花咲く前の3日間
婚約破棄後の3日間からお読み頂くと話の流れが分かりやすいと思いますので、そちらの方も読んでみてください。
書類を書き終えたを止めた彼女は、小さく伸びをして窓の外を見た。
外はいい天気で、雲ひとつない青空だ。
どこまでも続いて見えるのはのどかな田園風景で、所々にある花畑や果汁園の花が青々した中に彩りを添えていた。
――コンコン、コン。
「失礼するわ。お茶をしましょう、アイリーンさん」
「……お義母様」
やって来たのはアイリーンにとって義理の母に当たる女性だった。
女性はアイリーンの目の前にある書類をみて小さく息を吐いたあと、アイリーンの方に心配そうな顔を向けた。
「まったく、あの子は。アイリーンさんに仕事をやらせて」
「私がやりたくてやっていることですから」
息子に対して怒りと呆れを見せる義母に小さく笑ったアイリーンは、ウォーレンがいるであろう方角を見つめるのだった。
――ここ、ヒガラ領は数ヶ月前に1組の夫婦が誕生した。
妻の名はアイリーン。
第1王子アーレントの元婚約者で、彼が心から愛する人を見つけたと悪女にされ婚約破棄を突きつけられ、世間で嫌われているウォーレンの下へ嫁ぐことになり、現在は王妃教育で学んだことを活かして義父の手伝いをしている。
夫の名はウォーレン。
押し付けられたアイリーンを嫌な顔ひとつせず快く良く受け入れて、アイリーンを嫁にすることで自分は国1番の果報者だと言い切った。
そんな彼は家のことを父と妻のアイリーンに任せて何をしているかと言えば、領民たちと汗水たらして泥まみれになっている。
「ただいま帰りました」
昼が過ぎる頃、服を泥だらけにしてウォーレンが家に帰ってくる。
泥だらけの服に使用人が洗濯が大変などと小言を言いかけて止まる。ウォーレンの背後に洒落たスーツを着こなす男がいたからだ。
「エルダー侯爵様!」
「いやぁ、ここのフルーツが食べたくなってしまってね」
おおらかに笑う侯爵の隣で、ウォーレンが畑仕事の手伝いもとい、作った機材の試運転をしているところにエルダー侯爵がやってきたので作業を切り上げて帰ってきたのだとのんびりした口調で出迎えてくれた使用人に説明していた。
「おかえりなさいませ、ウォーレン様。……ようこそいらっしゃいました、エルダー侯爵様」
使用人からの連絡を受けてウォーレンを出迎えに向かったアイリーンは、エルダー侯爵の姿があることに一瞬驚いたがすぐさま切り替えると淑女らしくエルダー侯爵を出迎える。
「急に来てすまないね。しかし、定期的に来なければ調子が狂ってしまうのでね」
「ありがとうございます、侯爵。フルーツは向こうで食べて来たので出さなくていいですけど、お土産用に少しだけお願いします」
ウォーレンは使用人にそれとお茶の準備を頼むと侯爵を一度放置して着替えに向かってしまい、アイリーンがくすりと笑いを零したあと、侯爵を客間まで案内するとウォーレンが来るまで相手を務めることにする。
アイリーンにとってエルダー侯爵は、ウォーレンよりも顔見知りだ。
「ここには慣れたかい、アイリーン嬢。少なくとも人となりはわかったというところかな?」
「ええ。やっと落ち着いて来た、というところでしょうか」
エルダーの質問にアイリーンはそう答える。
やっと現実を受け止められてきたというもので、あの日のことを夢じゃないとやっと今受け入れつつある。
ウォーレンやその家族のこともなんとなく分かってきた。例えば、ウォーレンは噂ほど変な人ではないけれど熱中すると周りが全く見えなくなってしまうこととか。
「幸いにも恵まれた環境であったというのもありますが」
「ほぉ、アイリーン嬢はそうとるか」
イタズラするみたいな表情を浮かべるエルダーはただただ愉快そうにしていて、その理由を読み取れないアイリーンは素直にエルダーの言葉を受け取って頷いた。
「お待たせ致しました」
そこに着替えを済ませたウォーレンがやってくる。
侯爵の前でもマイペースさは崩れないようで、変わらずウォーレンはのんびりとしている。
「何の話をしていたのですか?」
