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シーとまれびと

作者: ユッキー



《序章》



 ──ワタシがどこから来たのか、わかりますか?


 揺らいだ髪のままMOMOEは訊ねた。



 仙台市駅前の真新しいビルの3階にある、つね日ごろからかなり混雑している心療内科の院内では、女性のようにまったくヒゲが生えていない中性的な男性開業医 ──永久脱毛をしているのかは不明── の趣味なのだろう、つねにBGMとしてクラッシック音楽が流れていた。 ──ブラームスの交響曲第1番がとくに印象的だった──

 細く縦長の院内は、片側が衝立(ついたて)で仕切られカラフルな椅子がひとつずつ置かれている一方、向かい側に並ぶテーブルには、これも中性的な男性開業医の趣味なのだろう男女のさまざまなファッション雑誌が波のように重ねられていた。


 仙台市を襲った東日本大震災から1年ほどたった頃から、オレは未来の(わざわ)いを避けるための行動に終始とらわれるようになった。

 たとえば、自分にとって大切な行動を成し遂げたあとiPhoneに表示される時間を確認し、もし末尾の数字が自分のなかで不吉な数字と認識されている0、4、9のどれかだった場合、 ──〇〇時〇0分、〇4分、〇9分というように末尾の数字が0、4、9のどれかだった場合── その行動こそが近い未来に災いを招く要因と判断され、ただちにその行動は無効となってふたたび同じ行動をくり返していた。 ──時には、何度もくり返す──

 また極端に(かたよ)った潔癖症にも陥り、どんなものでも自分が汚いと思ったものに触れてしまうと実際には汚れていなくても、手にハンドソープをたっぷりつけて長い時間洗いつづけた。たとえばゴミ集積場に燃えるゴミを出す際、カラスからの被害を避けるための防止ネットに手を触れただけでも台所の蛇口で長い時間洗いつづけてしまう。しまいには1日数十回も手を洗うようになり、当然、洗い過ぎた手の指や甲はすっかり水分を失って乾燥しひどくひび割れ血が(にじ)んだ。


 やがてこうした現状に耐えられなくなったオレは、仙台市駅前の真新しいビルの3階にある心療内科で診察を受け、白い肌に女性のように顔にまったくヒゲが生えていない、ときおりフフフと(あざ)けるような薄笑いを浮かべる中性的な男性開業医から、即刻、強迫性障害きょうはくせいしょうがいと診断された。


 ただちにレクサプロ、パキシル、ルボックスといった10種類ほどの薬を飲みはじめたが、この心療内科では珍しく投薬治療のほかに注射と点滴治療も(ほどこ)していた。毎晩オレは仕事が終わると、つねに混雑している暖色系照明の院内の衝立で仕切られたカラフルな椅子に腰かけて、BGMのクラッシック音楽を聴きながら2、3時間待ったうえ50分ほど要する点治療も受けていた。






《第1章》



 およそ2年ほど続いた点滴治療の結果、酷使したオレの腕や手の甲の血管はひどく(すさ)み、もう注射針を刺すことが容易でないほど細く脆弱(ぜいじゃく)になっていた。注射がうまくいかずにそのまま帰宅すると、しだいに薬を注入できなかった全身から冷や汗のような汗が滲み、じっとしていることができず(もだ)え苦しんだ。地団駄を踏みながら手を伸ばしても誰も助けてくれるものはいなかった。


 残暑が過ぎた頃だった。阿武隈山地に沈みゆく落日が玲瓏(れいろう)あかく空を染め、いちばん星が(きら)めきはじめていた。日ごろからよく覗いていたイオンモール名取のペットショップで、まだ生後3ヶ月ほどのつぶらなひとみのシーズーのメスと出会った。抱き上げると白とゴールドの体毛の壊れそうな小さな身体(からだ)にも、懸命に生きようとする鼓動と温もりがあった。すぐにほんの小さなピンク色の舌でオレの顔を舐めはじめた。

 オレは迷うことなくただちに契約を済ませると、トイレやゲージなど必要なものをすべて購入し、まだおしりを振りながらよちよち歩くシーズーと一緒に帰った。

 すぐに名前をシーとつけた。






《第2章》



 大晦日を明日にひかえた暮れの夜だった。テレビを観ているととなりの寝室で寝ていたシーが、急にくり返し小さな身体を伸縮させ苦しそうに吐きはじめた。今までもときおり嘔吐することはあったが、こんなにも何度も吐きつづけることはなかった。あまりに苦しそうな様子に命の危険すら感じたオレは、すぐに車で仙台市駅東口にある夜間救急動物病院へ向かった。閑散とした夜中の国道4号線の道路照明灯が闇路にあかりを(とも)すように(まばゆ)く連なり、オレはMINI Cooperのアクセルを深く踏みつづけた。

