第3話:力とは使いこなすものだ。俺は物理法則でチートを制御する。
川のせせらぎと、鳥のさえずりだけが聞こえる静寂。
その中で、俺の背後からかけられたしわがれた声は、やけに大きく響いた。
「魔力のダダ漏れだぞ。死にたいのか、小僧」
俺がハッと目を開けて振り返ると、そこには一本の木の杖をついた老人が立っていた。みすぼらしいローブをまとった痩身の身体。
だが、その剃刀のように鋭い眼光は、俺の内なる魔力の奔流を完全に見透かしているようだった。
「……あなたは?」
「ワシか? ワシはギデオン。しがない隠居爺さ」
ギデオンと名乗った老人は、ジロリと俺を頭のてっぺんからつま先まで嘗め回すように見つめた。
「お前さん、その身に宿しているものは何だ? とんでもない量の魔力だが、まるで奔流じゃ。制御というものを全く知らん。そんなものを抱えていては、いずれ自分もろとも周囲を焼き尽くすのがオチじゃぞ」
図星だった。俺は反論の言葉を見つけられず、ただ唇を噛む。
この老人には、嘘やごまかしは通用しない。俺は意を決し、自分が異世界から来たこと、そして与えられた力が祝福ではなく、制御不能の呪いであることを正直に打ち明けた。
俺の話を黙って聞いていたギデオンは、やがてカカッと喉の奥で笑った。
「面白い! 実に面白い! 創造主の気まぐれか、あるいは悪意か。いずれにせよ、お前さんはとんだ業を背負わされたもんじゃな」
彼は面白がるようにそう言うと、杖の先で地面をトンと突いた。
「よかろう。これも何かの縁だ。その呪い、このワシが多少はマシにしてやる」
「え……?」
「勘違いするな。手助けしてやるだけじゃ。お前の業は、お前自身が克服せねば意味がない。だが、死にたくなければ、ワシの言うことを聞け」
そう言ってニヤリと笑うギデオンの姿は、およそ聖人とは程遠い、偏屈な賢者のように見えた。
こうして俺は、この世界で初めて、頼るべき師匠を得たのだった。
***
ギデオンの庵は、森の奥深くにひっそりと佇んでいた。
質素な丸太小屋だが、一歩足を踏み入れると、壁一面を埋め尽くす膨大な量の書物と、薬草の入り混じった不思議な匂いに圧倒される。
「さて、小僧。まずはお前の現状を正確に把握するぞ」
庵の中央に座り込んだギデオンは、テーブルに置かれた水の入った木製のコップを指さした。
「最初の課題だ。そのコップを、中の水を一滴もこぼさずに、魔力だけで持ち上げてみろ」
「……そんなことでいいのか?」
「いいからやれ」
あまりに簡単な課題に拍子抜けしつつも、俺はコップに意識を集中させた。
体内の【無限魔力】を、ほんの少し、米粒の先ほどだけ引き出すイメージで――。
――パリンッ!
次の瞬間、木製のコップは内部からの圧力に耐えきれず、木っ端微塵に爆散した。
水が派手に飛び散り、ギデオンの顔にかかる。
「……おい」
「す、すまん! 今のはちょっと、感覚が……」
「もう一度だ」
俺は気を取り直し、さらに慎重に、魔力を赤ん坊の吐息ほどに絞り出すイメージで、新しいコップに力を向けた。
――バァン!
結果は、先ほどよりも派手な爆発だった。
何度やっても結果は同じだった。コップは爆散し、ギデオンの顔は水浸しになっていく。
やがて、額に青筋を浮かべたギデオンが、怒声を張り上げた。
「馬鹿者ッ! お前は蛇口をひねれば消防ホースの水が出る状態で、植木鉢の繊細な水やりをしようとしておるのと同じじゃと、なぜ分からん!」
ギデオンはびしょ濡れの顔をローブの袖で拭うと、心底呆れたように俺を睨みつけた。
「イメージするだけで魔法が使える、だと? そんなものはただの願望じゃ! 都合の良い妄想を現実に押し付けるな!」
その言葉は、俺がWeb小説家として逃げ続けた核心を、容赦なく抉り出した。
読者が求めるから、という言い訳で、俺はどれだけのご都合主義を垂れ流してきたか。
ギデオンは立ち上がり、書棚から一冊の分厚い本を取り出して俺の目の前に叩きつけた。
「よく聞け、小僧。力とは、まずその性質を理解し、法則を知り、手順を踏んで初めて制御できるものだ。お前がまず学ぶべきは、魔法ではない。この世界の理――魔法物理学じゃ!」
その本の表紙には、俺が見たこともない古代の文字で、そう記されていた。
***
ギデオンの庵での奇妙な講義が始まってから、数週間が経った。
俺は来る日も来る日も、庵の書庫にこもり、埃をかぶった魔術書を読み漁っていた。
ギデオンが叩き込む魔法物理学は、俺にとって驚きの連続だった。
この世界の魔力とは、決して万能の超常現象などではない。大気中に遍在する『マナ』という粒子が、生物の持つ『生命エネルギー』を触媒とすることで初めて現象として発現する、極めて理論的なエネルギーだというのだ。
術式、触媒、エネルギー変換効率……。
そこに書かれていたのは、ファンタジーというより、もはや科学の教科書だった。
そして、俺は気づいた。
この世界の法則は、俺がいた地球の物理学や人体の仕組みと、多くの共通点を持っているということに。
「そうか……! 魔力とはオカルトじゃない! この世界のルールに則った、再現性のあるエネルギーなんだ!」
雷光のような啓示が、俺の脳を貫いた。
ならば、やりようはある。
俺が持っているのは、ご都合主義の塊のような欠陥チートだけではない。Web小説家として、様々なジャンルの作品を書くためにかじり貯めた、中途半端だが幅広い地球の科学知識がある。
この二つを組み合わせれば、俺の呪われた能力を、この世界の法則に則った形で再構築できるかもしれない!
