最終話:俺は、俺が裏切った最強に勝つ。
静寂が、戦いの始まりを告げていた。
俺は木剣を静かに構える。その切っ先は、目の前の男――田中純平に真っ直ぐ向けられていた。
俺の背後には、心配そうに見守るギデオンと、そして、全てを託すように静かに佇む女神がいる。
「はっ! やる気になったかよ、先生!」
田中が下卑た笑みを浮かべ、その身から膨大な魔力を噴出させた。何の制御も予備動作もない、ただ純粋なエネルギーの放出。だが、その量はまさにご都合主義の権化。
「まずは小手調べだ! お前が得意なやつでいってやるよ!」
田中が叫ぶと同時に、彼の頭上に直径数メートルはあろうかという巨大なファイアボールが出現した。かつて俺が森を焼き尽くした、あの悪夢の再現。
だが、田中のそれは、暴走などしていない。
完璧に、その形を維持している。
「死ねやぁ!」
轟音と共に放たれた灼熱の塊に対し、俺はただ一歩、横にずれるだけですべてを回避した。ファイアボールは俺がいた場所を通り過ぎ、背後の森を派手に爆砕する。
「どうした先生! 防戦一方じゃねえか!」
立て続けに放たれる大質量の魔法。氷の槍、雷の礫、風の刃。どれもこれも、俺が『ソルト』の中で「派手だから」という理由だけで安易に書き連ねた、大味な魔法ばかりだ。
俺はそれら全てを、最小限の動きだけで紙一重に見切り、避け続ける。
「あんたが書いた最強の魔法だろうが! 使ってみろよォ!」
田中は、俺が彼と同じ魔法を使えないことを劣化だと勘違いしているらしい。その驕りが、命取りになるとも知らずに。
俺は冷静に、嵐のような猛攻の中で、田中の力の動きを分析していた。
――デカいだけだ。
――大雑把で、精密さの欠片もない。
――まるで、制御を知らなかった頃の俺自身を見ているようだ。
俺は、自分が血反吐を吐くほど向き合い続けた、この呪いの性質を、世界中の誰よりも、この田中自身よりも、深く、深く、理解している。
派手な攻撃の合間に生まれる、ほんの一瞬の魔力の淀み。
力の流れが乱れる、致命的な綻び。
俺の目には、それがはっきりと見えていた。
「終わりだ! これで消し炭になれや!」
田中が、これまでで最大級の魔力を練り上げ始めた。
空が歪むほどのエネルギーが、彼の右腕に収束していく。狙いを定めるまで、わずかな隙が生まれる。
――今だ。
俺は回避に徹していた姿勢から、初めて反撃に転じた。
狙うは、田中が放とうとしている魔法、そのエネルギーの中心核。
俺は、腰に差していた木剣を抜き放つと、回転を加えながら、槍のように投擲した。
「はっ、そんな木の棒が!」
田中が嘲笑う。だが、俺が木剣に込めたのは、物理的な破壊力ではない。
これまで何ヶ月もかけて修練した、極限まで集中して練り上げた、針の先端のように鋭く、ダイヤモンドのように高密度な制御された魔力。
木剣は、田中の巨大な魔力奔流に触れた。
その瞬間、巨大なダムに、たった一つの小さな穴が空いた。
「お前に教えてやるよ、田中」
俺の声が、静かな森に響く。
「俺が向き合い続けた呪いの本当の恐ろしさをな!」
俺の精密な魔力は、田中の制御されていない魔力の流れの法則を、内側から破壊した。
それは起爆剤。それは伝染するウィルス。
制御のタガが外れたエネルギーが、連鎖反応を起こし、持ち主の意図を離れて暴れ狂う。
「無限の力はな、制御を失った瞬間、最強の牙となって持ち主自身に襲いかかるんだよ!」
「なっ……!?」
田中が驚愕の声を上げる。
彼の右腕に収束していた魔法は、もはや彼の制御を離れ、暴走を開始していた。
エネルギーの奔流が彼の身体に逆流し、その腕を内側から焼き、弾き飛ばす。
「ぐ……ああああああ!? な、なんだこれ!? 俺の力が……俺の力が言うことを聞かねえ!」
自分の最強の力が、今や自分を破壊する最悪の凶器へと変わる。
その絶望を、俺はかつて、骨の髄まで味わった。
そして今、目の前の偽物が、俺が乗り越えたはずの地獄に堕ちていくのを、俺は静かに見つめていた。
