第29話
明導院邸の借り受けた自室で、わたくしは半身で壁を見つめる。
四五度に掲げた両腕。弓を支える左手を肘から先を開くように伸ばす。あくまで右手は弦に引かれるまま。そこに意識を割くことはしない。
弓を下ろす。左右均等に開かれた肩に負荷がかかるのが分かる。
それが今は心地よい。
だが刹那で感じた久方振りの安心感もすぐに忘れ去る。
会。
弓を的へ構えて狙う瞬間。狙うというよりは的に伸び続けるイメージ。
「…………」
まだ。
「…………」
来た。
右手から弦が離れる。
離すのではない。
離れる。
静謐な空気へビンッと鋭い音が伝わった。
「…………」
一拍の後、泰然としながらも集中していた体から緊張を逃したわたくしは慣れない弓を品定めするように回した。
「殊の外良い弓ですわ。丁寧な手入れがされています」
持ち主からは想像できませんね。
矢を番えない素引きの段階で、この子の状態はおおよそ判断できた。愛弓と比べると、引分けの際にカーボンファイバー特有の固さを感じるが、取り立てて不便ではない。一般的な女子にはこれが適当であると聞いているし、使用には無問題だ。
コンコンコン、とノックに続いて千鶴が顔を覗かせた。
「調子どー? お、かっけぇグローブ。鷹とか止められそう」
「グローブではありません、弽です」
わたくしは弦を引くために右手につけた手袋を掲げる。
「ミットは野球をするときのグローブ。じゃあその弽とやらは弓道をするときのグローブ。一緒だよ」
暴論である。
「で、調子は? つっても聞いてもあんま分かんないけど」
「好調です。わたくしの弓は竹製で自然素材の柔らかさに体も慣れていたのですが、こちらはポピュラーなカーボンファイバー。少しやりにくさはあるものの」
「いいや。本当に分かんない」
自分から聞いといて嫌な顔をしてくれる。
「そうですね……もちもち柔らかグリップのシャーペンが、多少ハードなグリップのシャーペンに変わったくらいかも」
「ほなええか。書けることに変わりはないし」
テキトーな例えで合っているかわたくし自身不安だが、大雑把にニュアンスが伝わったならいいか、と前向きに捉える。弓道の精緻さを言葉にするには時間が足りない。
「準備はできたよ。行こうぜ」
千鶴に続いて廊下へ出る。長い廊下の向こう、そこにはマットな白の展示代と芸術的な大皿が置いてあった。
距離目算二八メートル。
つまり弓道場の射場と的場の距離だ。
「ほう……素晴らしい。これなら引けます」
正式な弓道をやめたわたくしが弓引く場所として求めたのは、邸宅の無駄に長い廊下だった。風を受けない環境で誰にも迷惑をかけないという現状、アウトローなわたくしにとってはうってつけの場所だ。自宅にもこんな直線環境は無かった。
しかしながら顕著な相違点が一つある。
「お皿ですか」
「そう! ちょうどよくね⁉︎ あんなの腐るほどあるし使わないしどんどん砕いちゃって」
千鶴が的の代わりに用意した大皿は一○○%、いや一五○%超一流工芸品。職人の上絵付けの美しさが輝いていた。
惜しい、と苦い顔をしそうになるも、どうせ滅ぶなら変わらないかと目標を見据えた。
割れるならわたくしの一興として割れていただきましょう。
「行きます」
千鶴のスマホのレンズに収められながら、大皿を体の左側で対する。左足、右足と動かし体幹の基礎を備える。
射法八節、矢を放つ八つの所作を今さら律儀にやる必要があるのか、と思ったがこればっかりは欠かせないと自戒する。無闇矢鱈に引いて中っても感動は得られない。渾身の一射にこそ価値がある。
加えてわたくしの体は一連の動作がプログラミングのようにインプットされている。今の考え事をしながら、無意識にお尻はキュッと締まっていたし、上半身は悠然として来る一瞬へと準備が進んでいる。
要はは弓を引くならば体が勝手に所作を遂行するのだ。
丸太を抱くように、腕で円をつくって弓構え。続いて矢を番える。
そうしてから目線は射るように大皿へ。
ここからは焦点は常に目標だ。弓を繰る手は視覚がなくとも完璧にこなす。
ゆっくりと弓を持ち上げ、ゆっくりと左肘を開き伸ばす。
じわじわと負荷が来た。
気持ちいい。
この負荷がこれから射ることへの期待感を昂らせる。
やがて弓と矢は唇の高さに下りてきた。頬に触れる矢の感触が素引きとは違う確かな実感となる。
「…………」
大きな張力を蓄えた弓はごく僅かな点で支えられる。左手の親指のつけ根、そして弽を纏った右手の数本の指である。両の手どちらも手中を握ったりはしない。
力の暴出を抑えつけるにはあまりにも頼りなく見えるだろう。しかし力を力で抑えるのは、活発な子どもを叱咤で抑えるようなもの。漲る力は抱擁するように受け止め、機を見て発散させてあげるのだ。
