前編
現在完結している「令嬢たちは戦う」を執筆していた際に、思いついた作品です。設定がふんわりしているところもありますが、ご了承下さい。
「カトレア、お前とは婚約破棄だ、破棄!」
いきなり放たれたその言葉に、その場にいた全員が一斉に声の方向を向いた。
ここは学園にあるホール。そして本日は毎年王城で開かれている社交パーティのための訓練として、毎年学園が主催するパーティ。学園中の王族から男爵家の令息令嬢まで貴族全員の参加が義務付けられているこの訓練の一環として開かれたパーティの最中に、壇上から怒鳴り声が聞こえた。
壇上から唾を飛ばす勢いで怒鳴りつけたのは、この国の王太子であるナルシスだった。彼の周囲には側近候補の二人がおり、彼らも目の前の女性を睨みつけている。
ナルシスの後ろにいる二人は、この国の宰相の息子であるモルビドと、騎士団長の息子であるムスコロだ。その二人は彼らの後ろで小刻みに震えている子爵令嬢を守るかのように、立ち塞がっていた。
彼らは後ろにいるピアレという令嬢には温かい視線を送る一方で、一人の令嬢に牙を剥いている。
その令嬢がカトレア。彼女は公爵令嬢であり、王太子ナルシスの婚約者でもある人物だ。彼女は先程から壇上にいる彼らから視線を外す事なく、じっと見つめている。
長いまつ毛に細く切長の瞳、ふっくらとして赤く色づいた唇に陶器のように白くシミひとつない肌。美しい容姿だけではなく、背筋を伸ばし微動だにせず佇んでいる彼女は、誰もが美しいと認めるほどの美女である。
だがその一方で、陰では「人形令嬢」というあだ名で呼ばれていた。その理由は二つ。感情を滅多に表に出さないことと、非常に無口であることから来ていた。何を考えているか分からない、それはまるで人形のよう。そこから彼女を蹴落とそうと敵対令嬢たちが流した蔑称、それが人形令嬢だった。
ナルシスたちも彼女がそう呼ばれている事を知ると、嬉々としてそれを使うようになる。そう勿論今もだ。
彼はカトレアへと人差し指を向け、見下しながら大声で言い放つ。
「人形令嬢であるお前は婚約者に笑いもせず、会えば小言ばかり。これでは王太子である私の気が休まらないではないか! なあ、お前たち?」
「仰る通りです。次期国王として重大な責任を抱えているナルシス殿下に必要なのは、貴女のような無表情で殿下を楽しませることのできない令嬢ではなく、ピアレのような可愛らしく殿下を癒すことのできる令嬢でしょう」
モルビドがナルシスの後に続いて話をすれば、隣にいたムスコロもその意見に同意なのか、腕を組みながら訳知り顔で何度も頷いている。
現在壇上から彼女を見下ろしているナルシスも、最初は彼女との婚約に実は満足していた。少々自分には劣るが、自分と並び立つ事ができるであろう美貌を持ち、彼女の地位も公爵家と問題ない。
そして一番の決め手は、最愛の母である王妃が彼女を推していた事だ。彼女が婚約者であれば、王位は確実。何ならナルシスが戴冠した暁には、彼女に公務を任せ、ナルシスは必要最低限の公務で後は遊び暮らせば良い……そう何度も母から言い聞かせられたナルシスは、彼女を便利な婚約者として認識した。
実際非常に便利だった。
学園へ入学する前はナルシスもカトレアも王城で王太子教育と王子妃教育を受けていたのだが、暫くするとナルシスは「カトレアに覚えさせれば良い」と告げて、王太子教育を抜け出す事が多くなった。
抜け出す事に教育係が苦言を呈せば、ナルシスは父に告げ口をしてその教育係をやめさせてしまう。そんな先輩の姿を見て首を切られる事を恐れて残った教育係は、ナルシスの言葉に従って抜け出す事を認め、されなかった教育分はナルシスの言う通りにカトレアに勉強させていった。
それもあって、週一回行われる婚約者との交流会での二人の会話は、年を経るごとに噛み合わなくなっていくのは当然の事だった。この頃にはカトレアは王子妃教育だけではなく、王太子教育までも並行して教育させられていたため、彼女はナルシスに苦言を呈していた。
カトレアの苦言は、ナルシスが次期国王としての覚悟が足りないという話だ。この国は現在王位継承権を持つ人間が彼のみである。だからこそ、彼以外が国王になる事は普通であれば、あり得ない。
