「眠たければ構いませんよ。後始末はやっておきます」

「マジか、助かる……」

 

 それっきり千鶴は静かになった。

 パチンと火の粉が舞っても起きる気配はない。

 本当にリラックスできる環境音ですわね。

 それを聞きながら数十分。

 

 やるなら今だ。

 

 できるだけ足音を消して立ち上がり、事前に発見していたキッチンバサミを手に取る。そして同じくこっそり彼女に近づいた。

 視線を注いでもそれで起きることはない。

 

 幸せそうですね。

 

 だらけているが、わたくしを信頼している証でもある。千鶴にとってわたくしの側は、既にそういう場所になっているのだ。

 胸にじんわりと暖かいものが広がった。同時に彼女を裏切ることへの罪悪感も感じる。

 だがもう後戻りはしない。

 腰に提がった手錠の反対側、千鶴の右腰にしゃがみ込むとホルスターと拳銃を繋ぐリードをキッチンバサミで切断する。起こさないようにそっと、拳銃を抜き取った。

 ズシリと重い。重量という意味ではなく、これを今から自分に使うと考えると重たいのだ。

 

「…………さよなら」

 

 最後となる千鶴の顔を記憶にこれでもかと刻みつける。

 

「…………」

 

 足が地面に縫い付けられたように動かなかった。

 わたくしは寝息を立てる彼女の前髪をそっと分ける。

 

 なにをしているのだろう。

 

 早くここから立ち去らねばいけないのに。

 彼女を起こしてはいけないのに。

 だけどわたくしは、わたくしの体はどうしようもないほど欲していた。

 最後と思ってしまうと彼女に触れたくなってしまったのだ。

 額に口づけを落とす。

 軽いキスだった。

 胸の内の未練がスッキリする。と同時に別の未練が形作られ始める。

 

「っ…………」

 

 彼女の艶やかな唇が輝いていた。

 いけない。

 それで満足した。

 満足したと納得させた。

 早く逃げなければ。

 しかし案の定、このキスはするべきではなかったと後悔する。

 

「ユヅっち?」

 

 唇の感触を受けた千鶴はわたくしを虚に見つめていた。

 息を呑む。

 その視線は顔から肩、肩から腕、そして手が掴んでいる黒い塊へ。

 

「ユヅっち……」

 

 彼女の覚醒を置いてけぼりにして、空気を切り裂くように動いた。彼女のベルトループにかかった手錠、わたくしが贈ったその手錠を掴むと、キャンプ椅子のパイプフレームに引っ掛ける。ロックを確かめる暇もなく走った。

 

「ユヅっ、あっ!」

 

 わたくしを呼ぶ声に次いでガシャガシャと崩れる音がした。

 

 愚か! なんて愚か!

 

 河原を走りながら自分を罵る。

 

 なんでキスなんてしたの!

 

 しなければ千鶴が起きることなく、ひっそり消えることができたのに。賢いと思っていた理性は殊の外虚弱で頼りなかった。

 とにかく今は叱咤している場合ではない。逃げたい。彼女に自分が死ぬ瞬間を見せたくはなかった。

 

「待ってッ! ユヅっち!」

 

 背中に悲痛な叫びを浴びる。それは迷子の子どもの声にも思えて脚が重くなる。

 

「お願いだから!」

 

 これも千鶴のため!

 

 自分を納得させるように銃を強く握ると、走りながらスマホのライトを起動する。河原を走っていては簡単に追いつかれる。森に入らなければと判断しての行動だった。

 闇同然の木々の下をライトを頼りに進んでいく。肌の露出した部分が枝に傷つけられてもお構いなしに掻き分ける。アドレナリンのせいか痛くはない。

 

 くっ、見えない。

 

 だが森を進むという決断は不利に働いた。足元が全く見えず何度も転びそうになるし、足元を照らせば樹木に衝突する。わたくしの視界のせいでスピードはひどく落ちてしまった。

 

「お願い! 止まってぇ!」

 

 声が近い。足止めで鈍化しているのに加えて、ライトの明るさを頼りに位置を特定されているのだ。

 

 もっと急がなきゃ!