自らの魔力に焼かれ、苦悶の声を上げる田中に、俺はゆっくりと歩み寄った。
その手にはもう木剣はない。だが、今の俺にとって、武器など些末な問題だった。
「が……っ……やめ……やめろ……!」
暴走する魔力で身動きが取れず、恐怖に顔を歪める田中に向かって、俺は【剣聖の極意】を再構築した神速の技で踏み込んだ。
予備動作、重心移動、負荷分散。
俺が積み上げてきた全ての理論を完璧に実行し、身体を壊すことなく、音もなくその懐に潜り込む。
「なんでだよ!」
俺が眼前に迫っているというのに、田中は混乱の中で叫び続けた。
「俺は完璧なチートをもらったんだ! あんたみたいな、読者に媚びて魂を売った挙げ句、売れないゴミみてえな処女作を書いた奴が……! なんで!」
その、最後の悪あがきのような罵倒に、俺は静かに答えた。
「ああ、そうだ。俺は売れないゴミを書いた」
俺の言葉に、田中が虚を突かれたように目を見開く。
「だがな、あの物語には魂があった。お前のように、他人の力を借りなければ輝くこともできない、空っぽの魂じゃない」
俺は、振り上げた拳を固める。
そこに魔力は一切乗せていない。
俺がこの世界で、自分の頭脳と肉体だけで積み上げてきた、物理法則と身体操作の技術の粋。
ご都合主義ではない、確かな現実に根ざした、ただの「一撃」。
その拳が、田中の鳩尾に、深く、静かに、吸い込まれていった。
「ぐふっ……」
という短い呻きと共に、田中の意識は完全に断ち切られ、彼は糸の切れた人形のようにその場に崩れ落ちた。
静寂が、森に戻ってきた。
気絶した田中が転がり、俺と、俺の師と、そして俺の最初の主人公だけが、その場所に立っていた。
俺は、ゆっくりと天を仰いだ。
まるで自分自身に、そして目の前の女神に語りかけるように、万感の想いを込めて、静かに呟いた。
「――俺は、俺が作り出したご都合主義の最強に、初めて勝ったぞ」
その言葉は、誰に聞かせるでもない、俺自身の魂の勝利宣言だった。
ふわりと、女神が俺の目の前に進み出た。
その美しい顔には、涙の粒を浮かべた、穏やかな微笑みがあった。
『ええ。見事でした』
そして、彼女は俺に問いかける。全てを理解した上で。
『あなたの贖罪は、果たされました。元の世界に帰りますか? それとも、この世界で……』
俺は少しの間、この世界の澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
ギデオンの顔を見た。女神の顔を見た。
そして、決意を込めた、晴れやかな顔で頷いた。
「帰るよ。そして、もう一度書く」
俺の言葉に、女神は静かに耳を傾けてくれた。
「ランキングや評価のためじゃない。俺が本当に書きたいと思った物語……君の物語の、本当の続きをな」
その答えに、女神は、寂しさと、それ以上の誇りが入り混じった、最高の笑みを浮かべて頷いた。
『お待ちしています。創造主が、再び私を描いてくれる日を』
「ふん、達者でな」
ぶっきらぼうに、だがどこか優しい声でギデオンが別れを告げる。
俺の身体が、温かい光に包まれていく。ありがとう、師匠。そして、ありがとう。俺の、最初の主人公。
光の中で、俺の意識は静かに遠のいていった。
***
ピッ、ピッ、ピッ――。
無機質な電子音で、俺は目を覚ました。
見慣れた白い天井。消毒液の匂い。俺は、病院のベッドの上にいた。
過労死の淵から、奇跡的に蘇生したのだという。
数日後。
退院した俺が向かったのは、かつての薄暗いワンルームではなかった。
窓から明るい光が差し込む、新しい部屋。その机の上で、俺は真新しいノートパソコンを開いていた。
指が、自然とキーボードの上を走る。
打ち込んでいるのは、新作小説のタイトル。
『名もなき召喚士の英雄譚』
俺は、かつて誰も見向きもしなかった処女作を、異世界での経験という新たな魂を込めて、一から書き始める。
もう、ご都合主義の王だった頃の俺はいない。
ただ、物語を愛する一人の作家が、そこにいる。
その横顔は、自分でも驚くほど、自信と創作の喜びに満ちていた。
(完)




