第40話
千鶴がしゃがみ込んでバイクをいじっている。辺りには工具が散らばっており、このガレージという場所も相まって整備工場の職員といった様子だ。
それを見ながら、わたくしは力なく座っていた。
あぁ…………死にたい…………。
「おーい」
目の前で手が振られている。虚ろな表情で見上げる。
「ユヅっち、終わったよ」
「そう」
差し出された千鶴の手。爪の黒い汚れは整備でついた汚れではなく、落としきれなかった誰かの血液。同じく血で汚れた手でその手を取った。
「楽しい楽しいツーリング旅」
「そうなるといいですわね」
千鶴は敢えて明るく振る舞ってくれている。その意図も気づいてるし、感謝もしている。ただ応えようという気力がどうしてもないのだ。
千鶴はリュックをお腹側に掛けてバイクに跨る。わたくしもリュックと、加えて弓袋を担いでその後部に乗った。
二人を乗せたバイクは朝四時の肌寒さの中、明導院邸を後にした。
昨晩のならず者の襲撃をからくも生き延びたわたくしたちは、旅へと早々に出発することに決めた。真夜中に出ることも考えたが、千鶴がわたくしを見て落ち着く時間が必要とと力説したので早朝になった。
壮絶な殺し合いをした後に眠れるわけなんてないと思っていたが、体は素直で横になれば意識を手放すのはあっという間だった。
そして今朝。目覚めたわたくしの世界から、再び色は無くなっていた。
最悪な寝覚めだった。取り乱すあまり、隣で寝ていた千鶴が飛び起きて宥める程。
「わたくしをどれだけ甚振れば気が済むの……⁉︎」
取り戻して歓喜したものを再び失う。どうせ取り上げるなら、最初から渡すなといもしない神に嘆いた。
「ユヅっち……ユヅっち……」
幼子をあやすように背を叩いてくれる千鶴の表情も沈鬱だった。今晩唯一あった良いことだ、と色の復活を喜んでくれた彼女のやるせなさを見るのも辛かった。
バイクは県境を超えて東京から群馬に入った。
早朝は静かだ。人がいないというのはもちろんだが、木々や小動物、自然もまだ眠っている。とにかく音が少なくていい。
そんな静けさの中で、わたくしはひっそりと心に誓う。
死のう。
明日、いや今日のうちに。
『自分のこと大事にしてね。約束だよ』
ごめんなさい。約束、やっぱり守れません。
昨晩の襲撃は間違いなくわたくしのせい。
澄凰の呪いのせいに違いなかった。
澄凰夕鶴羽に関わると不幸が降りかかるという悪名高い呪い。
ここ数日一緒に暮らして千鶴には大きなアクシデントは無かったから、結局誰かが流布したくだらない迷信だと意識の彼方に忘れていた。わたくしを忌避したい人の都合のいい理屈だと。
だが昨日だ。
千鶴は暴力を振るわれ、命さえ取り留めたものの不幸に違いなかった。
信じがたいが呪いは実在する。幾人も傷つけて、千鶴でさえも毒牙にかけた呪いは、最早否定するには前例が多過ぎる。
わたくしのせいだ。
わたくしが側にいると、千鶴は不幸になる。今度こそ死んでしまうかもしれない。
だからこそわたくしは彼女から離れることに決めた。
千鶴には最後の日までちゃんと生きていて欲しいから……。
千鶴にはなにからなにまでお世話になって、生きる楽しさを教えてもらった。そんな恩人を苦しめることなんてできない。
千鶴の健やかなる最期のために死ねるのであれば、わたくしは本望だった。
昨日指切りをした自分の小指をそっと撫でる。
ただ約束を破ってしまうこと、それだけは申し訳ないとひっそりと謝罪をした。
「見て! 川だよ!」
出発から一時間程度。千鶴が大きな声を上げたので、物思いから帰ってくると、確かに川があった。東京の護岸工事された川とは違い、丸い礫だらけの自然に近い川。水面が日光を受けてキラキラしている。
「休憩しよ!」
川の近く、バイクで行けるところ限界で停車し地に足をつけた。んー、と千鶴がストレッチで体をほぐすのをぼんやりと見つめる。
「川を登っていったら温泉に着いたりするのかな」
「……もしかしたら? かも」
目的地は群馬県の温泉。やりたいことリストの一つだ。シャワーは浴びれず拭き取るだけで、全身についた血を洗い落とすことはできなかったからちょうどいい。わたくしにはもう関係ないが。
河原に座り込んで川を眺める。一方彼女は旅行ガイドブックと地図を睨んで現在地を確認していた。
「ゆっくり浸かって癒されてぇー。一旦落ち着きたいよ。なぁ?」
「ええ」
「浸かりながらお酒とか飲んじゃうか。あれって実際美味しいのかな。漫画とかでよく見るやつ」
「お湯の温かな気持ちよさに包まれながら、酔うのが良いのでしょう。やってみたいですわね」
「ユヅっちすぐへばるから、私は少なめにしとくかな〜」
今はまだ千鶴には隠しておく。
死ぬって言ったら千鶴は間違いなくわたくしを止める。
だからこっそり消えるつもり。
それまでは未来を語る。
「お?」
千鶴が草むらから小さな箱を拾い上げた。
「見て、タバコ」
「はぁ」
「結構キレイ。中身も……少ないけど湿ってない」
千鶴は一本取り出してじっくり観察する。そしてわたくしに黄色いほうを向けた。
「猫草、する?」
「…………ええ」
特に吸いたい理由は無いですけど。どうせ死ぬなら記念に。
差し出されたタバコをそっと咥えてから、火をどうしよう、と困っているとすかさず千鶴がライターを灯す。野宿することに備えて持ってきたものだ。
タバコに火を当ててもらうとすぐに煙が立ち昇った。
「吸ってみて」
「…………っ、げっほげっほ」
咽せる。煙が喉を通る途中で拒否反応が出た。
「なんでしょう……体に悪いものが入ってくると本能的に感じますね、んんっ」
「愛煙家はそれがクセになるんだろねー」
千鶴も続いて燻らせる。随分と板についているのは非行少女のオーラ故か。
「ふぅー、やっぱまじいわ。まだ苦手だな。イガイガする」
そう肩をすくめると一口吸ったタバコを踏んづけてしまった。そしてペットボトルの水を含むと、ガラガラ喉うがいをして吐き出す。
それを眺めながらわたくしは二口目を吸った。今度は咽せせないようにゆっくりと吸えば、先端の燃焼がじわじわと近づいてくる。味? と言っていいのか不明な風味が流れ込む。
「っふぅーー」
吐き出した煙が空へ昇る。
まずい。
そう思いながらも次は美味しいのでは? ともう一回口へ運ぶ。それを繰り返して結局使い古しの鉛筆くらいまで吸ってしまった。
わたくしは猫にはなれない。
「ねね、ユヅっち」
「どうしました?」
「水切りしようよ。やったことある?」
石を拾い上げたことから察するに、水面に石を放って跳ねさせる遊びだろう。
やったことはないし、今朝からの沈鬱な気分ではやる気もなかった。
別にわたくしはやりません、と言いかけて止まる。
「ないですね。では教えてください」
「おっ、ではこのマスター級水切りストの千鶴が伝授しよう!」
ずっと落ち込んでいると希死念慮を気取られるから。
わたくしは興味津々を演じて立ち上がった。




