七話 慧の気持ち京の心
過去の慧の決断と校舎裏で別れた後の京です
──半陰陽。聞かされたのはそんな言葉。本当は女性だったとか、身体の中身も女性だとか。
中学生の僕には重すぎる選択で、それでも男か女か選ばなくてはならなくて──
あれよあれよと時は過ぎ、僕は決断する。
「分かりました。あなたの意見を尊重しましょう」
白衣のおじさんが言う。
結論だけ言うと、僕は女の子になることが決まった。その意志決定に一切拓馬は関係無いし、女の子になって驚かしたいという気持ちもない。
ああ、もしも拓馬が僕に惚れたらどうしよう。態度次第では付き合ってあげてもいいかもしれない。あいつこの前フられてたし、何だかんだで優しいし、カッコいいし……はっ! 拓馬は関係ないぞ! 関係ないったら無いんだ!
実際、この決断は辛かった。男として生きてきた今までを否定されるようで、無かったことになっちゃうみたいで、枕を涙で濡らしたなんて一度や二度じゃすまなかった。でも、どうにも僕の心の大部分を占める馬鹿者がいるせいで最初思ったより忌避感は無かったんだ。
僕にとって本当の地獄は手術後だった。
終わった後の喪失感、もう二度と戻れないからこその渇望、安易に決めた訳じゃないけど自分で自分を責めた。
苦しくて。
悲しくて。
辛すぎて。
胸の寂寥感。ぽっかりと胸に穴が空いてしまったようで、そこから抜け落ちた何かを探すように一度や二度ならず暴れた。
だけど泣きだけはしなかった。
拓馬が来るまでは、泣かないと決めた。絶対に。
共働きの両親よりもずっと一緒にいたのが拓馬だ。小さい頃からずっとずっと、いろんな初めてを拓馬と経験した。
だから、女の子になってから最初の泣き顔と、本当の意味で生まれ変わるのは拓馬が来てからにしようって──
──愚かな僕は考えたんだ。
一日待っても拓馬は来ず。二日待っても拓馬は来ない。三日四日と日にちは進み、五日六日と針は進む。一週間待って二週間待ってようやく僕は気がついた。
拓馬にとって僕はとるに足らない人間なんだって。いてもいなくても変わらない。その他大勢の一人なんだって。
引っ越しの話をされたとき、僕は迷わず頷いた。
町を去るときも、一切僕は泣けなかった。
それから少しして、面会謝絶を知ったんだ。
どうしようもなく凍ってしまった僕の心は、それを知っても癒えることは無かった。拓馬は来なかった。それだけで十分すぎたのだ。
名前を変えて、東雲京。昔の僕はどこにもいない。無感動、無表情に生きてくうちに、家族にすら腫れ物扱いされるようになっていた。
それでも僕は泣けなかった。
私はただの一度も泣いたことがなかった。
いつの間にか中学校は卒業し、高校の入試は一応やらされた。
そして──
──私は拓馬と出会ってしまった。
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ここはどこ……? 僕はどうしてこんな場所にいるんだっけ……?
「はあ……はあ……」
校舎の壁に身を任せて荒い息を吐いた。外は雨。私はあの男に呼び出されて……ああもうイライラする。
嫌いだ。嫌いだ。嫌いだ。あんな奴、今さらどうして……!
最悪だ。奥に奥に閉じこめたはずの感情が、出て来ちゃう。
……ああ駄目だ、ここにも雨が降ってるや。
「……っく……ひくっ……ひっ」
教室に戻るのは嫌だな、でも荷物あるし……保健室のベッドで放課後まで時間を潰そう。そこならきっと、雨も降らないだろうから。
私は虚ろな歩みで保健室へと向かった。
どういう道順で保健室に行ったかなんて覚えてない。気がついたら保健室の前だった。ノックもせずに入室すると、こちらを見て驚いた顔になる二十台後半の独身、もとい保健室の先生。
「……今とても腹が立つことを言われた気がするわ」
気のせいです。
「……はあ……まぁいいわ。とりあえず椅子に座りなさい」
私は授業をサボるために寝に来たのです。
「相っ変わらず堂々とサボタージュ宣言するわね、あなた」
えっへん。
「威張るなら無表情は止めなさ……いや、今日は違うか」
なにがです?
「まずは椅子に座りなさい」
えー。
「座りなさい」
……はい。
言われたとおりに椅子に座った。仲が妙に良いのは私が学校に来る際必ず保健室登校だったから、だけではない。私がこうなってしまった後に、真っ直ぐ真っ正面から向き合ってくれた唯一の人だから。ぶっきらぼうな物言いに不真面目な態度でテキトウな性格だけど、とても優しい人である。
……おかしい。私はこんな評価を彼女にしていなかった。お節介で鬱陶しい奴、そんな評価だった気がする。
心境の変化があった? どうして。
「で、なにがあったの」
「特に、なにも」
彼女はやおら立ち上がるとタオルとコヒを手に持って私の前へ座った。っと、両方とも私宛でしたか。
「へえ……ずぶ濡れで泣きながら現れといて、特になにもないと」
タオルに身をくるんだ私はどんな表情だったのだろうか。彼女は嘆息した。
「全くもう、この無表情娘は……」
「わ……やめ……」
グイグイグイっと顔をハンカチで拭われる。
「はい、綺麗になったわって、ちょっ! なんでまた泣くのよ」
ツツツゥーッと私の瞳から涙が流れる。今度は知覚できた。確かに私は今泣いている。
とっくに凍ってしまったと思ったのに、大嫌いなあいつは迷惑ばかり。
……僕が昔決めたことだっけ、あいつと再会するときが泣くときだって。つまりそれが凍った感情の引き金?
