第28話
呼吸が聞こえる。
周り……ではなく、もっと近い場所。耳元でもない。自分の……顔の内側。
わたくしの呼吸だ。
死んだ……わけないですね。息してる。
呼吸の輪郭を捉えるうちにわたくしの意識は海面に浮上していき、やがて瞼を開く。
浅い穴だらけの天井があった。トラバーチン模様という名称を思い出し、次いで虫みたいで気持ち悪いなという昔の感想もセットで思い出す。
「ユヅっち! 起きたか」
大きな呼びかけに首を傾けると千鶴がいた。
「わたくしは……ここは?」
「よかった、倒れちまったから保健室に運んで寝かせたんだ」
「倒れたのですか……」
うちの学校が昇降口から保健室まで近くて助かった。
とりあえず謝意を示そうと右手を挙げようとするも動かない。千鶴はわたくしの手を握ってくれていた。
「あぁ、ごめんな」
千鶴は手を離す。
「ずっとこうしてくれて?」
「ずっとって言っても一時間くらいだけどな。わたしには……これくらいしかできなかったから」
きゅっと唇を噛むのが見えた。
「なにもしてやれなくて……ごめん。いや、わりぃ、体調悪いのに、わたしのネガティブなんていらねぇよな……」
「千鶴」
離れた手を追いかけて、包む。
「ありがとう」
体に支障はなく、立ち上がるのも歩くのも問題なかった。ただの精神的ショックだろう。喉に少し刺さるような痛みがあるが、過呼吸の弊害で多分そのうち治る。
「この後どうする。弓道やらずに帰ったっていいよ」
それは気遣いだった。
こんなところにいたら、また苦痛に見舞われる。そういうことだろう。
忘れていたわけではない。学校には数えきれないほど悪夢の痕跡があるのは自明のこと。その存在を無意識下で隠すように蓋をしていたのは、浮かれた気持ちに他ならない。
わたくしも気勢が削がれて、最早弓道やるような気分ではなくなっていた。
それでも弓道具だけは回収していきたい。手に入りさえすれば、射場ではないが後日射ることができる。このまま学校を後にしたら、わたくしはもう二度とは訪れない気がしていた。ここはいっそ貫徹しておさらばしよう。
保健室を扉を後ろ手で閉めて、わたくしたちは弓道場へと向かった。道中に会話は無い。千鶴を盗み見るとなんと声をかければいいのか……、といった表情をしている。
いつもなら誰もいない学校ではしゃぎそうですけど、わたくしがいるとやりにくそうですわね。
廊下を歩いてしばらく、弓道場の扉は閉ざされていた。建て付けが悪いということもなかったから、律儀な施錠の賜物だろう。
「しゃーねぇ、やってみるか……」
千鶴は腰を落として二本の細長い器具を動かすが、ものの数分で諦めた。
「ダメだ、ディンプルキー。ピッキングできない防犯性能高いやつだ」
正門は開けられたのになぁ、と頭を掻く横、わたくしはすぐ隣の顧問室の扉に相対する。こっちは開いている……訳もないのだが、目的はそのドアノブ。
「はい、開きましたわ」
ドアノブに提げられたダイヤルキーボックスから取り出したる鍵で弓道場を開けたわたくしは、エスコートするように上品に扉の先を示した。
「VIP専用です」
「始めにそう言ってくれ」
千鶴は苦笑いを浮かべる。
「せんせーからも信頼されてるようで」
「かつては、ね」
しばらくぶりに訪れる弓道場は懐かしい。敷居を跨いで年季が入った床板を踏む前に、わたくしは道場に対して深々と一礼をする。
「それ私もやったほうがいいやつ?」
「門外漢ですのでどちらでも」
「私作法とかマナーって苦手なんだよね」
結局やらずについてきた千鶴は道場をキョロキョロと、職場見学のように見回った。確かに普段立ち入らない人には珍しいものだらけだ。
「なんかかっけぇー」
