3 そして詩織(カミ)は降臨なされる
詩織分を失い、気を失った俺は苦しんだ。
詩織分が欠乏すれば俺は倒れてしまうが、しかし詩織は入院中であり、意識不明状態だ。
このまま殉教しても良かったが、ある一つの試行により詩織分を補給する事に成功した。
詩織のハンカチをマスクに加工する事で俺は通常生活を営むことが可能になった。
これこそは詩織が与えたもうた慈悲である。
俺は休み時間に詩織への感謝の深呼吸と写経を忘れない。
訝る級友の一人が写経を続ける俺に尋ねてくる。
「ねえ、何やってるの? 中田くん」
「見ればわかるだろう? 詩織分の補給だよ」
マスク越しの深呼吸を訝しんだモブが俺のその答えに首を傾げる。
分かれよ、モブが。言葉でなく魂で理解するんだよ……!
ますます訝しむようにそのモブは俺の顔を覗きこむ。
「詩織分って何……?」
そして俺の手元を見てさらに驚愕の表情を浮かべやがった。
「えっ、それ何? 何やってるの? 写経?」
「我が現人神が再び降臨なされた時に衆生の穢れに困らないように少しでも浄化しているんだよ。この辺の空気を」
うわっ、やっぱやばっこいつとか言いながらそのクラスメイト♀は遠巻きに俺から距離をとり離れていく。
そんな奴らはどうでもいいがやはり加工したマスクだけでは詩織分が足りない。
……詩織分が足りないのだ
毎日詩織の見舞いに行こうとするのだがそれは両家の両親によって固く止められている。
クソッ……
近頃では鏡を見る度に自分の瞳が虚無に近くなるのを感じる。
今日も数学の授業で泡を吹く教師を尻目に教科書の内容を逸脱した「フラスゴーの定理」を黒板一杯に書き終えると窓から青い空を見上げる。
やっぱヤベエわあいつ、とか言うさざめきももはや気にならない。
虚無だ。この世の全てが虚無に映る。
……詩織分が足りない
足りないのだ。
心の底からのため息をつき自席に戻ろうとしたその時だった。
何故か俺の鼓動が跳ね上がり、俺は思わず辺りを見回す。
五感ではなく、未知の領域で波動を感じたのだ。
さぞ間抜けな顔をしていただろう俺に咳払いしながら教師は肩を叩いてくる。
「どうした、中田? もう戻っていいぞ」
うるせえ、それどころじゃねえ……
そしてその時遠くの方から轟音のような足音と……
神の声が聞こえてきた……
モブと教師たちは涙を流す俺と廊下の騒音に騒めき始める。
「……どうしたんだ! 中田⁈ 大丈夫か⁉︎」
「えっなんなの? 廊下うるさいんだけど……」
やがてその神の声は俺たちの教室の前で止まる気配を感じた。
「ちこくちこくちこくちこくーーー‼︎ ギュッイーーーン‼︎」
俺は廊下側へと駆け寄り降臨に備える。
「これは……」
……カミが降臨なされるのだ
廊下側の窓の上部が突然開いたかと思うとまるで水泳飛び込みのように身体を丸め教室の中央の机へと着地したそれは──
「しおりちゃんスーパージャーーーンプ‼︎」
机の上で満面の笑みで両手の腕を翼のように広げた制服姿の詩織がいた……!
「うわぁ‼︎」
「なんだ⁈ なんだぁ‼︎」
事態を理解できないモブ共は騒めき混迷の度合いを深めていくようだった。
慌てるモブ共に構わず詩織はさらに宙返りしながら机から着地するとこの世を浄化しそうな笑顔で勿体無い事にモブ共に挨拶なされた。
「とおっ‼︎ スーパーしおりちゃんとうこーーーう‼︎
こーん! こーーん‼︎ こん‼︎ みんなーー‼︎ おっはよーーー‼︎」
俺は詩織の元へと駆け出す。
なんだかいつもとまるで様子が違うがそんな事はどうでもよかった。
「し、しおりぃぃぃーーーー⁈」
詩織は騒めくモブ共などものともせず、鞄の蓋を開けると何やら中から何かを取り出し一切合切をぶちまけはじめた。
「みんな久しぶりだねーーっ☆ これはしおりちゃんからの退院祝いだよ☆」
「……う、うわぁぁぁぁぁ‼︎」
それが何かに気づいたモブ共が悲鳴をあげる。
……それはカエルだった
全部で50匹はいるだろうか。
「キャアアアアーー‼︎ カエル⁉︎ カエルよーー⁈」
「やめて二ノ宮さん‼︎ 何やってるの⁈」
様子が可笑しい詩織とゲコゲコと教室中を跳ね回るカエルに右往左往しながらモブ共はますます混乱する。
えっ、あれ二ノ宮さん?
嘘でしょ?どうしちゃったの?
アタマうったんだよきっと
ウッソだろ、俺ファンだったのに……
全員が戸惑いさざめき、詩織を訝しげな目で見るが俺にとってそんなものは関係ない。
詩織の御前まで漸くたどり着いた俺はその肩を抱き久しぶりの尊顔を拝する。
……きょとんとしたその整った美貌はいつも通りのご尊顔だ
「詩織! 退院したのか⁈ もう大丈夫なのか?」
「りょうくんひっさっしぶりー☆ しおりは大丈夫だよーー? パワーアップして帰ってきたからーー?」
「そ、そうか良かった…… よかったよ、詩織……!」
俺は泣き崩れその場にへたり込む。
……もし詩織が崩御なされたなら俺も後を追う覚悟だった
モブの悲鳴を背景に詩織は何かに気づいたようにじっと俺の顔を見つめてくる。
「ねえ、りょうくん。りょうくんが口に付けてるの何? マスク?」
なんだ? 俺のマスクが気になるのか?
そう言えばこれ詩織の私物だったな。
俺は身を起こし立ち上がりながら詩織の質問に答える。
「ああ、これは詩織のハンカチだよ。ここ数日詩織分が足りなくて欠乏症に陥っててね。たまに過呼吸に陥ってたんだ。本当ならお前のショーツが欲しかったんだけど」
「とうっ☆」
その時詩織の御御足が上がったかと思うと俺の側頭部に衝撃が走り、俺はそのままブラックアウトした。