そして今は発散させる機を待つ。
狙うこともしない。
中てることもしない。
ただ待つ。
「…………」
世界がクリアだった。皿への二八メートルの空気は澄んで見えるし、窓の外はどの木で鳥が鳴いているか知覚できる。斜め後方の千鶴が唾を飲み込んだ。
世界が無彩色に覆われていても支障はなにも無かった。
「…………」
今。
葉の先に溜まった朝露がその重さに耐えかねて雫を落とすかの如く、自然法則の一部としてわたくしの右手指は弦を開放した。
ビンッ。
矢の羽が頬を撫でて飛び去った。
バリンッ。
「おおお〜〜〜!」
「…………」
的中を祝うことはしない。今は開放感に浸る残心の時。
文字通り張り詰めた体から静かにゆっくり息を吐いて全ての構えを解いた。
「めっちゃすげぇ! カッコよすぎだろ! やっぱ本物見ると超興奮するのな!」
「恐縮です」
「だってだって語彙力ないけどさ! 美しいっていうか強すぎるっていうか! んんーーすごいわ!」
千鶴は昂る感情を言葉に乗せようとしたが、叶わず派手なボディランゲージになった。
これだけ喜んでもらえるとは、披露したわたくしもにこやかになる。
「一週間以上引いていませんでしたが安心しました。わたくしもまだまだ現役ですわね」
「ね! 私もちょっとやってみたいんだけどいい⁉︎ 今の見せられたら否が応でもやってみたくなるじゃん!」
通常矢を放つには何も持たない徒手練習やゴム弓での練習を一ヶ月は行うが、今この世界で悠長なことも言ってられないので特例として弓を渡した。しかし危険を伴うので矢はまだだめだ。とりあえず素引きまで。
「はい、体と顔の向きはこう。足を開く。逆ハの字」
「こうか」
「弓は握らないでください。ここ、親指のつけ根でしなる弓を支えます」
「え、弓って握らないの?」
弓道を知らない十人中十人は千鶴と同じように驚くだろう。
「はい。支えるだけ。握卵といって卵を優しく包む強さと形を意識してください。弦は弽の親指の溝に引っ掛けて、親指を人差し指で中指でロック。放つときはこのロックを外すイメージ」
わたくしは千鶴の背中にピタリとついて、抱き締めるように手の形を教えていく。まるで新入部員の指導みたいだった。
「ほーなるほどね。完全に理解した」
「では引いてみましょう。今言った形で持ち上げます。肩は上げない。そこから左肘だけ伸ばしながら下ろしてくる」
「あ、あ、あ、やばい! 来てる! 力来てる! うわ!」
千鶴の肩から腕の普段使わない筋肉たちは突然叩き起こされててんやわんやだろう。
「プルプルする! やばいこれ!」
悲痛な叫びの通り、千鶴の左腕は産まれたての子鹿のようにプルプルしていた。弓に暴れられている。
「右手は動かさないで。そのまま。下ろして」
「こ、これくらいぃ⁉︎」
「そう。そこから待ちます。いいタイミングでビュン」
「待つって! これどうやって狙うの⁉︎ サイト無いじゃん!」
「あ、言い忘れてました」
「ちょ、ムリ! 離すよ!」
ビシッ。
「痛ぁーーーー!」
「多分左手首に弦が当たります。激痛」
千鶴がくずおれた。痛々しい。
「なっ! 何故早く言わない!」
「すみません。でも耐えかねて先に離したのは千鶴ですわ」
「そうだけど! うぉお……」
ゴシゴシさすってる左手首は弧状の赤みが浮かんでいた。
左手の形ができていないと弦は手首に飛び込んでくる。これを防ぐには手の内を正しく作らなければならないのだが、プルプル震える初心者が正しいフォームを意識する余裕なんて無いので、一度は必ず手首を弾く。弾いて痛んで覚えるのだ。
しかしまぁこれが痛いのなんの。
ワクワクしながら弓を引いていたら、予期せぬ激痛に見舞われるのだから驚きも大きい。
これも修行ですね。これで折れず何度も挑戦して……。
「その弓やめます」
「……意気地なし」
その後も私は無心で引き続けた。
一射放つ毎に展示台の下に破片が積もっていく。破片の元の価値にこれっぽっちも思いを馳せることなく千鶴はせっせと陶磁器をセットしてくれた。
器の職人さんには申し訳ないが、実に胸がスッとする感触だった。
大きな音で的が砕けて飛散するから当ったときの爽快感がド派手だ。もちろん的に刺さるスパァンという鋭い音の快感は自明のことだが、弓道を外れたわたくしにはこのお行儀の悪い快感が相応しい。
「む……」
残心の最中なのに声が漏れた。
これまで皆中だったのに、今日初めて外してしまったのだ。
「千鶴、いくらなんでも小さ過ぎます」
思わず不服申し立てを行う。
彼女が置いた今度の的は片手で覆えてしまう小ささの徳利だった。
「ふーん、ユヅっちならいけると思ったんだけど」
「あなたね、本来的の大きさは三〇センチはあるのですよ。あれは一〇センチと少しくらいしか——」
パン!
