溺れたい
明日は週末で学校は休みなので、碧葉は深夜をまわってなお趣味の調べ物をするうち、二時になったのを画面の右下の小さな数字で知ってパソコンを閉じると、白くて清潔な液晶カバーにちらちら浮いた細い埃を爪ではじいた。
就寝の準備をしたのち明かりを消してベッドに横たわり腰回りのストレッチをしながら、明日会えるはずの彼氏について思いをめぐらせる。
碧葉と彼とは恋人になってからさほど日は経たないものの、付き合いはそれほど短くもなく、高校が一緒でクラスも最後の一年は同じであったし、通う大学こそ違うもののアルバイト先のファミレスが偶然重なった縁もあって、少しずつ喋るようになった。
今では時々ふざけ合える仲にもなって、時間さえかぶれば駅からの帰り道は自然と一緒になり、特別意識はしない程度には意識をし、ふいに冷たくみえることもあるけれど、顔も性格もおだやかで優しい人だと普段から感じていたにしても、そこから一足飛びに素敵な人とはならずにいた頃のことである。
その日は夜になってもバイト先から最寄駅までの道はむっと蒸し暑くて、平素からお喋りというほどではないにしろ決して寡黙ということもなく、控えめな碧葉にかわって適度に話を振ってくれるにこやかな彼が、今日に限ってめずらしく押し黙ったままうつむくようにしていたのがふと気になり、足をとめると、彼はそれには気づかずにずんずん先へ進むのとは反対にその肩はしょんぼりしているように見えた。
碧葉は話をきいてあげて出来る事なら励まさなくてはと思い立ち、そんなこと自分にできるだろうかと思い悩む間もなく足早になると、気配に気がついて初めて振り返った彼は碧葉が隣へ来るが早いか、その細い手首をぎゅっと握りしめたのちすぐに力をゆるめて、今度は手のひらをつかみ直すと、薄暗がりのなか戸惑う碧葉の顔は見ずにすぐわきの小道に有無をいわさず引っ張ってゆき、外灯に青白く照らされながら、
「碧葉、俺さ──お前のこと好きなんだ。付き合ってほしい」と不意に告白の言葉を口にした。
碧葉は予想もしない突然のことに何とも答えようもなく、かすかに震えながら、なすすべなく暗い壁へと細い体を追い詰められたまま、その瞬間いつもよりも色っぽく引き締まった彼の顔を見つめるうち、にわかに最前の言葉を反芻すると、頬を染めるどころかさっと血の気が引いてゆくのを覚えて、べたつくはずの肌さえすうっと冷えてゆくのを知った。
「答えは今じゃなくていいから」
とこちらの気持ちを知ってか知らずかそう言い足した彼の言葉に甘えるままに、素直にうなずくと、その日は駅前のコンビニで別れて、一人呆然と家路についた。
不意に告白をされるのは嬉しいというより空恐ろしいもので、碧葉は告白された当初は、彼と付き合うという未来を少しも考えたことがないばかりか想像も出来なくて、戸惑うばかりだったものの、といって友達に相談するという柄でもないし、ひとり悶々としながら二三日と過ごすうち、せっかくできた初めての男友達を本人の手によって力ずくで奪われたような気がし、むしろひどく理不尽だと悟ると同時に、恋人が欲しいという気持ちも次第にあおられて、答えを決めかねたまま次の出勤時に扉の前でばったり鉢合わせたときには、
「おはよう」と何事もないように言いながら素早く彼の目の色をさぐってみたものの、
「おはよう」と普段に変わらずにこやかに返すばかりで、その優しげな微笑みの奥の真意は一向に読みとれなかった。
──本当にわたしのことが好きなの。それともからかわれてる?
碧葉は更衣室のドアを閉めると共に不安になり、たちまち憤りを覚えながらもすぐに気持ちを抑えるごとく首をふって洋服をぬぎ制服に着替えて、サロンエプロンを結んでいざ接客をはじめると、お昼時のあまりの忙しさに早くも目をまわさんばかり。
せわしさに彼のことを思い煩う暇もなく、お客に呼ばれるままに注文を受けて料理をはこび、空いたテーブルを片づけて再びセッティングしていた折から、ふと別のバイトの女子と親しげに話す彼の姿が目に飛び込んだかと思うと、彼女が彼の耳元へそっと口を寄せてなにやらささやき、顔をはなしながら微笑むのを見た。長いまつげの瞳がきらきらしている。
碧葉はみしりと苛立ちを覚えたはずみに、肘でフォークをはじき、ぷいと顔をそむけながら斜めに入り込む光にあてられたフォークへ手をのばして無事拾い頭をもたげると、テーブルの縁にこつんとぶつけて、痛くはないものの途端にあほらしくなり、まばたきをして首を横に振りながらそっと先程のところへ目をやるとすでに人はいない。
その後は忙しいうちにも率先してまめまめしく立ち働き、バイトを終えてそそくさと立ち去ろうと扉をでた折から、目の前にすっと背の高い影があらわれて、思わず顔をあげると彼なのでぷいっと目をそらしてしまった。まだ暮れない夏の日差しが斜めからさしてくる。
まぶしさに半ば目をとじると共に不意に手首をひかれて、そのまま歩道沿いの青い葉を茂らす木陰まで連れ去られ、つかんだ手をはなしながら、
「どう? 考えてくれた?」と彼が訊くのに、
「まだ」とつぶやきながら足元にひらひらゆれる樹影をみつめた。日に焼かれた落葉が微風にひるがえる。見上げると日光を得た葉は黄金にきらめいている。小石が蹴りたくなった。
「そう。じゃあ御飯食べに行こうよ」
「え」
「今から」
それには答えずに押し黙っていると、店先から先程の女子と、それに続いて彼らよりも先輩のアルバイトがでてきた。二人はこちらへ気がつくなり会釈をするとすぐさま背を向けて、一緒に駅とは別の方向へと立ち去った。
「あの人たち付き合ってるんだって。お似合いだよね。知ってた? 俺もさっき知ったんだけど」
碧葉はぶんぶんと首を横に振りながら矢庭に血の巡りが快速になり体があたたまるのを知った。
「俺らもそろそろ行こうよ」
とこちらへふりむけた笑顔に今度はもう逆らえず、思わず伸ばした手を引いてくれた彼の隣に立ち、それから何度か食事をして彼の部屋を訪れたのち恋人になる返事をして、そのままくっついたままずるずる来てしまったのだけれど、眠る間際になれば毎晩彼のことを考えてしまうなんて、もう随分とハマってしまったのかもしれない。
碧葉はもう考えるまでもない事を心につぶやいて味わいながら、つい三月前には寝る前にスマホのアプリで少女漫画を読むのを楽しみにしていたけれど、今はこの恋愛に溺れたいと願ってそっと目をつむった。
読んでいただきありがとうございました。