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第37話

「…………」

「…………ごめんね」

「良心の呵責がほんの僅かでもあるというなら、これを解いてくださる?」

「それはできない」

 

 でしょうね、という気持ちを全く隠さない深いため息をつく。

 リョウタは右腕を抱きながら所在なさげに下を向いていた。ゲームコーナーで会ったときと同じく自信の無さが挙動に現れている。それでも垂れ下がった右手には果物ナイフを握っており、わたくしが逃げ出そうものなら使うのは厭わないだろう。

 

「どうしても?」

「どうしても。ミナミはこんな根暗で取り柄のない僕を好きって言ってくれたから……裏切れない」

「とても良好な関係には見えませんでしたけど」

「それは……」

 

 そこでわたくしはあることに気づく。しかし気づいたという事実を悟られないように自然にされど素早く目線を他にやる。

 考える時間が欲しい。

 

「それは、一体なんですの。暇ですから聞かせてくださいな」

 

 リョウタに喋らせるためにわたくしは興味のあるフリをする。

 

「ミナミはショウジを好きになっちゃったから……。それでも一人にしないでってお願いしたら、近くにいることを許してくれて。たまには僕とも恋人みたいなことをしてくれる……すごく良い人で……好きなんだ」

 

 このテープ、緩い……。もしかしたら自力で抜けられる?

 

 リョウタの拘束は隙間があり、時間をかけて腕を上手に使えば抜け出せそうだった。きっとミナミに怒られたくない一心で拙速になったのだろう。仕上げが甘い。

 ただ当然解くために腕をくねらせれば脱出を図っていると一目で分かる。

 

 どうすれば……。

 

「リョウタさんは健気なんですわね。先程の言葉撤回させてください。良好ではないなんて言った自分を恥じております。彼女を愛する気持ち、素敵だと思いますわ」

「そうだよね! 僕はおかしくないよね! なんとしても一緒にい続けたいと思うのはおかしくなんてない!」

「おかしくないですわ。あなたも彼女もお互いを想っているではありませんか」

 

 美しいです、と笑みをつけ加えた。

 脱出を画策しながら、テキトーな上部を繕うのはマルチタスクだったが、案外難しくはない。元より頭を使うのは得意。次期当主として鍛え上げてきた頭脳が思いがけず役に立っていた。

 

「話は変わりますけど……どうやってここまで来たのですか? まさかGPSでもあるまいし」

 

 このテープから自力で脱出するというゴールは見えた。

 あとはゴールにどうやって辿り着くか。

 

「この前会ったとき、もう一人の子がいたでしょ。その子が君のことを澄凰さんって呼んだから」

「……なるほど」

 

 あのときの自分らの失態が今こうして芽吹いているのを自覚して思考が躓いた。

 

 今どうするかを考えるのです。

 

 落ち着くために深呼吸を挟む。

 

 ……嫌な匂い。

 

 深い息は鼻につく匂いを感じ取った。ミナミの香水ではない。

 

 ……腐乱臭?

 

「ミナミに話したらそいつのところに行こうって。ニュースで澄凰のお屋敷は散々見たから場所は知ってて。でも君の家焼けちゃってたよ?」

 

 見回して気づく。どうもわたくしは気が動転していたようで、ここがどこか今察する。

 腐乱臭そして床の汚れ。走ってきた少し後ろにある扉。

 千鶴の父親が死んでいる部屋だ。

 

「そう。だから偶然出会えた友人の家に居候させてもらっています」

 

 瞑目。

 

「僕たちもこの家に来たのは偶然。帰り道に豪華な家があって、そしたら君たちがいたんだ」

 

 今ある条件から最も勝算のあるルートを割り出す。この男を乗せるシナリオを編み出す。この拘束を解く時間を稼ぐために。

 考える。

 

 …………これなら、いける。

 

 筋書きはできた。賭けになる部分はあるが仕方ない。やらなきゃやられる。

 わたくしは瞼を持ち上げた。

 

「ところであなた……ミナミさんとは、今のままでいいの?」

「え、どういうこと?」

 

 リョウタはミナミという単語にバッと顔を上げた。

 

「ミナミさんは残念ながら他の方とも付き合っているのでしょう。リョウタさんは彼女を独り占めしたくないのかしら……と思いまして。わたくし恋に詳しいわけではありませんが、自分だけを見て欲しいという独占欲は理解できますもの」

「それは……僕だってそうしたいさ。でも我儘言って捨てられるのが一番嫌だから」

「変えたくありません?」

 

 リョウタの揺れがちな両目に自分の両目を微動だにせず向ける。

 

「なにを言ってるの」

「ここ、立派な邸宅でしょう。知ってか知らずかあなた方が来たのは、澄凰財閥に負けず劣らず繁栄した明導院家ですわ。そしてそこの部屋」

 

 わたくしは自分が走ってきたほうの扉を顎で示す。

 

「あそこに明導院家当主の死体があります」

「し、死体⁉︎」

「説明はかなり省略させていただきますが、わたくしの連れが娘で、かねてより親子関係は最悪。世界が滅亡するからどうせならと殺したらしいです。そしてその死体は今、拳銃を携えて死んでいます」