「アイリーン嬢にこの土地の良さを売り込んでいたところさ」
エルダーが商人のようなことを言い始めて、ウォーレンはおかしそうに笑って冗談を返す。どうやらこの2人、かなり仲がいいらしい。
「確かに侯爵は週一ペースで来てくださいますから、詳しいですよね」
「そうとも、ここの作物は世界一上手いと思っているからね。しかも、家で同じものを作ってもここの味には遠く及ばないんだ」
だからついしょっちゅう食べに来てしまうんだと侯爵は続けた。
この領に初めて来た日にウォーレンが言っていたことは、アイリーンの聞き間違いではないらしい。視察ではなく試食、少々言い方はあれだがその通りのようだ。
しかし週一ペースとはかなり来すぎではないだろうかとアイリーンが思っていると、ウォーレンが小声でもなく普通の声の音量で教えてくれる。
「夫人は半ば諦めているみたいで、前に女のところに行くわけじゃないのだからいいわとおっしゃってました」
「それは、そうなのでしょうけど……」
「最近はここのものを土産に持ち帰ると喜んでくれていてね。次はいつ行くのなんて言われてしまってるよ」
楽しみにされているのならいいのだろう。実際、ここの作物をふんだんに使って作られた料理は素朴ながらアイリーンの実家の料理と引けを取らない美味しさだ。
「それで侯爵、話があると言っていましたけど」
「ああ、忘れるところだったよ。再来月に私の誕生パーティーがあるから早めに伝えておこうと思ってね」
アイリーンの家の情報も掴んでいるのだろうエルダーの気遣いだ。
もちろんウォーレンの母がその辺に関しては動いて、ドレスなどの用意は少なからずあるとはエルダーも思っているがやはり今までは勝手が違うことも多いだろう。
「ありがとうございます。1度、買い物に行くことにします」
「その方がいいな。困ることはないだろうが、困った時は私の名を出してくれて構わない」
「はい、分かりました。その時は遠慮なく使わせていただきますね」
そうしてくれと言ってお茶を1口飲んだエルダーは、それが話題を変えるための合図だったかのようにウォーレンに問いかけた。
「ところでお前さん、疑いもせずアイリーン嬢を受けいれたそうだが?」
エルダーはアイリーンの前で堂々とウォーレンに尋ねる。
王子の命だから仕方なくというのが事実であるはずなのに、エルダーはそれだけが理由とは考えていないようだ。
「もとより嫌ならあの場で断っていただろうがな」
「はい」
何も言えず俯いて大人しいアイリーンをよそに、ウォーレンとエルダーの会話はゆっくりと進んでいく。
「アイリーン様が無罪なのは知っていましたし、保護が出来ればと了承したんです。まさか第2王子が後押ししてくるとは思いませんでしたけど」
「ちょっと待てウォーレン。今聞き捨てならないもんがあったぞ!!」
「ありましたか?」
「ありましたわ」
どこにそんな部分があったのかとウォーレンは首を傾げるが、エルダーとアイリーンは驚きを隠せない。
特にエルダーは焦ったようにウォーレンが流してしまう前におかしな点について詳しく話せとウォーレンに詰め寄った。
「無罪なのを知っていたというのはどういうことだ?」
「名前……は、分かりませんがお相手の方の自演なのを見ているんです」
それからウォーレンはアイリーン様には酷な話かもしれないですがと前置きをして、ウォーレンは話を続けた。
「ただ、僕の場合証拠がなければ周囲に信じてもらうのも難しいということもありましたし、あの場ではああするしかなかったんです。何が起こってるのかも知りませんでしたから」
「……そう、でしたの」
「最悪の場合はでっちあげと思われるか」
確かにウォーレンがどれだけ事実を叫ぼうと、変わり者として嫌われている以上は王子たちの言葉ほど信頼を勝ち取れないだろう。
たとえウォーレンがいかに真実を口にしてもだ――。
「理由としてはそんな感じですね」
「なるほど。しかし、自演か……。1度報告をせねばなな」
聞いた以上は陛下に報告をしなくてはならないとエルダーは言う。世間一般がウォーレンの言葉を事実だとしないと言ってもだ。
