第34話
入口の自動ドアは当然自動で開かないので力技で押し通る。さながらモーゼの如く。
屋内は……普通だった。入口からハートたっぷり、一面ピンクのラブリーワールドだと思っていたのだが予想外だ。いやもしかしたらピンク色かもしれないけど。
「これは……?」
入口近くの壁にパネルが貼ってあった。ライトで照らしてみると、そのパネルの一枚一枚には部屋の写真が描かれており、カタログのような印象を受ける。
「それは部屋紹介。こっから好きな部屋を選んで鍵を受け取るの」
「ほう……なるほど。わたくしは知ってはいましたが、ご確認の解説感謝いたしますわ」
「……いや、ユヅっちの立場でこのシステムを知っているのもどうかと思うけどね」
パネルを一〇一号室から順番になぞって、四階のスイートルームを選んだ。どうせタダなら一番豪華な部屋へ。
しかし停電の影響で機械は生きておらず、予約も鍵受け取りもできないので階段でそのまま部屋に行く。鍵ならあるのだ。万能なやつが。
「はいオープン」
一分程度で閉ざされた扉が素直に道を空けた。
「……あなたが敵じゃなくて心底安心しました」
「え、なんで」
千鶴に喧嘩を売った夜は満足に寝られないだろう。仮に寝首をかかれなくても、秘密のプライベートを押さえられたら逆らえない。増してやこんなホテルまで暴かれたら……。
扉をくぐった先をスマホのライトで照らすと、光の照り返しが確認できる。どうやら床は大理石のようで、スイートルームは伊達ではない。どんなポーズでも写してくれそうな巨大な鏡を通り過ぎる。
「当たり前だけど暗いな。明かりがつくといいんだけど……あっ」
灯った。
きっとバッテリー内蔵でプラグで電気が供給されなくても点く代物なのだろう。
だがわたくしの関心は使えるライトではなく、わたくしたちが立っているこの場所に向いていた。
「わぁ……」
わたくしたちはお菓子の国にいた。
エクレアのソファにドーナツのクッション。ホールケーキを模したベッドは実に柔らかそうで、天井のシャンデリアは蝋燭を象っている。甘いものをコンセプトにお菓子のインテリアで構成された部屋なのだ。
「なるほど。スイートルーム」
クッキーとココアクッキーでチェック柄になっている壁に触れる。確かに甘くて美味しいとってもスイートなお部屋に違いなかった。
「女の子の夢いっぱいって感じの部屋。いいね」
「全部食べられたら幸せですわ」
「また食い意地張ってる」
美味しそうなのだから仕方がない。
わたくしはテーブルの上の個包装のチョコブラウニーをひょいと口に入れた。これは実際に食べられる。
「こういうファンシーな非日常空間もいいのかもね。エッチなことするときは」
千鶴は含みがあるように後半を強調した。わたくしを揺さぶっているのだ。
しかしわたくしの関心はかわいらしい空間にぞっこんで、千鶴が「エッチ」と言うまでここがラブホテルであることを忘れていた。そしてその事実を認識しても、恥ずかしいより美味しそうという感触が勝っている。
つまり初めてのラブホテルにわたくしは少しだって恥じらいも動揺も持っていないのである。
この勝負、わたくしの勝利ですわ。
素敵な空間を紹介してくださってありがとう、とこれ以上ないくらい柔和な笑みを差し向ける。ついでに完全なる勝利宣言のドヤ目を添えて。
覇者の余裕を湛えてベッドに腰掛けると、はんなりとそして雅に脚を組んでみせた。
「さてどうします。休憩していきますか? わたくしは一向に構いませんわよ(余裕なので)」
小首を傾げて千鶴の答えを待つ。
「…………」
千鶴がこちらに寄ってきた。果たして勝負に負けた千鶴はどんな言葉をくれるのか……。
あれ?
わたくしは覇者のはずなのに、千鶴から見下ろされていた。なにも言わずただ立ちはだかる姿を仰ぐと、わたくしは自ずと昨晩の記憶が蘇ってきた。
「ユヅっち……襲われたいの?」
「え、いや……!」
あれ予定と違う、こんなはずでは……?
「自分からベッドに来ちゃって、そんなやっすい挑発して。誘い受けにも程があるでしょ」
いやいやいやいや! わたくしは別にそんなつもりじゃ!