俺はすぐさま仮説を立て、実践に移した。
まず、【無限魔力】の制御。
ギデオンの言う通り、蛇口をいきなり全開にするから暴発するのだ。ならば、まずは体内の魔力回路という名の水道管と、俺の神経を精密に同調させる訓練から始める。
指先にだけ魔力を通す。それも、皮膚の表面を薄く撫でる程度の、極微量の魔力を。
これは脳科学における「ファインモーター(微細運動)制御」の応用に他ならない。ピアニストが指一本一本を自在に操るように、俺は俺の魔力を支配するのだ。
次に、【剣聖の極意】の再定義。
全身の腱が断裂するのは、脳からの音速で動けという無茶な命令に、肉体が追いついていないからだ。単純な話だ。
ならば、技を発動する前に、あらかじめ筋肉の動きを最適化する予備動作をプログラムすればいい。初動の衝撃を逃がし、遠心力を利用し、身体への負荷を極限まで分散させる。それはご都合主義の異能ではなく、人体の構造力学に基づいた技術となるはずだ。
膨大なトレーニングで、脳に動きをプログラムさせられば、可能なはず。
俺はギデオンから借りた一本の木剣を手に取った。
もう、ご都合主義の力には頼らない。俺は俺の頭脳と理論で、この呪いを乗り越えてみせる。
来る日も来る日も、俺は庵の前の広場で、負荷を計算し尽くした剣の素振りを、ただひたすらに繰り返した。
***
ある晴れた日の午後、ギデオンが俺を広場に呼び出した。
「そろそろ、最初の成果を見せてみろ」
ギデオンが杖で地面を叩くと、彼の足元の土くれが盛り上がり、一体の人型のゴーレムが形成された。岩石でできた、鈍重だが頑丈な魔術兵器だ。
ギデオンは懐から木製のコップを取り出し、なみなみと水を注ぐと、こともなげに俺に尋ねた。
「課題はこうじゃ」
ギデオンはニヤリと笑う。
「あのゴーレムを、このコップの中の水を一滴も揺らさずに、お前が持っているその木剣で破壊してみせろ」
その言葉の意味を、俺は一瞬理解できなかった。
俺の困惑をよそに、ギデオンはひょいとゴーレムの頭上に、なみなみと水を注いだコップをそっと置いた。
あまりに無茶な要求に、俺は息を呑んだ。ゴーレムを破壊するほどの衝撃を与えながら、その振動を完全に殺し、コップだけを揺らさない。
そんな芸当が、本当に可能なのか?
いや、可能だ。俺がこれまで積み上げてきた理論と訓練が本物ならば。
俺はゆっくりと目を閉じ、瞑想で精神を研ぎ澄ませる。
体内の魔力の奔流を、意識の力で静止させる。
そして、その膨大なエネルギーの中から、髪の毛一本分ほどの、ごく微量の魔力を慎重に引き出した。
その魔力で、全身の筋肉をわずかに強化する。
次に、これまで来る日も来る日も反復練習してきた、*負荷を分散させるための予備動作へと移行する。
左足を半歩引き、腰を落とし、体重を乗せる。全ての動きは、ただ一点に最大の運動エネルギーを集中させ、それ以外の余計な衝撃を完全に殺すために計算し尽くされている。
「――ふっ!」
短い呼気と共に、俺はゴーレムの懐へと踏み込んだ。
振り上げた木剣が、ゴーレムの胴体にある魔力循環のコア――俺が魔法物理学の知識から割り出した唯一の弱点――に、寸分の狂いもなく吸い込まれていく。
――コン。
木と石がぶつかる、乾いた、あまりに軽い音が響いた。
その瞬間、俺は叩き込んだエネルギーが、まるで針のようにゴーレムの体内を一点突破していくのを感覚として理解した。
次の瞬間。
ゴーレムは、まるで内部から崩壊するように、全身に亀裂を走らせ、ガラガラと音を立てて砕け散った。
そして――。
額の上に置かれていたコップは、衝撃で崩れ落ちるゴーレムの残骸から、ふわりと宙に浮き上がっていた。
俺はすかさずそのコップを空中でキャッチする。中の水は、表面張力を保ったまま、一滴たりとも揺れていなかった。
「……はぁ……はぁ……っ」
俺は汗だくになり、木剣を杖代わりにして、その場で肩で息をする。
だが、身体は壊れていない。腱の一本も断裂してはいない。
俺は初めて、ご都合主義のチートではない、自らの意志と理論で制御した力で、不可能とも思える課題を達成したのだ。
「……ふん。ようやくスタートラインに立ったな、小僧」
背後で、ギデオンが満足げに頷くのが分かった。
俺の顔には、確かな成長への手応えと、ご都合主義の自分に打ち勝ったという、ささやかな自信が浮かんでいた。




