第30話
高校生の身分で社交会に参加することは少なくなかった。次期当主として若いうちから顔見せは必要だったし、こちらも未来の取引先を覚えるいい機会だった。
ただ周りの大人と一つ違う点。
それはグラスの中身。
いくら大人びた世界に浸かっていてもお酒はまだ飲ませてもらえなかった。いや大人がいるからこそ、わたくしは年齢的には清く正しい子どもであるべきだった。そこに不満は抱いていなかったが、大人がさも幸せそうに嗜むお酒というものがどれほど美味か興味はあった。
それを試せるときが今訪れたである。
「忘れてたよなぁ。未成年飲酒。やりたいことリスト筆頭だろ」
「常飲してるから思いつかなかったのでしょうね」
「飲んでるのはたまにですー。で、今晩がそのたまにの日〜」
すっかり日も暮れた今晩は、早めに夕食を終え、ワインセラー大開放の飲み会となった。ワインに合うというサラミやチーズも千鶴が棚の中から発見してくれた。
フロアライトの淡い光に包まれながら、ダイニングソファで向かい合う。
「カヴェルネソーヴィニヨン。聞いたことはありますね」
「GACKTがよく飲み比べてるイメージ」
ボトルを回してみる。読めはするがその固有名詞がワインかブドウか製造企業か地域か、いずれを指すのかまでは分からない。
「開けれる? コルク抜き使うの」
「未経験ですがチャレンジしてみましょう」
「ちなみに失敗すると爆発するよ〜」
「夕鶴羽が命じます。開けなさい」
「冗談じゃん」
ポンッと軽快な音を奏でて千鶴が開けてくれた。
「さぁさまずは御一献」
「ありがとう。普段ワインは?」
「あんま飲まないね。ビールとかサワーが多い。嫌いじゃないけどね」
曇り一つないグラスで赤い液体が揺れる。もちろんその赤色はわたくしの視覚情報ではなく、赤ワインであるという事実からの補完だが。
「じゃあ乾杯しよ」
「ええ」
「くそったれでサイコーな世界に」
「ふふ、なにそれ」
「かんぱ〜い」
「乾杯」
チンと鳴らすかわりに目元まで持ち上げてから口をつける。
「んん」
「どう?」
これはまた……。
奥深い味わいだった。
甘いとか渋いとか、どれか一つで形容できる味ではない。甘みと渋みと酸味で調律された繊細なバランスの味わい。
そこに鼻を抜けるアルコールの風味が乗ることでアダルティな飲み物だと実感する。ぶどうジュースとは味の厚みが違う。熟成されたぶどうエキスが年代の風格を漂わせて口内を上品に支配するのだ。
「わたくし……こちら好きですわ」
「そいつぁ良かった! うまい酒と出会えるのは伴侶と出会えるのと同じだからな」
「高校生で知った口だこと」
赤ワインはわたくしの好みとよく合った。サラサラとした飲み口で気軽に口に運べる。このワインはライトボディと呼ばれるタイプで人を選ばない素直さがあるらしい。もっと渋くて重いフルボディもあるそうだが、初飲酒のわたくしにはこれくらいがちょうどいい。
「アルコール大丈夫そ?」
「お気遣いありがとう。今のところは楽しめていますわよ」
「お酒強いか弱いかは未知数なんだから、無理はしないでな。私も酔う予定だから介抱できないかも」
グラスを傾ける。
美味しい。
「千鶴はお強いの?」
「これがテンションによって全く違うんだよ。一人で飲むときは一缶で眠くなるんだけど、誰かと飲み会いぇい! っていうときは六杯くらいいけちゃう」
「日によって違う」
「そーそー。不思議だよね。でも今日はユヅっちっと二人きりだから、結構イケちゃうかも」
千鶴はパチっとウィンクを一つ。
「あら、あなた酔ってますの?」
「まさか。だけど素面から少し飛ばしたっていいでしょ。ユヅっちの初めてに、乾杯」
「はいはい、乾杯」
やれやれと思いつつ、今日くらい彼女のテンションに合わせるのも悪くない。
さらりと流れる液体が優しく喉を灼く。普段の飲み物にはない刺激を噛み締めながら、わたくしは空いた二人のグラスにワインを注いだ。