肩を掴まれる。力は強くないけど、なぜだが絶対に逃げられない気迫がその手にはある。
「昨日の、もしかして気に入っちゃった?」
「あ、あなた!」
その発言は聞き過ごせない。
「昨日の夜のこと覚えていらっしゃるの⁉︎」
「は? 当たり前だろ」
千鶴は高いところから物を離すと落下するよ、くらい当然といった様子で腕を組んだ。
「てっきり昨晩のことは忘れてしまっていると……」
「いやそれ私な。朝どんな顔して切り出してくるかと期待してたのに言及ゼロ。酒で記憶飛んでんのかと思ったわ」
「……返す言葉もありません」
謝ろうとはしたのだ。けど覚えてないなら触らぬ神に祟りなしというか……。
今その話題のカードを切られるなら謝っといたほうが吉だった。
余裕の盤面だったのは過ぎ去りし栄光で、完全に主導権を握られてどうしようもない。背を丸めて小さくなるしかなかった。
「で、昨日のが忘れられなくてまた誘ってるってことか。そんなに気持ちよかった?」
「気持ちいい……ってそんなわけじゃ……! 座ったのはたまたまで誘ってるとか……」
あっつい!
顔が沸騰したみたいに熱い。今自分の顔を見たら恥ずかしいくらいに真っ赤な気がする。色分からないけれど!
真っ赤であろう顔に千鶴はずいっと目の高さを合わせてきた。
「気持ち悪かった? もうしたくない?」
昨日のキスの話から逃してくれそうにない。
「…………いえ」
観念するようにわたくしは答えを準備するしかなかった。
瞑目してアルコールでふやかされた記憶の輪郭を確かめる。
「否定的な印象は無くて……ただあれが気持ちいいって言う感情なのかどうか、分かりません。その……ファーストキスだったから……」
なにを言わされているのわたくしは!
逃げたい。まるで懺悔のようにきまりが悪い。余裕綽々を演じていた手前、経験値の無さを晒すのは自分で塗ったメッキを自分で剥がす行為だった。
「……へぇ……初めて」
「当然でしょう……! 自由恋愛できる身分じゃなかったのですから」
ぶっきらぼうな口調になってしまう。
「ふぅん」
千鶴は口をキュッと一直線に結んだ。
「まぁいいや」
そしてわたくしの隣にぽふっと腰掛ける。そして脚を伸ばしてぱたぱた。
ラブホごときじゃ動じないって言ってたのにねぇ〜ん、とか詰められると身構えていたわたくしにとって、彼女の動きは予想外だった。
そのうえ次の言葉も予想外。
「今のユヅっち表情豊かでいいよね」
「……表情?」
「火事の夜はどうしようもなくしけた面してたけど、このところ前に戻った感じ。良かった良かった」
「そう……なのでしょうか」
思えば千鶴と一緒に暮らしてからプラスにしろマイナスにしろ感情を吐露することは多くなっている。視界だけでなく、感情すら灰色になっていた日々に比べれば。
「昨日はさ今が楽しいって言葉で答えてくれたけど、ユヅっちの笑ったり困ったり、くだらないことで怒ったりする良い面がなによりの証拠だよなって思うわけよ。それで実感できて嬉しい」
そう言って彼女の浮かべた悪魔的な笑顔にはいつもより懐の深さを覚えて戸惑ってしまった。
「でも昨日の件はちゃんと反省してね。自分の命を軽んじるの。あれマジでピキったから」
「あ……その節は申し訳ないです」
反省、とはそのことか。
昨晩の酔っ払った記憶を思い出してくる。
確かにロシアンルーレットとかで気安く死のうとしていた記憶は薄らあった。お酒で自殺願望を誇張していたわけだが、寄り添ってくれている千鶴には不誠実な言動だと思う。逆の立場を想像すれば納得できる怒りだ。
「私は……ユヅっちに幸せになって欲しいから。自分のこと大事にしてね」
わたくしの手の小指に、千鶴はそっと自身の小指を絡ませた。
「約束だよ」
「……ええ、分かりました」
互いの肩が触れるような距離で、千鶴はわたくしの目をじっと見つめた。
千鶴、あなたは……。
「さぁてせっかくラブホだしエロい話でもすっか〜!」
「……あなたって人は」
呆れた。聖人のように思った矢先にこれである。
まったく……千鶴らしい。仕方がありません。付き合いましょう。
「エロい夢って見たことある? 枕の下にエロ本入れるとエロい夢になるらしいよ」
「冗談でしょう?」
「ところがどっこい、実は枕の下のおまじないって効果があるんですよ。ハーバード大学のド・チャエロ教授なんかが論文出しててー」
「はいはい、それで教授はどんな研究をされているの」




