第38話
「うわっ!」
わたくしは全身を使って彼の背中にぶつかった。体重が左足に集中していたリョウタは前のめりに倒れる。それを見届けないうちにわたくしは脚で扉を閉ざした。
早く早く早く早く!
扉を押さえつけながら、腕をくねらせて拘束の解除に取りかかる。
「なっ、お前! 騙したなッ! げっほ……」
リョウタは怒りを叫んだ矢先、腐乱臭に咽せかえっていた。
急いで!
これを解いた後は走って隠れるなり、武器を取るなりして千鶴のもとへ急がねばならない。家は静か過ぎて千鶴の様子は不明だが、だからこそ迅速に。
「おい! 開けろッ!」
ドンドンドンドンと衝撃が伝播して背中がビリビリする。このドアを開けられたら今度こそ終わり。チャンスは二度ない。
脚を伸ばしてストッパーのように踏ん張る。足裏を床に最大限密着させて摩擦を強める。
この、集中させなさい!
リョウタは拳で叩くのをやめ、重いタックルで開通を試みる。その度に扉が数センチ開くので、それを押し返して防ぐ必要があった。おかげで腕だけに意識を割くことができない。
ドンッ! ドンッ!
もう少しなのに!
「ぐッ——!」
テープの隙間を少しでも広げようと、奥歯が割れそうなほど噛み締めながら力を込めた。皺寄せで細くなったテープが肌に食い込む。構いはしない。
あと少しで手首を抜けられる!
しかしわたくしは手首に意識を集中し過ぎていた。
一際勢いのある体当たりを防ぎ切れなかった。ハッとしたときには既にもう遅い。
弾かれるようにつんのめって振り返る。
そこには憤怒の形相をしたリョウタがナイフを両の手で握り込んでいた。
「お前……お前……許さないッ! 僕の気持ちを弄んでぇッ! 絶対に殺すッ!」
怒声と唾を撒き散らしながら突っ込んでくる。
こんなことって……!
肉迫してくる彼を睨む時間は間延びして感じられた。
お膳立ては完璧だったのに、やり切れなかった。
悔しさと絶望が急速に伝播して筋肉を硬直させる。
近づいてくる。
ナイフが構えられた。
その高さはわたくしを確実に殺す喉。
わたくしを殺そうとする一挙手一投足は認識できるのに、体は動かなかった。
死ぬ————
リョウタの瞳に写ったわたくしは、もう死体のような絶望の果ての顔をしていた。
ナイフが迫る。
バリンッ!
「ッ……!」
長い長い廊下を反響して届いてくるなにかが割れる音。
それはきっと千鶴に危険が迫っている音。
千鶴の…………。
千鶴のところに行かなきゃいけない!
ただそれだけを考えて、拘束された両手を掲げた。
少しでも致命傷を避けるための捨て身の防御。
そして偶然にも、凶刃は手首の間のテープに突き立てられる。
そこからは全て反射的に動いた。
両腕を右方に振り抜いてナイフを逸らす。切れ目の入ったテープは容易く裂けた。上体の捻りに力を乗せて、わたくしの拳は初めて人を殴った。
カランと音を立ててナイフが落ちる。
「お前ッ、よくも! 僕をこんな——」
応答するつもりはない。
転がり込んでナイフを拾い、滑らぬようきつく握って。
リョウタの腹部に突き刺した。
リョウタ、そのまま背部を打ちつけて倒れる。
「ふうっぐ……はぁっ、ふざけるなよッ! どいつも、こいつも僕をいじめてッ!」
ドクドクと流血が止まらない傷口を押さえながらリョウタが吠える。
逆手に握り直す。体の内部まで刃を通すため。
確実に、仕留める……。
「ああ、ああああッ!」
リョウタに馬乗りになり、振りかぶる。
「ミナミッ! ミナミッ! 助けてッ! ミナ——」
ナイフは胸部の硬いなにかにゴリッとぶつかってから、横に逸れて深々と突き刺さった。
「………………」
リョウタが動かないことをたっぷり確認してから、忘れていた呼吸を肺いっぱいにして脱力する。
人間を殺めた。
自分と同じ生命を奪った。
その事実を確かめるように、わたくしは真っ赤に染まった手を見つめた。
…………真っ赤?
震えながら自分の手のひらを閉じたり開いたりする。
「うそ」
間違いない。
色白の肌が鮮血で真っ赤に濡れている。
「うそ、うそ……」
今いる世界が現実なのか、わたくしは死んだのか。全てが疑わしくて辺りを見回した。
リョウタの死体の赤色。
窓の外に浮かぶ月の黄色。
自分の服を引っ張って、借りていたシャツが薄ピンクだということを知る。
疑り深くて、自分が作ったリョウタの傷口に指を突っ込んだ。ぐちゅりと音を立てて、爪の間まで赤に染まる。
自分の存在すら危ぶんで、血濡れた両手で頬をなぞる。
「………………あは」
どれだけ訝しんでも幻覚ではない。
窓ガラスに反射したわたくしはべっとりと顔に血をつけて現存していた。
絶望の中で失い、戻ってくる望みなどとうに捨てていた色がわたくしに戻ってきている。
…………行かなきゃ。
刺さったナイフを抜き取る。モノになったリョウタから立ち上がると、靴がピチャリと鳴った。
廊下を歩き出して、だんだんと駆ける。
千鶴を助けるため。
あるいは色を欲して。