「ユヅっち……楽しい?」
おつまみのチーズを開けながら千鶴がポツリと呟いた。
「この前大見得切った割に、ユヅっちが楽しめてなかったらどうしようかな……って」
この前というのはわたくしたちが出会った日の晩だろう。
『私が楽しい思いさせてやる! それも初めての!』
確かに歯が浮くようなカッコつけたセリフではある。
「……あなた、酔うとしんみりするタイプ?」
「な、違ぇよ! 無理矢理つき合わせたりしてるから——」
「楽しめていますわよ。おかげさまで」
「……そっか。ならいいんだっ」
わたくしが告げると千鶴は静かになった。
先の質問はアルコールが暴いた彼女の本性なんかではないだろう。というよりも、彼女はアルコールがあろうと無かろうと本質的には優しい普通の女の子。昨日のペットショップがその証拠だ。
ずっと秘めやかに気遣っていたのがぽつりと漏れただけだ。
「どう? 死にたいとか思わなくなった?」
「思いますわよ」
「……なんやねん。今の流れ的にもう思わないのかと」
「ただし今抱いている希死念慮は……今が楽しいから」
口を湿らすためにワインを一口。
「だって楽しいときに死ねたほうが幸せじゃありません? 少なくとも今頭を撃ち抜けば死に顔は笑顔にしてみせます」
お昼には学校で心底嫌な思いをして、今はそこそこ幸せで。わたくしの幸福度はジェットコースターになっている。また記憶を掘り起こしたり、さらなる悲劇が待ち受けていたり、自分の生き様に心を痛める可能性なんていくらだってある。この先下るというなら登っている今終えたいと考えるのはおかしなことではない。
「この先もっと上を目指せるとしても?」
「そうかもしれませんし、そうじゃないかもしれない。確かなのは、今ならそこそこのアガリだということ。それだけー」
はぁ〜と背もたれに身を投げ脱力する。高級ソファが柔らかく、天国の雲のように受け止めてくれる。ソファはもちろん気分もふわふわと気持ちがいい。
「いつの間にかしみったれた思考をするようになりましたわ」
理不尽な蔑みの日々がフラッシュバックして歯噛みする。わたくしの思考回路を改変してくれたあの日々だ。
「大丈夫。生きますよー。最初にそう約束したから。だからわたくしを楽しませ続けてくださいな」
「ああ、仰せのままに」
「はいじゃあ、千鶴のエスコートを祈念してかんぱーい」
「勝手に背負わすな」
芳醇な香りを深呼吸で鼻いっぱいに味わってから飲み干す。そしてグラスにまた注ぐ。ワインの後味にぶつけるようにサラミを一枚口に放った。
「ねーあなたの銃ってロシアンルーレットってできますの?」
「はぁ?」
なにを言っているんだお前は、という疑問の表情が彫刻のように浮かんでいる。
「知りません? ロシアンルーレット」
「知っとるわ」
「それはできますの? できませんの? できるならやりましょーよ。前に五発って言っててさっき一発撃ったから……でも当たりは五分の一か。関係ねぇですわ。まぁ五分の一でやりましょ」
「一人で会話をすな。さっきと言ってること違くね?」
「さっきはさっき、今は今、他所は他所でうちはうち福は内。運試しで一回くらいいーでしょー。減るもんじゃあるまいし!」
わたくしはビシィと指を差してやった。
「当たったら減るだろ。てか減るとかの次元じゃなくて消えるじゃん命。というか!」
千鶴はソファから立ち上がるとわたくしの前に立ちはだかった。ぽけーっと見上げていると頬を両手で挟み込まれる。
むにゅう。
「ユヅっち酔ってるだろ」
わたくしが酔っている?
「ほう、面白いこと言いやがりますわね。片腹痛過ぎて両腹激痛」
「おめーが一番面白いんだよ。なんだそれ酔うと芸人になるんか」
「いたぁい」
一段と頬を挟まれる。
「酔ってないって言うとー酔ってる人はそう言うんだよって、ぎゃくせつ的に決めつけられるのでーあえて言おう! 酔っていると!」
「酔ってるねー。はい水飲んで」
あるぇー? 逆になるはずでは?