 

 九割本当だが拳銃は一割の嘘。真実に少しの虚構を混ぜる、相手を話に乗せる常套手段だ。

 死体。拳銃。日常ではまず遭遇しないシチュエーションにリョウタは目を白黒させて当惑していた。

 

「わたくしたちは身に余る危険なものを持ちたくはないし、なにより死体漁りは嫌悪感でできない。でもあなたには持つべき理由があると考えています」

「……非現実的過ぎて信じられないけど前提として確認させて。君がそれを話した目的はなに?」

「わたくしを解放してください。銃の情報は手付金(てつけきん)みたいなもの。解放してくれたのならば、追加で一つここの有益な情報を提供しましょう」

 

 それを聞いてリョウタは残念そうに肩を落とした。

 

「その交渉は飲めないよ。僕はミナミを裏切れない。だからそれは——」

「いいえできます」

 

 相手の言葉を遮って断言する。

 

「あなたが一番恐れているのは、ミナミさんの命令に失敗して捨てられること。そうでしょう? ですが考えてみてください。あなたが強大な力、ミナミさんを従わせる絶対の力を持ったとき、あなたの失敗は些末事(さまつごと)になって問題ではなくなる」

「っ……!」

「お気づきになりましたね。あなたが拳銃をちらつかせれば、愛しのミナミさんを力で支配できるのです。失敗がなんでしょうか。激怒した彼女の眉間に一度銃を向ければ口を閉ざします。そのまま押し倒して衣服を剥いで欲望をぶつけたっていい。リョウタさん、あなたの思うまま」

「そんなの良くないよ……」

 

 彼は服の裾を握って震えていた。きっと頭の中で葛藤している。罪悪感と欲望。

 だが想像は歯止めが効かない。好いているのに無碍(むげ)に扱ってきたミナミを、逆転して屈服させている様子を思い描いてしまう。

 

「あなた言いましたわ。『なんとしてもでも一緒にい続けたいと思うのはおかしくなんてない』その通りです。罪悪感なんて感じる必要もないのですよ。もとよりミナミさんだってそういう人間でしょう」

「そ、そうだ……」

「たまには支配される側を体験させてあげるのもいいでしょう。あとは……ショウジさん、でしたっけ? 邪魔でしょうから殺してしまいましょうか。ショウジに銃を突きつけて、そいつの前でミナミさんを()かせて、悔しそうな表情を見ながら絶頂に至る。そうして脱力感のついでに殺しましょう」

 

 自分でも驚くほどスルスルとセリフが口を出てくる。財閥の取引関係者とのネゴシエーションも少なくなかったから、自信はあったのだが、些か自分の能力を過小評価していたみたいだ。口先一つで人心をここまで揺さぶれるとは。

 リョウタは自己肯定感の低さから、歪んだ恋愛観を飼っていることが時間稼ぎの会話から察せられた。だったら多少歪んだ提案であっても、煽るように(そそのか)してやれば乗っかってくる。わたくしの予想は的中した。

 

「いいの……いいの? いいのかな? ミナミを僕のものに……」

「いいのですよ。全てはあなたの思い通りに。変えたくありませんか?」

 

 だけどわたくしの見立てだと、こいつはバカではない。渋谷のゲームセンターでは自分の居場所を悟られないように立ち回っていた男だ。思惑は捻じ曲がっていても、選ぶ手段は堅実。

 だからきっとこう言う。

 

「けど……だけど信用し切れない……。死体だって拳銃だって実在するか……」

 

 流石思慮深い。

 

「辺りの血痕と匂いが死体の証拠。拳銃に関しては、グローバル企業当主だから所持していた、としか説明できかねます。ご自分の目で確かめていただくのが確実なのですが、どうしたら信用していただけるか……」

 

 どうしたものかと仕草に出して逡巡する。

 

「じゃあこうしよう。僕が銃を確認してから、君を解放する。先に解放して嘘だったらいけないから」

「なるほど、それで構いませんわ。銃が無かったら、縛られたわたくしを殴ってもらって構いません」

 

 そう、それ。その提案を待っていましたの。

 

 全部が全部相手の提案で交渉が進むと、人はイニシアチブを取られていると怪しむ。だからこうしてリョウタに、ただ乗せられているわけじゃない、自身の決定が通っているという安心感を与えてやるのだ。

 

 準備は整った。

 

 わたくしたちは扉の前に立つ。

 リョウタがドアノブを手前に引いた途端、生理的嫌悪を伴う匂いが空気の流れに乗ってきた。隔たりを無くすとこんなにも強烈なのかと顔をしかめる。数日と経たないうちにハエがやってくるだろう。

 

「酷い匂いだ。死体に関しては信じざるを得ないね」

 

 リョウタを横目でちらりと確認する。

 匂いに怯んではいるものの、銃の入手にはより前向きになっているようだ。わたくしがちゃんと手元にいるという安心感もあるのだろう。

 

「行きましょう」

 

 わたくしはさりげなくリョウタの斜め後ろに立った。

 リョウタが中に入ろうと右足を持ち上げる。

 それが好機だった。

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