だからこそ、カトレアとしては自ら先頭に立てるだけの知恵と知識を得て欲しい、と切に願って小言を伝えていたのだが……。
学園入学前には何度か開かれていた交流会も、入学後には「多忙」を理由に開かれなくなり、学園でもクラスが異なるからなのか顔を合わせる事も無くなった。偶然すれ違う時にカトレアが挨拶をすればナルシスからは舌打ちされ、側近二人は無視する始末。
その時期になるとカトレアは諦めたのか、ナルシスに苦言を呈する事は無くなっていた。それを彼らはどう捉えたのかは分からないが、彼女が何も言わない事を良い事に、調子に乗り始めたのである。
「人形令嬢」はそんな時期にある令嬢が陰で話していたのを偶然聞いたナルシスが、周囲へと言いふらしたのきっかけだった。
だがナルシスとしては、この時点でまだ婚約破棄の事は頭に無かった。小言は煩いが、便利な奴。王太子である俺が結婚してやるんだから、お前は俺に尽くせ。それがお前の喜びだろう――くらいの考えだった。
そんな矢先にナルシスはピアレと出会ったのである。
初めて彼女と出会ったのは目と鼻の先で偶然、彼女が転んだところに三人が居合わせた事がきっかけだ。側近である二人が驚くほど自然に、ナルシスが倒れた彼女に手を差し出したのだ。
ナルシスは不思議だった。母である王妃に自分から手を出さないよう厳しく言いつけられており、その点は徹底していたはずだ。それなのに何故か、あの時は無意識に面識のない令嬢に手を差し伸べていた。後々それが運命の導きである、二人は結ばれる運命にあるのだ、と脳内変換していったのだが。
とにかく、天真爛漫で守ってあげたくなるような……小言の多いカトレアとは違い、自分をいつも肯定してくれる彼女に夢中になっていくのは自然な事だろう。
ナルシスはピアレと交流を持つようになってからは、学園だけでなく王城でもカトレアと顔を合わせる事もなくなった。その事を心配した王妃にカトレアとの様子を聞かれた事も何度かあったが、「問題ありません」と言えば、彼女も渋々ながら息子を信用してくれたらしく、カトレアとの仲を尋ねることもなくなっていった。
だからこのまま何もなければカトレアを王妃として娶り、白い結婚をしつつ数年後にピアレを側妃の一人として召し上げる予定だったのだが……。
「それだけではない! ピアレが私の寵愛を受けているから、と彼女へ嫌がらせをしたのはお前だろう? ピアレや二人から聞いたぞ。お前が嫉妬から彼女の教科書を破り捨てたり、持ち物を壊したり……噴水や池に突き落としたり、実験と称して攻撃魔法を撃ったり……果ては、ピアレを階段から突き落とそうとしたという話まで……嫉妬から他人を害するお前は王妃に相応しい人間ではない!」
人差し指を突きつけながら言ってのけたナルシスだったが、突き付けた相手であるカトレアの反応は鈍かった。分かる者が見れば彼女の眉尻が少々下がり、困惑しているようにも取れるが、周囲はその変化に全く気がつかない。
言いたい事を言い終えて満足しているナルシスだったが、次の彼女の言葉で冷や水を浴びせられる。
「物的証拠はございますか?」
「証拠なら、ピアレと側近の証言が――」
「物的証拠はございますか?」
至極当然である事をカトレアはナルシスへと告げる。
そもそもの話、この婚約は彼の母である王妃が取り付けた婚約であり、契約である。
その契約を自ら破ると公の場で宣言しているのだ。もし婚約破棄をするのであれば、ナルシスは周囲の目がないところで両家の両親を呼んでから行うべきであった。現在の彼の行動はまともな貴族から見れば、常識がなっていない……教育に失敗した王族というレッテルを貼られてしまう。
つまり王家の失態なのだ。ナルシス本人はピアレを守るための騎士としてのだという高揚感でその事に気づいていないが……。
それに彼の話す嫌がらせ、というものにカトレアは覚えがなかった。これがもし証拠すらない当事者による証言のみの断罪であるならば、王家にとんでもない傷を付ける事になる。それもナルシスは理解していないらしい。
まあ、仕方がない。彼はこの国を取り巻く周辺国関連の勉強も、彼女に押し付けていたのだから。
固唾を呑んで見守っている周囲の令息令嬢たちも、半数以上はカトレアが貶められる事を是とし、ピアレの肩を持とうと考えている者たちだ。残りは中立、もしくはナルシスの行動に眉を顰めながらもカトレアの出方を伺っている者たち。
