第39話
玄関ホールの螺旋階段から二階へと上がる。急ぎながら。されど慎重に。
いつさっきのように急襲されるか分からない。踵からついてつま先で床を蹴る。足音が極力小さくなるように。
「あーやられたやられた。血気盛んな若者だわ」
ミナミの声がした。
そこは千鶴の部屋の前、昨日弓を引いた廊下だった。廊下の端に放置していた展示台に身を低くして隠れる。
「それは先に殴ってきた分のお返しだから文句言わないでよね」
スマホのカメラレンズだけ覗かせて状況を観察すると、三人の人間がいた。横を向いているのがミナミ。さっきまで無かった腫れが右頬にできていた。こちらに背を向けて立っている男性、おそらくあれがショウジと呼ばれていた男だろう。こちらもなにかされたのかお腹を抑えて猫背気味だ。
カメラをズームさせる。ミナミの正面、右の壁に背を預けてくずおれた少女、それが千鶴だった。
生きていることに安堵するが、状況は芳しくない。いつも見せてくれる元気が全く無かった。ここまで一方的にやられているということから察するに、千鶴は拳銃を手にする前に襲われている。
「あー気持ち悪ぃ」
ミナミはペッと赤い唾を吐いた。
「……ちに……」
「あぁ? なんだぁ?」
なにごとかを呟く千鶴にショウジが品のない口先を向ける。
「ユヅっちに、手ぇ出したら殺す」
「お前立場分かってのかよ!」
ショウジの蹴りが千鶴の腹に入った。
「……ッ」
いても立ってもいられなかった。
煮えたぎる怒りが瞬時に静かなる殺意に変わり、体が飛び出す。理性なんてない。ただただ直情的に。
そのとき目指した先で太い悲鳴が上がる。
「だぁッ! こいつ! 爪が! 脚に!」
ショウジが千鶴に爪を食い込まされて無様に片足立ちになっていた。千鶴の反撃だ。わたくしはそこに目掛けて直走る。
「お前——」
ミナミがわたくしを見た。もう遅い。
「うぁッ……」
手にした果物ナイフはショウジの首に突っ込まれた。力任せに引き抜くと、噴水のように血を吹き出しながら倒れる。
…………赤い。
鮮烈な色の受容に脳が沸く。クラクラする。
喉を掻きむしるように暴れていたそれはすぐに動かなくなった。実に呆気ない。
「テメェッ!」
背後から迫っていたミナミの右の拳をすんでのところでかわす。が、左の拳はわたくしの顎をとらえた。体験したことない衝撃に視界がチカチカと点滅した。
痛い…………。
今度は蹴りが手首にクリーンヒットし、掴んでいたナイフが飛んでいった。
この女は強い。なにかしら格闘の経験があるのかもしれない。自分じゃ勝てない。
痛みの危険信号を受け取りながら、妙に冷めている頭で思う。
不思議だった。
生きたい。
千鶴を助けたい。
渇望はあって、感情が昂っているのに、どこか静かなのだ。
おかしいな。元々おかしいか。
ミナミに押し倒され、受け身もままならないまま背中を打つ。
ミナミがポケットからナイフを抜いた。
「ユヅっちッ!」
のしかかっていた体重が無くなり、もんどり打つ音が聞こえた。
千鶴が落ちていた皿の破片でミナミの腹を刺して、突き飛ばしたのだ。
赤い。
「お前までぇッ!」
唾を飛ばしながら横薙ぎに振られたナイフを千鶴がバックステップで避ける。
距離を置いた千鶴に向かって、ミナミはナイフを投擲した。
顔面に飛来する刃。千鶴ははたき落とすように、横からナイフの面を叩く。
しかし視界が己の腕で覆われてしまう、その瞬間をミナミは狙っていた。
千鶴に飛び掛かろうと背を低くする。
腹に破片が刺さったままだというのに、肉食獣のような獰猛さだった。
一拍反応が遅れている千鶴。
ミナミはさらにもう一本の折りたたみナイフを構えた。
いけない。
わたくしは無我夢中で相手の足首を掴んで引き倒す。
「邪魔だッ!」
「んがっ——!」
スニーカーの靴底が下顎を強かに打ち据えた。
首が折れたと思ったが、まだ生きている。
痛い。痛い。
二発、三発と蹴りが飛んでくるが手は離さない。
死ぬかも。
血の味を覚えながらミナミを睨むと、その背後には千鶴が脚を振り上げていた。
「このッ!」
ミナミの顔面に爪先がめりこみ、動きが停止する。
その隙で充分だった。
ミナミの腹に刺さりっぱなしだった皿の破片を引っ掴む。
「————っ」
刺した。
「ああッ——」
もう一度刺す。さらにもう一度刺す。
抜いて、振り下ろすように刺す。
「……」
何度も。
「…………」
何度も。何度も。
赤い。
怖い。
死ぬかと思った。
千鶴を助けられた。
色が戻った。
痛い。
何度も。何度も。何度も。
助かった。
嬉しい。
色だ。
人を殺した。
どうしよう。
怖い。
分からない。
赤い。
何度も。何度も。何度も。何度も。
「ユヅっち! もういい! もういいの!」
千鶴がわたくしを抱きしめる。壊れた機械のように振り下ろす手から破片を捨てさせた。
「もういい。もういいんだ……大丈夫……」
茫然自失で千鶴の顔を見た。
「ユヅっちのおかげで、だから、ありがとう……」
「…………」
千鶴の髪色は紫色だった。
それはそれは鮮やかで、綺麗な紫。
極彩色に喜ぶ。
「千鶴」
彼女の体に腕を回した。
千鶴もそれに応えてくれる。
血溜まりの中でわたくしたちは抱きしめ合った。