この胸の痛みはなに──?
分からない。分からない。分からない。悲しい、切ない、辛い、怖い、痛い。どれも懐かしくて、でもそのどれにも該当しない、甘くて疼くような痛み。
「改めて聞くわ──なにがあったの?」
「──西島拓馬」
口をついて出たのは彼の名前。彼のこと大嫌いなはずなのに、私の中に勝手に巣くう彼。
「ああ、彼ね。もしかして詰め寄られた? 如月慧くん、ちゃん? を知らないかって」
呆れたような彼女の声。昔の名前と内容に私の疼きは高まる。
「だとしたらごめんなさいね。彼、普段はいい子なんだけど如月慧くんのことになると人が変わるのよ」
切ない。嬉しい。じくじくと甘く疼く。私も彼の中に存在していた。
「見境がなくなるというか、その子のこと本当に好きなんでしょうね。入学して次の日には職員室まで乗り込んでいったのよ?」
笑いながら彼女は話した。彼が入学してこれまでの武勇伝。
彼の軌跡を聞けば聞くほど、甘い疼きが媚薬のような高揚感に変わっていく。憎しみが愛おしさに変わっていた。
「この学校に入学したのだって、その子がいる可能性が一番高かったかららしいわよ」
彼は私と同じように、私がいなくなってからこれまでを無駄にしてきた。
それがたまらなく愛おしい。それを知った今では会いに来てくれなかった憎しみなんて、会えた嬉しさに比べたら塵芥に等しい。
元々私の憎しみなんて会えない切なさが転じただけのこと。‘会いたい’というオモいを封じた、会いたくない。好きだから、嫌い。
一年近く凍結していた私の心はいともたやすく溶けていった。
……さて、考えてみて下さい。取り戻した感情はこれまでの私の言動を省みた。そうすると、どうなるかを──
「……先生、とりあえず寝かせて下さい。死にそうです」
「ん? ってわっ! 顔真っ赤じゃない! どうしたの、本当に珍しいわね」
「なにも聞かずに寝させて……」
「……はあ、わかったわ」
カーテンで仕切られたベッドの一つに潜り込んだ。顔は真っ赤、動機は激しい。なぜならなぜなら──
──とても恥ずかしいからさ!
フッフヘ、ヘ……なんだよこれ、‘凍った感情’とか……ただ会いに来てくれなかったから色々と物事が億劫になってただけじゃん……再会したときに怒ったのは、いわゆる癇癪──拗ねてただけですね分かります!
まあ実際問題僕は拓馬と育ってきたようなものだし? 両親は半陰陽って分かった頃から余所余所しくなったし? 手術後なんて目に見えて余所余所しくなったし? 精神的不安定になってた時の拠り所が拓馬だったし? 男としてのアイデンティティなんてなくなったから精神的にヤバいけど……って割と危ないことには変わりないわけですか、そーですか。
でもね、世界で一番不幸な私を素で行っていたのは痛々しい。もし拓馬と再会&保健室の先生による拓馬の話が無かったら……私は私のままでした。
ところで‘僕’なのか‘私’なのか自分でも分からないんだがどうしたらいいと思う? 笑えばいいと思うよって言ったらブチのめすのであしからず。残念ながら表情筋が固まってるためしばしのリハビリが必要だと思われなので、大きな表情の変化は無理ポなのです、でげすです。
んむ、いい感じに思考が混沌としてきたよ。答えが見つけられそうにないね、大変だ。僕としては今すぐ拓馬の所に行って抱きしめたいが、私としてはしばしの時間を置いて余裕を持って拓馬を抱きしめたいと思うのだがどうだろうか? 結局抱きしめることに変わりはないね、ははは。
おかしいね、おかしいな。僕の自意識は一応男のはず。昔からいくら拓馬とずっといたからってBLチックな感情はないのに、どうしてだろうか狂おしいほど拓馬が愛おしいよ。気持ち悪いね。吐き気がするよ。僕のことだよ。
寝よう。眠ろう。疲れているんだ。久しぶりに頭一杯働かせたからね。おやすみ──
──少女は気がつかない。長い間抑制された感情が別のものに変じていることに。
──少女は思い出さない。かつての絶望、かつての渇望と、かつての親愛を。
──少女は気がつけない。自分がいかに危ういバランスの上に成り立っているかを。
一度狂ってしまった歯車は、部品を変えて廻り出す。ギチギチと不協和音を奏でながら。それが壊れるその時まで。
…駆け足気味で申し訳ありません。
あまりにも昔に考えた設定に、自分すらどうしたらいいのか……
うぅむ……明らかに慧の思考がぶっ飛んでるのです…