そしてこの騒動を一番遠くで睨みつけているのは、カトレアの義妹であるソレラだ。彼女は野次馬で近づいている貴族たちとは違い、広間の壁に背をつけ唇を噛みながら、鬼のような形相でこちらを睨みつけている。
ナルシスの発言に被せるように発言したカトレアの態度に、ナルシスは苛立ちが募る。彼女が全く反省をしていない言動と、まるで自分を見下しているかのような無表情に彼は我慢ならなかった。
だからその選択が今後の自分の将来に影を落とす事になるなど、思いもよらなかったのだ。
「証拠など、ピアレの証言のみで十分だ! ムスコロ!」
「承知」
三人は事前に話し合っていた通り、行動を起こす事にした。もしカトレアが罪を認めなかった場合、彼女の大切な物を奪い破壊する事を決めていたのだ。
それを選んだのは、彼らが初めてピアレの涙を見た時……彼女の大切にしていた髪飾りを壊されたのだ。大切な物を失う痛みを彼女に教えるべきだ、そう信じて。
彼ら、特にムスコロが何をするのかが分からなかった事から、周囲だけでなくカトレアも反応に遅れた。その一瞬をついて、彼は自慢の機敏さを生かしてカトレアの首に掛かっていた赤い宝石のネックレスを取り上げる。
思った以上に簡単に首から外れたソレに疑問を覚えることもなく、ムスコロは彼女が無表情で胸元を見ている間にナルシスへと向けて放り投げ、それを捉えたのは、ナルシスより前で構えていたモルビドだ。彼は落とす事なく無事に手にしたネックレスをナルシスに手渡した。
その光景に流石のカトレアも呆然としたのか、目を少し見開いているように見える。その表情の変化に気づいたナルシスは、彼女に一泡吹かせる事ができたという興奮も相まって、更に過激な方向へと舵を切っていく。
「お前もピアレと同じ目にあえば良いさ。そうすれば彼女の痛みを知れるだろう。そう思わないか、二人とも?」
頷くモルビドとムスコロを捉えたナルシスは、受け取ったネックレスを右手で握りしめ、それを高く突き上げた。そして――
「はあっ!!」
気合いの一声とともに、右手を勢いよく振り下げながら、握りしめていたネックレスを思いっきり床へと叩きつけたのだった。
パリーン、と大きな音が鳴り、床に打ち付けられて割れたのは赤い宝石だ。それは衝撃で金の土台から外れたのか、粉々になってその場に散っている。だが、ナルシスとしては残念な事にそれ以外の金で作られた装飾部分は形を保っていたため、更に絶望を誘うようその土台も足で踏みつけた。
いつの間にかモルビドとムスコロも彼の隣で同じように土台を踏みつけ、グリグリと床に押し付けている。その圧力もあってか土台の繋ぎ目は壊れ、ネックレスとして使用できない程の損害を与えていた。
ナルシスは笑った。やっと彼女に一泡吹かせる事ができた、と。そんな高揚感を抑えきれずにカトレアへ満面の笑みで振り返ると、彼女の身体が斜めになっていくのが見えた。
それはとてもゆっくりとした時間だった。
まるで時間が止まったかのように、彼女の身体は緩やかな動きで倒れていく。顔が見えなくなり、頭のつむじが見え、バタンという大きな音とともに彼女はうつ伏せに倒れていた。
最初は倒れた彼女を訝しげに見ていた周囲だったが、彼女がぴくりとも動かない事に気づき、次第に騒々しくなっていく。
周囲から「身体が動いていない」という声があちこちで聞こえていた。
最初は壇上から見下ろし笑っていた三人も、周囲の言葉と彼女が動かないのを見るとだんだん顔色を変えていく。
だが、一人だけ……ナルシスだけは、カトレアが冗談で倒れているのだろうと憤怒していた。彼は壇上から降り、うつ伏せになっているカトレアの肩の辺りを思い切り蹴り上げた。
彼の中では、カトレアはナルシスに構って欲しいからここまで彼を困らせていると思っている。だからお仕置きも兼ねて肩を蹴り上げたのだ。
周囲はナルシスの行動に驚き、息を呑む。周囲が静まり返った中、うつ伏せだった彼女の身体は、蹴り上げた拍子に大きな音を立てて仰向けになるが、その身体は全く動かない。
「死んでいる……」と呟いたのはどこの誰だったのかは分からない。周辺の令息令嬢たちは勿論、この事態を引き起こしたナルシスたちも彼女の無惨な姿に声を出す事ができなかった。