 南東の夜空に赤く光る一等星が見えた。あの星には見覚えがあった。若くして母が子宮癌のため亡くなったとき、仙台市内の病院から一足先にひとりで自宅へ向かった車窓から、未明の南東の夜空に見つけた星があの赤く光る一等星だった。そのときオレは母の精霊があの星へ帰郷したような気がした。オレは南東の夜空に赤く光る一等星にシーのことを祈った。すでに夜中の11時をまわっていた。


 到着すると、夜間緊急動物病院はこじんまりとした病院だった。多少混んでいたため、しばらくのあいだファンヒーターで温められたやや照明が抑えられた待合室で待つことになった。しかしオレはシーを抱いたまま身体に異常を感じはじめていた。 ── その日は年末のため、いつもの心療内科で注射を打つことができなかったが、その時間までなんとか平常の状態を保っていた── しだいに全身から冷や汗のような汗が滲み、身体を平静に保つことがむずかしくなってきた。 ──身体をじっとしていられず大声で叫びたくなる── オレはシーを抱いたまま赤ちゃんをあやすようなふりをしながら、待合室を行ったり来たりしてなんとか耐えていた。

 ようやく順番になり、担当のまだ若いあごヒゲを生やした獣医師にシーの状態を説明し、点滴等の治療をしてもらうとシーは診察台の上で何事もなかったかのようにさかんにしっぽを振りはじめた。ほっとして胸が熱くなったオレは、先ほどからの冷や汗のような変な汗さえも心地よくなっていた。若い女性看護師は、診察台の上で楽しげにしっぽを振るシーに苦笑していた。オレは心奥(しんおう)で母に感謝した。


 ──シー、楽しいかい、元気になってくれてありがとう






《第3章》



 それから1年ほどが経った翌年の12月、オレは通院していた心療内科の中性的な男性開業医から、要長期療養(うつ病のため)との診断書をもらって職場に提出し1カ月間の休暇をもらった。10種類もの薬を長期服用していたため顔はむくみ血色も悪く、やはり注射を打たなければ全身から冷や汗のような汗が滲み、じっとしていることもできず悶え苦しんでいた。結局、3年間通院しても何もかわらなかった。それでも中性的な男性開業医は、基本的に同じ注射と多種類の薬の服用による治療をかえることはなかった。 ──薬をやめたらさらに症状がひどくなるおそれがあるとの診断で── もう限界だと思った。長期療養のための診断書をお願いすると中性的な男性開業医は、フフフと嘲けるような薄笑い浮かべたがすんなりと診断書を書いてくれた。

 オレは今まで東京に住んだことがなかったので、1カ月間、シーと一緒に初めて東京で暮らそうと考えた。その間、注射も薬も絶って通院もしない。ひとつの賭けだったかもしれない。

 舞浜にあるオーシャンビューが素晴らしいペット同伴可の大型ホテルに長期間の予約をとった。


 シーは海を見たことがなかった。シーは実の母犬のことを覚えていないだろう。折口信夫(おりくちしのぶ)の『(はは)の国へ、常世(とこよ)へ』の一節 ── 遥かな波路の果に、わが魂のふるさとのある様な気がしてならなかつた── からオレは勝手に、海の遥か彼方に妣の国と常世があるのだろうと思い描いていた。海と母を同義語にとらえていた。どうせ長く滞在するなら海が眺められる方がいい。しばらくシーと一緒に東京で海を眺めながら暮らそうと思った。






《第4章》



 海は(あお)く澄んで広大だった。人類の叡智(えいち)をも無にしてしまうほど深淵(しんえん)だろう。ほんのわずか湾曲した水平線まで海原(うなばら)が陽光に(まばゆ)く揺れる。久しぶりに大型ホテルのバルコニーからシーを抱いて海を眺めると、わずかだが微風にのって懐かしい潮の香りがした。 ──注射と薬を絶っていたが身体の調子は悪くなかった──

