紅蓮の火柱
次回の読み切り漫画の小説版です。
私が変わるきっかけは、最愛の妻を亡くした日だった。
世界の終わりなんて、私は興味がなかった。
それ以上に、妻のいない世界が耐えられなかった。それだけだったのだ。
これは、私。茨木紅蓮が壊れた後の話だ。
今でもよく覚えている。
その日は異常に暑い日だった。
焼けるような太陽が照らし、アスファルトの上で卵も焼けるなと思えるような日。
いつも通り私と妻の焔と息子の幸太郎。三人で近くのショッピングモールに行く途中だった。
タイヤのゴムが激しくすれる音、焦げた匂い。
嫌でもまだ鼻腔に残っている。
けたたましい轟音と多くの人々の悲鳴。
ショッピングモール前の横断歩道。迫ってきたのは居眠りをしている運転手を乗せた大きなトラックだ。
横断歩道の中腹にいた妻は私と幸太郎を激しく歩道の方へと突き飛ばした。
無数の人々がタイヤにまきこまれ、空中を舞い、妻の体も弾き飛ばされたのが見えた。
そして、地面に叩きつけられた直後、その頭部をタイヤが砕き、轢殺していった。
これがあの日に起こった全てだ。
幸太郎は泣かなかった。いや、おそらく泣けなかったのだろう。
自分の息子が涙を流せない中、私は頭のなくなった妻の体を抱き上げて号泣していた。
まだ彼女と結婚して七年目だった。まだ私も29歳だった夏。
私は、妻を亡くして息子と二人になってしまった。
息子を義母に預け、妻の遺体や事故の事情聴取を受けている中、脳みそがぐちゃぐちゃになるほど感情の処理ができなくなっていた。
もう何がなんだか分からなかった。どうしてこんな酷い仕打ちを。なぜだ。神様……。
楽しい時間が真っ赤に塗りつぶされた時間。
遺体の首より上を切除してもらい、外傷を整えてもらった妻が帰ってきたあと、私は虚ろな目で妻と一緒の霊安室で呆然としていた。
脳裏に彼女との楽しい思い出がフラッシュバックしていたことは言うまでもない。
何度も嗚咽を漏らし、喪失感とこれからの不安でいっぱいになってしまっていた。
そんな時、声がしたのだ。
「これからの事なんて考えなくて良い。どうせこの世界は終わるのだから」
声がした方へ振り向くと、そこに十六歳ほどの黒髪の少女が立っていた。
誰だ? ここは親族以外入って良い場所ではないはず。
いや、そもそも、今扉が開いただろうか?
まるで最初からいたように彼女はこちらに歩み寄りながら、こう問いかけてきた。
「世界の全てを灼くことになったとしても、君の彼女を取り戻したいかい?」
「え……?」
黒ずんだ双眸がこちらを見つめている。
あまりにもどす黒い目だ。きっと悪意に満ちた人物はこういう目をしているのだろう。底なしの悪意と天使のような甘い囁き。壊れかけの私の心の傷によく染み入る甘言だった。
「でも、彼女は死んで……」
「死んだ……なんてことは俺達にとっては他愛もないことだ。魔法が使える魔法使いにとっては多少の不都合な現実など無かったことに出来る」
魔法使い? なんだ? ファンタジーの話をしているのか?
戸惑いながらも、妻の前で彼女は言う。
「君、魔法使いにならないか? そして、魔法使いの頂点【黒塗姫】になってほしい。さらに君、科学者なんだってね。ならば、より効率的に魔法使いを増やす手段も思いつくだろう?」
「なんだ…魔法使い? 何を言ってるんだ?」
「俺の名前はクロノスタシス。魔法使いを生み出し、黒塗姫を生み出し、世界の終わりに次の世界を作り出すもの。端的に言おう。この世界はもうすぐ終わる。極彩色の黒塗姫が現れる。世界を全て焼き払うために。それを打ち倒す黒塗姫が必要なんだ。」
さっきから何を言っているのか分からない。一方的に説明ばかりされる。
しかし、彼女の体が、背骨からぐぐっと持ち上がるように突き上がると、ざわざわと全身に急に毛が生え始める。茶色の毛。そして尻の上から生え始める黒い尻尾。
やがて、狼のような二足歩行の生物になった彼女はこちらに手を差し伸べながら。
「難しい話はあとでいい。今、君が考えるべきことは妻を生き返らせたいか。そして、世界が終わることは避けられない。その先が重要だ。新たなる世界の神になる権利が欲しくないか? そうすれば君は、君たち家族三人で永遠に幸せな時間を得ることだって出来る」
「家族三人で…?」
「望むならこれを……受け入れ給えよ」
そう告げるクロノスタシスはどこからともなく、金の杯を取り出していた。
そこには溢れんばかりに真っ赤な…血液が入っていた。これを飲めということだろうか。
クロノスタシスの目を見ると、軽くあごでくいっと動かし、飲み干すような仕草を見せる。
これを……この真っ赤な血を。
普通の赤じゃない。煮え立つような、飲み込まれそうなほどに深い赤。
これは…普通の人間の血とはかけ離れている。こんなものを飲んで自分はまともでいられるのだろうか。
……だが、今となってはまともであることなんてどうでも良かった。
息子には母が必要だ。私にも妻が必要だ。
彼女がいない世界なんてあっても仕方がない。
そう決めると、ぐいっと彼女の遺体の前でそれを飲み干した。
視界が灼けた。
体が熱い。
炎に包まれるような痛みの中、目尻や鼻。口からぼたぼたと液体が流れる。
血だ。真っ赤な血が流れていく。
部屋の景色が赤く染まっていく。血管が沸騰し、筋繊維が悲鳴をあげるのが分かる。
痛い…だが、あの時私達を助けた妻の痛みを考えれば余裕で我慢が出来る。
妻のなくなった頭部の首元にすがりつきながら、見つめていた。
自分の血液が溢れて止まらない。
溢れ出した血が、妻の首元に溜まっていくと、次第にそれはベッドの上を這い、奇妙な紋様を浮かび上がらせた。
直後、凄まじい発火。
破裂するような音と共に、炎が吹き上がり、花火を点火したように細い炎のすじが妻の首から吹き上がった。
そのまま起き上がっていく妻の体。
首元からは天井を焼くように激しい火柱が上がり、それは妻の面影が残った、狼のような炎の頭部へと変化していく。
気がつけば、自分の手はクロノスタシスと同じような毛並みに覆われていた。
自分の顔をなぞると同じように毛並みが。いや形が……。
これは……そうか。これが魔法なのか。
「随分と長く眠っていたようだわ。貴方」
「あぁ……おはよう……焔」
彼女は死に装束のままこちらに身を寄せると優しく抱擁してくれた。
あぁ……なんて非現実的なんだ。
しかし、これでいい。これがいい。
もう消えてほしくなんかない。消そうとする現実なんて存在してほしくない。
「さて、願いは叶った。君は……どうする?」
私は妻を抱きしめたまま、クロノスタシスに告げた。
「世界を灼こう。世界の終わりを生み出す黒塗姫を倒し、私は私の家族と次の世界を作り上げる」
「素晴らしい魔法使いの誕生だ。ようこそ、紅蓮。魔法使いの世界へ」
クロノスタシスという担い手の手を取れば、その瞬間、病院全域に火柱がほとばしり、爆発した。
全壊した病院の瓦礫の上から、私と焔は帰路へ向かう。
息子に会うために。そして…。
「では、黒塗姫を作っていこうか。紅蓮」
「出来る範囲での協力は惜しまないよ、クロノスタシス」
私の新しい人生の始まりだった。




