第21話
油を売ってから、わたくしたちはようやく目的地、駅近の商業ビルに入る。
「空いてて良いねぇ。いつもこんな感じだったらいいのになぁ」
千鶴の声は誰もいない建物に反響して広がっていった。
わたくしは数回しか訪れたことがないため、平時の混雑具合は推し量れないが、たしか世界の駅利用者ランキングは日本が席巻していると聞いたことがある。それを踏まえればここも賑わうどころか響めいているのだろう。
遺跡となったビルの現状は多種多様だった。きっちりシャッターを閉めて営業中止の貼り紙をしている店もあれば、店員がそのまま逃げていったのだろう、営業中のまま残された店もある。
そしてなんといっても暗い。わたくしの目の性質を差し引いたとしても暗すぎる。ホームはある程度開けていて光が差し込んでいたが、ここでは窓なんてものは外縁部の一部にしか無いため、手持ちのライトだけが頼り。非常時に仕事をする誘導灯ですらその命を終えていた。
「書店は……こっちっぽい」
ところどころのフロアマップを照らしながらわたくしたちは書店に辿り着いた。
「随分と時間がかかった気がしますわ」
現在十四時。出発した十一時から三時間程が経っている。そろそろお腹も空きはじめた。
「結構寄り道したからね」
紙の乾いた匂いを鼻に感じながら本棚の合間を練り歩く。視覚が十全でない今、嗅覚はいつもより鋭敏な気がした。
本は好きだ。多くの学びを得られるだけでなく、知らないことを知る知的探究の楽しさがある。昨今は電子市場が成長を続けているが、わたくしは紙媒体を選び続けている。あのページを捲る指先の感覚、そして読了した書籍の重みと埋まる本棚が読むことの実感を与えてくれる。
澄凰傘下の出版社は電子にシフトしていくと聞きましたけど。
そんな話ももう起こらない未来の話だ。
「お、アプリで読んだやつ書籍化してんじゃん。表紙かわい〜」
「荷物が増えますから、持っていくのは少しだけですわよ」
「お母さんかなんかか」
「千鶴は本、読みますか?」
本棚のジャンル表示を一つ一つ確かめる。トラベル系はここではない。
「コミックかなぁ。それもスマホで」
確かに千鶴の部屋には大きな本棚は無かった。
「強いて言うなら銃関係のまとめ本くらい。そっちは?」
「社会の展望を考察した新書ですとか、人々のインサイトを探るマーケティング関係、ビジネス関係……」
「あ、いいや、よく分かんね」
「お互い一冊だけおすすめ本を交換してみるとかどうですか? 未知の発見が多くて興味深いと思うのですが」
「多分私にとっては未知すぎるんだよなぁ。解読不能な宇宙語みたいな」
「そうでしょうか? この人の本なんかは難しい内容ではありませんわよ」
わたくしは光の先に見知った本を発見した。
「『彗星の茜 私の大切なジャスミン』あーこの人超有名なバスケ選手でしょ。私でも知ってる。今アメリカで大活躍なんだっけ」
「彼女の今までの経験を振り返った著書です。公私ともに支えてくれる管理栄養士の妻とのお話が大変興味深いものでした。人間関係構築の一助になるかもしれませんよ」
「これ以上構築する予定もねぇーし、相手もいねぇーよ」
遠慮する、と手を振っていってしまったので、わたくしは渋々本を戻して追いかけた。
書店の隅の方、旅行系雑誌がまとめられているエリアに足を踏み入れる。
「こうもいっぱい候補が出されると迷いますわね」
「そうか? 行けるとこなんてバイクで行ける範囲だぞ」
修学旅行とは違う。電車も飛行機も既に金属塊になっていて使えないのだ。
千鶴は表紙が見えるように陳列された本たちを大人買いのように掴みとる。
「ほい。やっぱ関東圏内がいいかなぁ。茨城、群馬……うわ神奈川! 中華食いてー! 私らが行くときだけ営業再開しないかな」
手に取った本には群馬県の形が大きく描かれ、巨大なフォントが中央を飾っていた。
「群馬……温泉……」
「温泉! 乙だねぇ。家が金持ちでも、天然ものは無いからな」
若者の温泉離れとはよく耳にするが、若者の中でも千鶴はいける口のようだ。そしてわたくしも同じく。
「いいですわ……」
雄大な自然の中で温かい湯でのんびりと心身をほぐす。なにも考えず揺蕩う。それは心休まるものでだんだんと眠気が体を抱く。そしてそのまま温かい底へと沈んでいき……。
「温泉自殺とかはやめろよ」
千鶴がジロリと見つめていた。
「……聡いですわね」
死なないにしても、疲れきったわたくしには魅力的な案だった。それに誰かの営業が必要な施設ではなく温泉なら勝手に利用できるかもしれないので実現性に優れる。千鶴のやりたいことリストには惹かれるものがほとんど無かったが、これは一気に上位に躍り出るダークホースだ。
「これとかすげぇ! 絶景じゃん」
別の冊子を眺める千鶴が驚きの声を発した。
「見せてくださいな」
「ほら!」
興奮した千鶴が両手でばっと見開きページを掲げる。どうやら茨城県らしい。二枚のページを跨って掲載された写真は……なにかの自然……花畑らしい?
「一面青のネモフィラ畑! 五月が旬でまさに今は見頃だっ、あ…………」
「そういうことでしたか。通りでわたくしが驚けないわけです」
「あ、謝る……今のはノンデリ過ぎたかも……」
「構いませんよ」
そんな急に萎られてしまってはこっちが申し訳ない。
「この写真の花畑は青一色なのですね?」
「そう。なんか、空の青さと似てて、空と地面が全部青っていうすごい景色」
とても幻想的だ。わたくしの目ではその世界を覗くことはできないが、実際に目の前に広がるのだとしたら、魂の震えは止めようにも止められないだろう。きっと写真では到底収められない感動が待っている。
「行きたいですね」
「でも……」
「あなたがわたくしの目になってください。あなたの目を通して感じた感想を伝えてください。わたくしはそれでも満足するはずです」
それで満足する、なんてことは多分ない。少し誇張してしまった。
青色は見えないけれど、ネモフィラの写真に魅せられたあなたの瞳の輝きを見たから。
ここ最近千鶴は享楽主義でなんでも楽しむ人だと知った。その姿を、声を、表情を知った。さっきの瞳の輝きは間違いなく心の奥底まで届いていたことの証拠だ。
あなたが行きたいところに行けばいいですわ。
わたくしにはそこまで強い希望は無いのだから、ついていくくらいでいい。
「ではこの辺りの本をいただいていきましょう。明るい家のほうが読みやすいですから」
何冊も観光誌を持ってみるとかなり重い。いろんな科目が入っている日を思い出す。
本をリュックに入れようとしたとき、バサっと一冊こぼれ落ちてしまった。
開かれたページに光を当て拾おうとしたとき。
「これ美味しそうです」
「どれどれ、アイスクリームだな」
草原の牧場をバックに、女性が幸せそうな表情でアイスクリームを頬張っている。口の端についたアイスはご愛嬌だろう。
「神奈川の山間ですって。茨城とは逆ですし、このためだけに行くのは難しそう……」
落ちた本を拾って仕舞おうとすると、珍しく考え込んでいた千鶴がそっと告げた。
「そいつを食わせるのは難しいけど、変わったアイス体験ならお届けできるかも」