 

 その焦りが足元を掬う。

 なにかは見えないけれど硬いなにかに躓いて、受け身を取れないままに転がった。

 

「ユヅっち!」

「来ないでッ!」

 

 土に汚れながらわたくしは側頭部に銃口を突きつけた。

 追いついてきた千鶴が強張り、停止する。

 

「あなたに死ぬ瞬間は見せたくない! それでも! 来るなら今引き金を引く! これがあなたのためだから!」

「な、なに言ってんだよ! 訳わかんねぇよ! やめてよ!」

 

 彼女は(かぶり)を振って訴えた。

 

「自分を大切にしてって約束したじゃんか! 一緒に最期まで楽しんでくれるんだろ!」

「ごめん……ごめんなさい……でも! あなたを呪いに巻き込みたくはないの! あなたには、安らかに死んで欲しいから!」

 

 (むせ)ぶのと同時に言葉も吐くから、喉が渋滞して苦しい。息を吸うのも吐くのも痛い。

 

「呪いって」

「来るなッ!」

 

 歩み寄ろうとする千鶴に、殊更銃口を押し込んで見せた。

 止まってくれたと思う。視界が暗いし、なんだか滲んでいるから確証はないけれど。

 

「わたくしといるとあなたに呪いが、澄凰の呪いがかかるから……だからわたくしが今一人で死ななきゃいけないの! 必要な犠牲なの!」

 

 お願いだから分かって。分かってよ……。

 

 浅くなる呼吸を抑えつけようとするが、意に反して動悸は激しくなるばかりだった。

 

「ユヅっち聞いて」

「…………イヤ!」

「聞いて! 呪いなんて無いの。そんなものは最初から無いんだよ」

「無い? なにを言っているの……」

 

 あるとか無いとか、本当か嘘かではない。

 実際に様々な人が被害を被っている事実があるのだ。

 わたくしを非難した人には災いが降った。仲良くなった柴犬だって轢かれた。陰口を言っていた使用人だって燃えた。

 そして次は千鶴、あなたなのに。

 

「昨晩襲われたでしょう。あれはきっと、いいえ間違いなく呪いなの」

「あれは違う! 偶然だ! 関係ない!」

 

 違う? 関係ない?

 

 千鶴の全てを知っているような口ぶりが理解できない。

 

「もういいの千鶴。これで終わらせるから」

 

 この会話は時間稼ぎだ。

 彼女は時間をかけてわたくしを鎮めてから、説得したいのだろう。澄凰の呪いを否定して、「そんなものないから安心して」と銃を下ろさせたいだけなのだ。その優しさには感謝する。

 だけど、もういいのだ。

 

「後ろ向いてて。やっぱりあなたに見せるのは忍びないから」

「…………」

「ね。これが最後のお願いよ」

 

 安心させるために、精一杯の柔和な笑みを送った。きっと涙でぐしゃぐしゃだけどわたくしができる唯一のこと。

 夜空を流れる雲が位置を変える。

 わたくしたちの間に月光が差した。

 そして気づく。

 

 彼女は自分の頭に銃を向けていた。

 

「あなた……!」

 

 己の側頭部に銃口の冷たさを感じるわたくしたちが相対する。

 

「ユヅっちが死ぬなら……私も死ぬよ」

「え…………」

「終わるなら一緒に終わろ」

 

 はっきりと、短く、それだけ。

 目尻から一筋の涙を流しながら、彼女も笑顔だった。

 

 なに……それ……。

 

 急速に血の気が引くのが分かる。

 わたくしは彼女に生きていて欲しいから死ぬのであって、彼女が死ぬならわたくしの死は……。

 

 わたくしの行いが千鶴を殺す……?

 

「ほら行くよ。ちゃんと一緒にね」

 

 違う……これは違う。こんなの望んでいない。

 

「さん」

 

 彼女には生きていて欲しい。もっと相応しい形で死んで欲しい。

 

「にー」

 

 千鶴を死なせたくない。

 

「いち」

 

「だめ——————ッ!」

 

 銃声が夜の森に(ほとばし)った。

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