エルダーは詳しい話をある程度ウォーレンから聞くと、久々に大きな仕事が舞い込んだと嬉しそうに帰って行った。もちろん妻へのお土産は忘れずに。
ウォーレンとエルダーの話を聞いて、何かをウォーレンに言いたいのにアイリーンは言葉が出ない。
たった数時間で色々と明らかになった事実に頭の整理が追いつかないせいだ。これまでにこんな動揺することがあっただろうか。
そんなアイリーンをよそに、ウォーレンは社交シーズン前にドレスをしっかり買い揃えた方が良さそうですねとのんびりと言っていた。
アイリーンにとって衝撃を受けた話の数々はどうやらウォーレンからすれば大したこともないもののようだ。
「アイリーン様はいつもどこで仕立てていたのですか?」
「ロゼイユの店です」
「歌姫が舞台衣装に着たいと言っていたところですね。確か、女の子の憧れの店でしたっけ」
アイリーンはええと頷いた。
令嬢なら一生に一度は着てみたいと思うブランドだ。最近は歌姫の発言から庶民たちの間でも憧れになっている。
「じゃあ、そこに行きましょう」
「ウォーレン様。そ、れは……」
一瞬、あのパーティーでの周囲の視線がフラッシュバックしてアイリーンは言葉に詰まった。けれどアイリーンはすぐさま切り替えると言葉を続けた。
「そぐわないものを着て行くわけに行きませんので」
「美しい女性を着飾るのも男の役目ですよね」
「確かにそういった風習もありますけれど……」
容姿の優れた女性を着飾るというのは貴族社会では常識のようなマナーであるが、それは男側も同じレベルの服装が出来なければ嘲笑の的になってしまう。
ウォーレンは子爵家であり、アイリーンの実家の侯爵家ほど金銭がある訳ではないはずなので無理にやる必要もないのだ。
王家からは一応、お詫びとしてお金はもらっているが一時のものなのだから貯えにする方がいいだろう。
「お金の心配なら大丈夫です。ちょっと待っててくださいね」
そう言ったウォーレンがどこかからか持ってきたのは一冊の通帳で、ウォーレンからそれを渡されたアイリーンはページを開く。
「……これは」
「今のところ、僕の全財産です。もしアイリーン様が実際に悪女だったとしてもすぐには使い切れないくらいはあるはずです」
冗談を入れながらのんびりとした口調でウォーレンが言った通り、確かにそれだけの金額はある。というか、小国の国家予算並と言えるほどの額である。
ウォーレンの性格から後暗いことでという訳ではないのだろうけど、子爵家ということを考えれば疑ってしまうほどだ。
アイリーンの考えが分かったのか、ウォーレンは両手を振ってお金についてのんびりと説明をしてくれる。
「農具などの開発をしていることはアイリーン様もご存知だと思いますが、領民や侯爵に言われて商標登録をしているんです」
「そうでしたの」
これは俺たちだけじゃなく、他の農家などにも知らせるべきと言う領民の声もありエルダーの手を借りてそうしたらしい。
ウォーレンとしてはただ広めるだけでも良かったのだが、開発資金が手に入るならとそうしたと言う。
「段々と使うより貯まる方が早くなってしまって。でもこれなら、買いに行けますよね」
「え、えぇ。ウォーレン様はいつもどちらで?」
アイリーンがいつもの店で仕立てるにしても、ウォーレンも同じようなレベルの店の服を着なくてはならないのだ。
「えーと、確かワンダーズです」
「――そこは」
一見さんお断りと言われている高級店だったはずだ。
しかも店主が気に入った客にしか売らないとかのかなり気難しい店と言う噂だ。
「釣り合ってませんか?」
「十分すぎます」
心配そうに尋ねるウォーレンにアイリーンは驚きを隠せないまま返事をすると、ウォーレンは安心しましたとニコニコと笑う。
後日、ロゼイユの支店とワンダーズがあるエルダーの領地に向かい買い物をするのだが、ウォーレンはアイリーンの時間のかかる買い物にも嫌な顔1つせずにのほほんと笑って付き合っていた。
お読み下さりありがとうございました。