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第36話

 待つという選択肢は無かった。

 コップを放って体当たりで突き破るように廊下へ抜ける。

 銃を置いているだろう千鶴の部屋は二階。エントランスの大回りな螺旋階段から登る必要がある。

 家のどこからか乱暴にドアが閉まる音がした。通常なら八つ当たりのときしか出ないような荒っぽい音だ。

 この家でなにかが起こっている。

 

 銃もあるし、ケンカ慣れしてる千鶴に滅多なことはないはずですけど……!

 

 左方の扉が進路を阻むように開かれた。

 

「……!」

 

 女性だ。扉から女性が躍り出る。千鶴じゃない。

 肉迫。

 

「ぐっ」

 

 驚き、判断が鈍ったわたくしは愚鈍だった。あっという間に首を腕で締められピタリと背後につかれる。キツい香水の匂いが鼻孔を叩く。

 

「誰——」

「うっさい。殺すよ」

 

 輝くように見せられたナイフはわたくしの口を閉ざすのに充分過ぎた。

 

「こうやってやるんだよ。分かった?」

 

 女性が語りかける先、開かれた扉から一人の青年が出てきた。

 

「あなた……」

「黙れ」

「……っ」

 

 青年の右頬には三つ並んだニキビ。

 渋谷駅のゲームコーナーにいた青年だ。

 

 どうしてここに……。

 

「こいつの手首をテープで巻いて拘束して」

 

 女性が青年に指示を出す。その口調からは双方の上下関係が推し量れる。

 

「…………手出して」

 

 抵抗できないわたくしは手首を揃えて出すしかなかった。青年はそれを認めると肩掛けのポシェットから布テープを取り出す。

 しかし青年はテープの端が見つからないようで、テープを回して手間取っているようだった。

 

「早くしろよ! おせぇな」

「……すいません」

「とろいんだよ。ったく」

「…………すいません」

「足はいい。あとで移動するとき担がなきゃいけなくなるから」

 

 これ以上女性の機嫌を損ねないように、青年は急いでわたくしの手の自由を奪った。

 

「できた?」

「はい」

 

 女性はわたくしが反抗できないことを確認すると、首を締める腕を解いて突き飛ばす。

 

()っ」

 

 受け身も取れずに床に倒れたため、ゴッと肩に痛みが走る。

 

「へーやっぱ育ちがいいと美人じゃん。血統書付きってやつ?」

 

 この人、わたくしの素性を知っている?

 

 痛みを堪えた目を開けて初めてその女性の出立ちを観察できた。胸元が大きく開いたタンクトップとダメージジーンズ。かき上げた髪は今でこそ乱れてはいるが、世界がこうなる前は気遣っていたと分かる美しさがある。二〇代後半の大人の女性だ。

 女性はしげしげと見下ろしてくる。ショート丈で露出したわたくしの脚へ送る視線には下品な思惑が顕著であった。

 行動、口調、服装。その全てからわたくしとは住む世界が違う、世俗にまみれた人だと量れた。

 

「これなら残りの日も楽しめそう。リョウタたちはもういいや。あんたたちとヤるのもう飽きたし」

「えっ」

 

 リョウタと呼ばれた男性は驚きを浮かべる。

 

「余りもの同士でよろしくやってなよ」

「聞いてないよミナミ。そんなの」

「なに? 文句あんの? 今まであんなに遊んであげてたのに?」

 

 有無を言わせない畳み掛けにリョウタは唇を噛んで俯いた。

 

「礼節を欠いたご挨拶のうえにホストを放っておくとは……いったいどちら様ですの?」

 

 腕を器用に使ってなんとか上体を起こし、キッと睨みつけた。こんな荒い扱いのうえ、無いもの同然で会話されても困る。

 恐怖はある。だがそれよりも理不尽への怒りが強く燃えている。

 理不尽を甘んじて受け入れる自分は昨日の学校に置いてきたのだ。

 

「これは失敬。腐っても澄凰のお嬢様だったわね」

 

 ミナミはわたくしに一歩迫ると、膝を折って目線を合わせてきた。子どもに相対するように。侮られている。

 

「単刀直入に言うよ。この屋敷をもらう。世界の終わりまで良い暮らししていたいから。電気もあって豪邸で、食べ物だって蓄えがあるんでしょ。最高じゃない!」

「生憎水道は使い物にならないですわよ」

「そうなの? それは残念。でもその不足を補って余りあるメリットもあるわ」

 

 わたくしの鼻梁に人差し指を突きつけた。

 

「あんた」

「……」

「窓から覗いててビビッと来たね。あんたすっごく好み。リョウタは使えないけど、あんたを発見したことは最大の褒めポイントね。そこだけだけど」

 

 あはは! とミナミが笑うのに対して、リョウタはまたしても苦い顔をする。だが悪いけどあちらを慰める気なんてさらさら無い。

 

「意中の相手に大層なアプローチですこと。恋愛術とか学びませんでしたの?」

「もっと優しくが良かった? ごめんねーこれが私の性分でさ。それに」

 

 ミナミはわたくしの腕にナイフをツーっと滑らせた。きっと赤いだろう血が軌跡ににじむ。

 

「あんたは意中の人じゃなくて、飼いたいペット。飼い犬には噛まれないように最初から上下関係分からせないと」

 

 わたくしを捉えた瞳にわたくしは映っていない。恍惚さが全てを覆っていた。一方的な立場からお気に入りの相手を痛ぶる嗜虐心でいっぱいいっぱいのようだ。

 腕に劇的な痛みはない。その代わりこの女から感じる気持ち悪さは尋常じゃなかった。

 従順にしていれば殺されることはないかもしれない。だがその先にあるのは欲望の捌け口としての飼い殺しだ。殺され方が違うだけ。

 わたくしの死ぬ場所は……もっと他にある。

 

「反抗的な目だね。これが消えるのが、あぁ! 楽しみ!」

 

 天に両手を上げて喜ぶ姿は悪魔信仰のようだった。

 

「さて、私はショウジのとこ行くよ。もう一人は負けん気が強いんでしょ? そういう子を分からせるのも一興よね」

「……!」

 

 もう一人、というのは千鶴。そしてショウジは別の仲間のことだろう。今千鶴の元にも魔の手が迫っているのだ。

 

「リョウタ、ちゃんと監視しとけよ。いくらなんでも子守りならできるよな」

 

 それだけ残すとミナミは余裕綽々(しゃくしゃく)と歩き去った。

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