それは放っておいてわたくしは畳の一角へと正座する。礼を向けるは頭上の神棚。両手をついて畳におでこがつくくらいの礼をする。それが終わったことで初めて弓矢を触ることができるのだ。
「てか的遠くね? しかも小さくね? あんな遠くに当たるもんなの」
ほえーと射場から奥を眺める千鶴は驚きといった様子だ。
「的前、弓を引く地点から的場までは二八メートル、的の直径は三六センチ。中るかどうかはその人の技量次第といったところでしょうか」
「ユヅっちはどうなの?」
「そうですわね……平均的な選手はいくつ中ったか、を数えますが、わたくしはいくつ外してしまったか、を数えています。これで伝わるでしょうか」
「つまり当てるのが当たり前ってことか。やば」
そもそも弓道とは中てるものではない。
全身の筋肉への適切な力の分配。しなやかでかたい射法八節。やがて訪れる雫の如き機の離れ。
それらを完璧に掴んだとき、射手の思いに関わらず、矢は自然と中るのだ。
それを全て説明すると千鶴はパンクするでしょうね。
「己と競る奥深い競技ですわよ。やってみては?」
「死ぬまでに当たるようになりますかー?」
「死ぬ気でやれば」
「遠慮しておこう。銃撃ってたほうが性に合う。で、肝心のブツはどこにあるわけ?」
「こちらの準備室です」
個人の道具や備品の収納スペースであり、更衣スペースも兼ね備えた準備室に入る。仲間と切磋琢磨した日々を脳裏に自分のロッカーへ。
ロッカーの前に落ちていた紙屑。
それは予兆だった。
しかしわたくしはそれに気づくより早く扉を引いてしまう。
自分のロッカーから堰を切って流れ出るゴミを目の当たりにする。
「…………」
わたくしは扉に手をかけたまま唖然とした。
こういうこと。
こういうことなのだ。
今さら姓と決別したとて、前に踏み出した足は過去にしつこく引っ張られる。
どこのゴミ箱をひっくり返したのか、昼食の生ゴミを含んだ山から発せられるツンとした匂いを感じ取っても、わたくしの顔は歪まなかった。
もういいのです。
「あらら、災難ですわね」
口を真一文字にきゅっと結ぶ。
ただ耐えればいいですわ。
なんてことありません。
ただ廃棄物を放られていただけではありませんか。
弓が壊されたとかではないなら全然平気。
汚れた部分は後で洗うなり拭くなりしてキレイにしましょう。
また倒れては千鶴に迷惑が掛かるから悲観しないほうがいい。
愛用の弓が包まれた弓巻を掴んだ。
さぁこれで帰りましょう。
しかしそれを持ち上げる力は出なかった。
「っ……」
「ユヅっち」
「おかしいのです……なぜだか腕に力が入らなくて。ごめんなさい。すぐに出しますから。ごめんなさい」
握って持ち上げろ、と指令を飛ばすのにできない。腕はまるで自分のものではなくなったように従ってくれない。両手を使ってもそれは同じだった。
千鶴を待たせてはいけない。
怒らせてはいけない。
千鶴に拒絶されたらわたくしは……。
わたくしはもう怖さを感じることはない程壊れたはずなのに、今確かに新たな恐怖を覚えていた。
「どうしてなのでしょう。待たせてごめんなさい千鶴。すぐに——」
急いで。
早く。
急げ。
「なぁ、この伊勢崎ってうちのクラスのだよなぁ」
「……え?」
四苦八苦していたわたくしにとってその言葉はいきなり過ぎて理解に苦しむものだった。
千鶴は二個隣のロッカー、共通のクラスメイトである伊勢崎さんのを眺めて、言を続けた。
「あいつも弓道部って言ってたし」
破裂するような派手な音を響かせて扉を開く。
「どいて」
それから千鶴は汚れることもお構いなしに、わたくしのゴミに手を突っ込み伊勢崎さんのロッカーに放り始めた。
「元々気に食わなかったんだっ。えらっそーに他人見下した口調。うぜんだよバーカ!」