 懐かしかった。懐かしさのうちに母をはじめとする死者の面影をみるようだった。オレは海の彼方に、あの世との通路を開く存在を感じた。こころのなかに流れこんでくる異質な世界のちからを感じた。しかしそれが具体的にどういうものかまだよくわからなかった。

 オレは小学校を卒業するまで太平洋沿岸の農村に住んでいたが、ふとその農村での忘れられない思い出が蘇ってきた。休日によく海まで自転車を()いで一緒に遊びにでかけた、同級生で幼なじみのカナエとの思い出が……



 夏風に穏やかに(なび)く稲穂が陽光に眩く輝き、ウミガメが産卵で流す涙のような澄み切った空が広がっていた。朝の清涼な風を頬に感じながら、オレとカナエは、松林が続く農道を浜辺へと自転車を漕こぎつづけた。しかも、近隣ではなく北へ数キロ離れた「サンライズビーチ」と呼ばれていた浜辺まで……


 とても夏の太陽が烈はげしい日だった。「サンライズビーチ」は、村の田んぼに水を供給し川のように幅の広い「大排水(だいはいすい)」の河口にもなっており、隣接する松林には小さな別荘地もあった。しかし、このあたりの海は波が荒く遊泳禁止になっていたため、夏でも訪れる人は多くなかった。


 浜辺にはさまざまなものが流れ着き、とくに白いものと黒いものが目立った。白いものの大半は発泡スチロールの(かたまり)で、黒いものの多くはプラスチック製のブイだった。ハングル文字の瓶やロープ、網も多い。

 オレとカナエは、とくに面白そうなものを見つけては比べ合ったり、よく白っぽい大きな巻貝の殻を耳に当ててみた。ボーっと音がする。それは風の音のようでもあり、深海の水の流れの秘密の音のようでもあった。


 少し離れた砂浜の中頃に、大きな(くす)んだ色の塊が砂をかぶっていた。近づくと大きなウミガメの死骸だった。甲羅の(ふち)が破損したくさんの傷がついている。ウミガメはよく「泣いている」といわれるが、それは眼球の背後に肥大化した涙腺(るいせん)があり、これにより体内に取り込んだ余分な塩分を濾過(ろか)し、常に体外に放出することで体内の塩分濃度を調節しているからだ。

 この時の、砂をかぶったまま動かないウミガメの閉じられた瞳にも涙痕(るいこん)があった。


 ──かなしそう


 カナエは、そう静かに呟いた。


 それから、「大排水」河口の穏やかな浅瀬で、デニムの半ズボンのオレとピンクのミニスカートのカナエは、膝上まで水に浸つかって遊んだ。オレが石ころに(つまず)いて転んでしまい全身びしょ濡れになると、


 ──ユウちゃん、ドジだなー 


 と、ポニーテールのカナエは楽しそうに眩く笑った。何でもオレの真似をしたがるカナエは、この時もすぐにおどけてよろけるふりをしながら、そのまま躊躇(ためら)うことなく水面に倒れ込んだ。小さな花弁のような飛沫があがった。


 ──冷たくて気持ちいい


 頭から全身ずぶ濡れになったカナエの華奢(きゃしゃ)な身体の腕や脚から、いくつもの真珠のような水滴が(したた)り落ち、わずかに膨ふくらみはじめた胸に白いTシャツが張りついた。


 眩しかった。

 カナエの笑顔は、夏の烈しい日差しを浴びて眩い美しさだった。しかもそれは、向日葵のような明るい眩しさというよりも、まるで白い月下美人(げっかびじん)のような儚く清冽(せいれつ)な眩しさだった。


 そしてその10日後、カナエはまるで朝陽が昇る前に(しぼ)んでしまう白い月下美人のように、田園を流れる「大排水」に落ちて死んでしまった。ひとりでふざけたりけっしてしないはずなのに……

 カナエが常に携帯していた白い仔猫のぬいぐるみが、「大排水」の水面に浮かんでいたため、すぐに父親が飛び込むと水底にカナエが沈んでいた。父親は狂ったように嗚咽(おえつ)したが、カナエがウミガメと同じ涙を流したのかはわからなかった。


 激しく蝉が鳴く杉林に囲まれたお寺で、カナエの葬儀が終わると、オレはすぐに着替えて「サンライズビーチ」へと自転車を漕ぎ出した。いくぶん陽射しが弱くなった晩夏の太陽がやや傾きはじめ潮の香りが漂っていた。