完璧な作戦虚しく、千鶴が水のグラスを渡してくれる。上に立つ者として臣下の気遣いを無碍にするのは心苦しいので飲み干してあげることにした。
これは強者のよゆうー。
ごくごくごく。
「ぷはぁっ! 飲みました! はい、銃」
「よく飲めましたねぇ」
「えへへ」
「はいどーぞってガキのご褒美じゃねんだぞ。イヤだ」
「チッ」
「うわ、かわいくねっ」
ていおうがくで身につけたこーしょー術が負けました。なんたる不覚。
「できるんでしょー。泣きの一回でぇ。記念にぃ」
「私の銃はでき……ねぇよ。できねぇ」
これ以上の問答は無駄だと態度に表して、千鶴はわたくしの隣に乱暴に座った。
「なーんだ。そうならそうと早く言えばいいのに」
「……嫌なやつ」
その棘みたいな言葉に、なにがー? と聞いても答が返ってくることはなかった。
多感なお年頃ってやつですわー。
ワインボトルを持ち上げると中身はほとんど残っていなかった。最後の一滴まで飲み干せるよう逆さに振ってから、グラスの細い首を摘んだ。
「もうやめとけ」
それを千鶴が鷹のように横取りする。
「なによもー」
追い縋るも、千鶴は絶対取らせないぞというように、わたくしからは遠い右手でグラスを頭上に掲げた。これではおもちゃを取り上げられた子どもみたいだ。
「しこたま飲んだだろ。吐くぞ。最悪急性アル中で死ぬぞ」
「だいじょぶー。死んでも予定前倒しなだけだしー」
「…………」
「睨まないでよぉ。こわーい。般若〜?」
黙したままテーブルの端っこにグラスを置いた。せっかく高揚して楽しくなってきたのに千鶴は粋な返事の一つもくれやしない。
「……破滅願望でもあんの?」
「わぁ、わたくし向けの質問だこと」
そんなの決まってるでしょう。
「それしかないです——」
無防備だった。
ゆらりとした動き出しは認めていた。
だがそのまま自分に迫ってくる顔を前になす術もなかったとき。
ああ、酔ってますわね。
そう初めて自覚できたのだった。
千鶴の口とわたくしの口が結ばれた。
「んんっ」
予知のしようがない突然の柔らかさにくぐもった声を漏らす。反射でのけぞるが逃げ道はない。先程同様に頬を挟まれ拘束されている。
上向きの儚いまつ毛がピクリと開いた。
「……っはぁ、千鶴」
「どうせみんな死ぬんだろ」
頬を掴んだわたくしを下にして、言葉を落とす。
遥か遠く、でも確かに存在する星のような小さい輝きがその瞳にあった。
「破滅したいなら……一回くらいヒドいことされてもいいってことだよな」
「ちょっ」
唇を啄むようにして再びキスが降り注ぐ。
アルコールの回った体に力は通わず、わたくしはただ受け入れるしかない。
やがてキスの驟雨に押され、ソファに仰向けに倒れた。そこでやめるなんてことはなく、千鶴は間髪入れずに馬乗りで覆い被さる。
数ミリも逃げる余地のない口づけは彼女の体温をこれでもかと流し込んできて、いっぱいいっぱいになってしまう。その背中をパシパシと叩いても牽制にもならなかった。
「はぁっ」
「ちづっ……んむ……」
心臓が早鐘を打つ。
クラクラしてきた。
速度を増した血流がアルコールを行き渡らせているためか、はたまた千鶴のキスが酔わせているのか。どちらにせよ理由なんて考える余裕はない。
千鶴が……こんな……。
彼女の髪がカーテンになってキスの空間を切り取る。
ゼロ距離で顔を合わせるわたくしは千鶴の猛攻に驚くほかない。飲まず食わずの遭難者が食事にありつけたときのように、一心不乱に貪ってくる。
暴力的に押しつけられる柔らかさの奥に果実のような甘さを感じて、わたくしはまた一つクラりとなった。
どれくらいそうしていたのだろう。
やがて千鶴は身を起こした。
唇と唇を繋ぐか細い橋が光る。
「反省して」
少し息を荒げた千鶴は端的に告げると、早足でダイニングを出ていった。
「はぁ……はぁ……」
反省……?
強烈極まりない酔い覚ましによって涼しくなった頭で思案を巡らせる。しかし悪酔いしていたせいで記憶が定かではない。わたくしはなぜ押し倒されていたのだろうか。
酒癖悪いことこの上ないですわね……。
はっきりとした自覚は無いが、胸中に輪郭を掴めない罪悪感はあるため、わたくしが悪いのだろう。直感だが。
どうしたものかと、押し倒された姿のまま目元を覆った。
明日の朝どんな顔をすればいいのか。
正直気まずい。
気まずいの言葉じゃ足りない。
だが目を閉ざして耽っていれば、自然と意識は遠のいていく。
眠りに沈んでいく最中。
最後まで意識に残っていたのは離れていく紅い口元の記憶だった。




