過去がない少女の幸福な檻
天蓋付きの大きなベッド
薄いピンク色のシーツ
可愛らしいぬいぐるみ
大人が3人寝ても余裕のある大きなベッドの真ん中で、青みがかった癖のある黒髪を少女の膝に頭を乗せて微睡む男性がいた。少女は薄桃色の髪が彼の顔にかからないよう後ろに流した。
「ふふ……とても眠いよ」
「お疲れのようなので、このまま寝ても良いですよ」
「それは駄目だよ。君の愛らしい顔をもっと長く見ていたい」
「もう……そうやって人を揶揄う」
「揶揄う? 誤解だ。俺は君の顔を見ているだけで癒されるんだ」
「ふふ……私もだよ」
宝物に触れる優しい仕草で頬を撫でられ、擽ったさに目を細めた。男性の青い瞳が愛おしげに自分を見上げる。少女――オトゥリアは愛しい夫の頭をそっと撫でた。
「リア」と愛称で呼ばれた。
「不便はないかい?」
「うん。ないよ」
「外に出られない分、君に窮屈な思いをしてほしくなくて欲しい物があれば何でも言ってと言っているのに、君は我儘を言わないから心配なんだ」
「ううん。毎日美味しい食事や綺麗な服、本や刺繍を与えてくれるから退屈はしてないよ」
「本当に?」
「ええ。……それに、あなたがこうやって時間を見ては来てくれるから」
オトゥリアは夫サフィールの惜しみない愛情にいつも感謝していた。
何処の馬の誰かも知らない自分を拾い、世話をし、愛し、妻にしてくれた。
「……あのね、私時々不安になるの」
「何故……?」
「こうやってサフィールと一緒にいられるのは、実は夢じゃないかって。私はあなたに会う前の記憶がないでしょう? だから、実はこれは自分に都合の良い夢なんじゃないかって」
「リア」
強い口調で名前を呼ばれ、無意識に体を震わせてしまった。あ……と不安げにオトゥリアを見つめる青い瞳が揺れる。サフィールは体を起こし、腕の中にオトゥリアを閉じ込めた。すっぽりと納まる小柄な体。ちょっと力を入れたら真っ二つに折れてしまいそうで力加減が怖い。
「夢じゃない。俺はちゃんと現実だと認識している」
「うん……ごめんなさい」
「いいよ。君は、過去の記憶がないのだから。不安に駆られるのは当然さ」
「私……サフィールにとても愛されているのに、不安に感じるなんて……駄目ね」
「そうだね……君は駄目な子だ」
肯定されてしまい、不安が大きくなった。オトゥリア、と愛おしげに呼ばれた。後頭部を優しく掴まれ、上を向かされると――サフィールが額にキスを落とした。幼児を安心させる、親がするような口付けだった。
「俺がいないと何も出来ない駄目な子。君が不安になるのなら、俺はいくらだって君から不安を消そう」
「サフィール……」
「俺も君の過去が気になるよ。だけど、最も必要なのは君自身だ。君の過去がどんな物だろうが、俺が君を愛することには変わりない。信じて? リア」
「うん……信じるよ……サフィール……」
互いの隙間を無くすように強く抱き合った。
オトゥリアはこれ以上ない幸せにサフィールの胸に顔を寄せて微笑み。
サフィールは顔を見えないのを良いことに……歪に口端を吊り上げた。
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夜――
不意に目を覚ましたサフィールは、隣に眠るオトゥリアの規則正しい寝息に安堵し、薄桃色の髪を何度か撫でるとお腹に手を当てた。膨れていない薄いお腹には、サフィールの子が宿っている。暫く“愉しみ”がお預けになると知った時は、湧き上がる欲望をどう発散させようか困ったものの、オトゥリアのお腹に自分の子が宿っているとなると無理矢理抑え付けた。前髪をよけ、額にキスを落とした。オトゥリアを起こさないよう、静かにベッドから降りた。瞬間移動を使って別の部屋に移動した。
真夜中の今、そこには誰もいない。
「さて」
サフィールは部屋の壁に掛けられている巨大な鏡の前に立った。