カキン!
やけに軽く短い発射音と陶器に跳ねる小気味いい音。
「ま、私だったら当たるんだけどね〜」
出てもいない硝煙をふっと吹き飛ばしながら、千鶴はモデルハンドガンを揺らして見せた。
悪魔っぽい流し目を向けて。
「……いいですわ。中ててみせましょう。あれくらい」
わたくしはテキパキと型をつくり矢を番えた。
その挑戦受けて立ちます。そのオモチャにできて弓にできないことはありませんわ。
焚きつけられた闘争心で構えながら、されどその熱さは隔絶して冷静に機を待つ。
放つ。
矢は徳利を遠く後方へ砕き飛ばした。
「おぉ〜ナイス〜!」
「造作もありませんわ」
「じゃ次これね。外したほうが負け」
「え」
意気揚々と次に置いたのはカップだった。徳利より小さい。
引くに引けなくなりましたわ……。
千鶴との仁義なき戦いが始まったのだった。
わたくしが中てると割れてしまうから、千鶴が先に撃つ。
千鶴の射撃のセンスはピカイチだった。なぜなら外さないから。一発も外さないという事実が彼女のスキルを端的にそして雄弁に語る。
「強敵ですね」
「恐悦至極にございます」
ジャグリングのように銃を回してホルスターにしまうその動作は華麗だった。
モデルガンマニアは伊達ではない。
扱う得物こそ違うものの、命中を競うという点においては好敵手といえる。
「お、あのサイズいけるのすげ!」
「あなたも結構な腕前」
射撃対決に興じていると時間は過ぎゆく。
カップから小皿へ。小皿からお猪口へ。
標的はどんどん小さくなって、これ以上小さいものは無いという最後の段階で箸置きが置かれた。
しかしながらそこで両者中たらず、勝負は引き分けに終わったのだった。
千鶴がスナイパーライフルを持ち出して撃ち抜いたのはノーカウントでいいだろう。流石にずるい。
贅沢で世紀末な遊びをしているうちに外は暗くなっていた。
「これくらいにしましょう」
自然光では見えなくなってきたのを区切りに終わりを告げると、千鶴は最後に、と新たな的を設置した。
ワインボトル。
「地下のワインセラーにあった赤ワイン。こいつはもっと派手だぜ。鮮血みたいにぶっ飛ばせるから」
「仕方ないですね。じゃああれで終わりですよ」
「いいや、私がやる」
射場に立った彼女が構えている銃には腰から吊り紐が繋がっていた。
オモチャではない。
実銃だ。
「一発だけな。一発だけ撃たしてくれ」
声が嬉々として跳ねていた。
「初めての実銃だからアクシデントで撃つんじゃなくて、ちゃんと味わうぞって気持ちで撃ちたいんだよ。分かるだろ?」
ワインボトルに半身で向かい合う千鶴。自身の右腕を前方に伸ばし、右脚を後ろに引く。左手は、グリップを握る右手を包むように握り込まれた。
今日幾度も見てきたその構えは実銃が入ると尚一層決まって見えた。
「撃つよ」
銃口が光った。
モデルガンとは比べものにならない爆裂音が反響して数度聞こえてくる。その間に弾丸はワインボトルに真っ直ぐ突き進み、そのガラスを打ち砕いた。内容液をぶち撒ける。割れる音は射撃音に負けて聞こえなかった。
いざその場にいても実にあっけない一瞬。
しかし放たれた弾丸は確実に人の命を奪う破壊力を伴っていた。
生命を殺せる。
今の一瞬で命が奪えると理解はできても、実感はとてつもなく薄っぺらい。
案外命を奪うのは軽くできてしまいそう……。
「憧れの実銃、どうでした?」
構えのまま動かない千鶴に近づいた。
「千鶴?」
反応がない。
「ねぇ」
「んんんんもう最高やね!」
振り返った顔は無邪気な笑顔でキラキラしていた。
どうやら弓道の残心みたいな時間だったらしい。
「銃の反動がビリビリって腕から走ってきてうぉあってなったよね。モデルガンじゃ味わえないこの感覚! 感動してる……。でもリコイルは全然抑えられるのに驚いた。もっとズドンって来ると思ってたから、案外撃つのって軽くできちゃうんだね〜」
感想の最後の部分は奇しくもわたくしのそれと似ていた。
「はぁー満足満足。残りの弾は大切に使うわ」
ネモフィラのときと同様の瞳の輝きをしながら、大切にホルスターに仕舞う。
「にしても的も的で役にハマってたな! 赤いのがぶしゃぁって」
「ええ」
「ユヅっちもやる? も一本あるよ」
有無を言わさずわたくしに新品のワインボトルを押しつけてきた。
「いいえ」
高そうなことだけは分かるラベルを眺めて一言。
「飲みましょう」