 最後にカナエと「サンライズビーチ」の砂浜で見つけた燻んだ色の大きなウミガメの死骸を、もう一度確かめたいと思った。あのウミガメの涙の跡こそが、カナエの涙のような気がしたから……


 しかし白い波が止むことなく打ちよせる砂浜で、10日前に発見した燻んだ色の大きなウミガメを、もうどこにも見つけることはできなかった。落胆したオレは、ウミガメの死骸を見つけた(あたり)の砂浜に体育座りをしまま、ほんのわずか湾曲した水平線をぼんやりと眺めつづけた。カナエが肌身離さず(たずさ)えていた白い仔猫のぬいぐるみを、震える手に握りしめながら……


 折口信夫は、遥かな波路の果にははの国と常世をみた。オレはほんのわずか湾曲した水平線まで陽光に眩く揺れる海原の彼方に、まるで白い月下美人のような儚い清冽な眩しさだったカナエの笑顔をみていた。あの世とこの世との通路、あるいは精霊の世界にこころを開く通路を見いだしたようだった。こころのなかに流れ込んでくる異質な世界のちからを感じた。異界からの来訪者まれびとがやってくると感じた。






《第5章》



 赤銅色(しゃくどういろ)に色づく海面がそのまま夕空に同調し、東京のビル群に大きな(あか)い落日が隠れようとしていた。夕凪(ゆうなぎ)の時刻に、オレとシーは大都会の喧騒から隔絶されたような森閑(しんかん)とした舞浜海岸遊歩道をゆっくりと散歩していた。シーは潮の香りも気にせず、ときおりおすわりをしてその丸くつぶらなひとみで赫い海原の彼方を見つめた。(くら)くなりはじめた南東の空には、赤く輝く一等星があった。若くして母が亡くなったとき母の精霊が帰郷したと感じた一等星だった。

 しばらく行くと、遊歩道の幅が大きく広がり休憩用のベンチが点在している場所があった。ひとりの若い女性がベンチに腰かけていたが、ほかには誰もいなかった。大きな赫い落日が対岸のビル群の向こうへ沈もうとしている光景のなかで、なぜか彼女の存在が異質に感じられた。 ──ちょうど夕映えた彼女の白いハーフコートが巫女装束(みこしょうぞく)のようだったからか── まるで彼女が海の彼方の異界からの来訪者のように…… よく見ると手にカメラを持っている。あるいは沈みゆく落陽の風景をフィルムに収めているのだろうか。


 オレとシーはそのまま若い女性の前をゆっくり通りすぎた。人なつこいシーは彼女を一瞥(いちべつ)した。オレの視界の片隅にも一瞬彼女の姿が映った。彼女はポニーテールだった。思わずオレはふり返った。なぜなら彼女のなかにカナエの面影をみたから……

 彼女もベンチから立ちあがりやや緊張した様子で、オレとシーを見つめていた。オレが微笑んで軽く会釈をすると、ポニーテールの彼女も微笑んで軽く頭を下げ、聖玻璃(せいはり)のような澄んだ声で挨拶をしてくれた。やはりいつもポニーテールだったカナエの面影があった。夕映えた彼女の微笑みはカナエのような儚く清冽な眩しさだった。


 ──こんばんは、とってもかわいい小犬ですね、犬種はなんですか?


 ──シーズーです、シーといいます





《終章》



 その後も舞浜海岸遊歩道で大きな赫い落日が対岸のビル群に隠れる時刻に、ポニーテールの彼女と会った。彼女の名前はMOMOEといった。MOMOEは、写真は二度とない刹那を切りとってくれるから、とくに夕暮れときのすべてが赫く包まれる海と空と東京の風景が好きだ、といっていつもカメラを覗いていた。 ──ふだんはサロンモデルとして自分が被写体なのにと笑いながら──

 落陽に体毛がうぶ毛のように赫く煌めくシーにオヤツを与えていたMOMOEに、オレとシーが仙台から来たことを伝えると、驚いた表情をみせながら初めてポニーテールをほどいて ──ワタシがどこから来たのか、わかりますか? と揺らいだ髪のまま訊ねた。

 オレが頭を小さく横に振ると、昏くなりはじめた玲瓏(れいろう)な夕空のもとの赫い海原の彼方を見つめたMOMOEは、悪戯っぽく、


 ──海の彼方の母の国から来ました


 と、光の(しずく)のように眩く微笑んだ。





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