「ちょっと」
「あとこいつ、細谷。こいつもうちのだよな? 伊勢崎の金魚のフンで人の悪口が大好物。きっしょ」
「千鶴……っ」
気でも触れたのだろうか。あるいはわたくしが怒らせた……? 千鶴の脈絡の無い行為にたまらず肩を掴む。
「なに。今イライラしててさ。てか一緒にやる? スカっとするかもよ」
「それは……」
たじろいだわたくしの手から抜け出すと千鶴は運搬行為を再開した。
本来人の弓道具を侵す愚行なんて神聖な道場においては絶対にできない。礼節を重んじる弓道者には許されざる行為だ。
しかしその道にいない千鶴はお構いなしに禁じられた行為をしてしまう。
「こんなことすんのも大概こいつらだろ。ユヅっちの悪口聞いたし! ユヅっちができねーなら私が個人的な恨みでやる。そこで指咥えて見てな」
わたくしの方からゴミは無くなって、二人のロッカーがゴミだらけになっていく。
……いいな。
心がスンと冷めた気がした。
それは初めての感情。
非道徳への初めての欲望だった。
弓道の義がやめろと訴えかけてくる。欲望と拮抗する。
このまま「いい子」でいたって、下り坂の果てで死ぬだけではないのか。
最後くらい足掻いてもがいて好き勝手して千鶴に並び立つ。そんな終局だっていいのではないか。
あぁ……そっちのほうが楽ですわ。
憑き物が落ちたような、妙にスッキリとした感触が広がって肩を回した。
千鶴の鮮やかな蹴りにより、ひしゃげるように伊勢崎のロッカーが閉められた。
「ザマーミロ、ばーか。呪われちまえ」
中指立てた千鶴は今度は細谷のほうへ。
「待って」
「止めても無駄」
「違う」
千鶴を腕で退けて、ゴミだらけの細谷のロッカーに立つ。
「クソが!」
出したことない罵声は新しい自分への鼓舞であり助走だ。罵声をかき消す勢いで金属扉を蹴り締める。
「——らあぁッ!」
ダメ押しに足裏全面で凹ませてやった。足首がジィンとして体に悪影響を知らせるがどうでもよかった。
「……そこまでする?」
「……します」
やってしまったという後悔とついにやったぞという快感で埋め尽くされた胸中。この決行はわたくしの弓道に捧げた日々を棒に振る大きな起点になるだろう。実感するように汗ばんだ手のひらを握る。
「私がやり過ぎた……?」
驚いた千鶴を横目にわたくしは自分のロッカーから軽々と弓巻を掴むと、我が得物を取り出す。
初めて弓を繰った中学生の頃が走馬灯のように蘇った。厳しい英才教育の中での、癒しの時間でさえあったあの日々は二度と来ない。
「さよなら」
わたくしは愛弓を床に突き立て、全体重をかけてへし折った。
「ちょっ……えっ!」
腕と肩の膂力よりも遥かに大きい力を加えられた弓が竹の繊維を飛び散らせる。
「ユヅっち!」
「わたくしは外道に堕ちたのです。だからこの先の人生に愛弓は連れていけません。誇り高き弓道を歩んだこの子には輝かしいまま引導を渡します」
それがわたくしが考えられる、唯一できるけじめのつけ方だった。
中央から二分された弓を拾うと、そのまま部屋を出る。高いところの掃除用で設置されたスツールを運んで神棚を覗く。埃はない。綺麗に清掃されている。几帳面なメンバーだと思っていたが、ああいうろくでなしもいるのだなとがっかりする。
わたくしも同類ですけど。
折れた弓を神棚に供えた。
半歩下がる要領で床に足をつけ、頭を下げる。
「……ありがとうございました」
その背中に言葉を投げかけられる。
「いいの? もう撃てないけど」
確かにもう弓は引けない。
清い信念では。
「外道には外道のやり方がありますから」
わたくしは伊勢崎の弓巻と矢筒など一式を頂戴して学校を後にした。
もう来ることはできない禁足地となったこの場所を。