左手を鏡に当てた。
注がれる魔力に反応した鏡が揺れる。ぐにゃりと歪み、次第に正しい形になった。
「はは……」
鏡に映し出された光景。
そこは、嘗てオトゥリアと暮らしていた家族の光景があった。
オトゥリアは代々優秀な魔法師を輩出する名家の生まれだった。伯爵令嬢と可もなく不可もなしな身分だが、家の名の強さは公爵家、大公家にも匹敵した。
両親と姉が1人、兄が2人。オトゥリアは最後に生まれた末娘。
生まれつき魔力が膨大で、生まれてすぐに父である伯爵が彼女の魔力を封じた。年齢を重ねていくにつれ、徐々に魔力を解放するように。
物心つく前から課せられた厳しい魔力操作の訓練。もしも暴走すれば、周囲だけじゃなく彼女自身にも被害が及ぶ。
オトゥリアの魔力事情を知るのは身内と限られた使用人だけだった。
オトゥリアが毎日厳しい訓練と淑女教育に泣いても彼等は縋る小さな手を払った。
将来の為、お前の為、と言い聞かせ彼女を突き放し続けた。
『あああああぁ……!! オトゥリア……!! わたくしの、わたくしの、可愛い娘……何故、何故なの……っ!!』
『お母様……っ』
鏡に映るのは母と姉。
「馬鹿だね、こいつら。ずっとリアが伸ばし続けた手を払い続けてきたくせに、いざ目の前から消えると悲劇を気取って泣き暮れるなんて」
立派な魔法師に、立派な淑女になってほしい気持ちは親ならではの感情だろう。が、行きすぎればただの重圧となる。特に、母親と姉はオトゥリアの魔力量を恐れていた節があった。父が封印したと言えど、何時暴走するかも知れない不安は常にあった。
不安要素でしかない隣人と暮らしているようなものだった。だが、それでオトゥリアを蔑ろにした罪は消えない。
罪といえば、伯爵と兄2人もだろうか。
この3人は特にオトゥリアを冷遇していた。
伯爵は娘を思っての事だったのだろう。泣いている姿を見れば泣くなと叱責し、初級魔法すら十分に扱えなければ出来るまで練習させ、その際、オトゥリアが疲労に倒れてもその程度でと言い放った伯爵を何度殺してやろうかと思ったか。
伯爵家の跡取りである長男、魔法師団の副団長も目前と評される次男。この2人はオトゥリアの魔力に嫉妬していた。平均的数値の魔力しかない2人にしたら、暴走させれば甚大な被害を齎すオトゥリアの魔力を羨ましがった。
……ただ、とサフィールは嘲笑う。
「彼等の中にあるリアを想う気持ちだけは、本物だったのが笑える。まあ、お陰で俺はリアをモノにできたんだけど」
次の映像が映った。
王族の分家である公爵家の長男。
青みがかかった黒髪に青い瞳。髪質が真っ直ぐなのが違う以外、サフィールに瓜二つな男はオトゥリアの元婚約者。
冷静沈着と名高い彼は虚な青い目で青いドレスを抱き締めていた。
「君は最大の馬鹿だ。リアを愛していたくせに、何故リアが欲していた愛情を与えなかったんだ?」
リアと彼の婚約が結ばれたのがリアが10歳の頃。当時、3人いた王子には既に婚約者が決められており、稀代の魔力を持ってオトゥリアを守り支えられる相手として彼が選ばれた。名前はなんだったか……と思い出していると吹き出した。
「そうだ……彼も“サフィール”だった」
自分と同じ名前の男。
オトゥリアは必死に彼に好かれようと苦手だった訓練も淑女教育も、更に公爵夫人になる教育も努力した。寝る間を惜しんで勉学に励んでいたのに。
肝心の彼はオトゥリアとは最低限の接触しかしなかった。
「伯爵に言われたもんね。リアが魔力操作を完全なものにするまで、極力会うのを控えてくれって」
感情の起伏が激しければ、魔力にも影響が出る。一目見てオトゥリアを気に入った彼は、項垂れるまま伯爵の言うことに従った。手紙を何度か送ったみたいだが、公爵に控えるよう命じられて送れなくなって。せめて、誕生日には素敵なプレゼントをと、オトゥリアの為に選んだ物を届けに行った。これくらいなら許してくれるだろう、と。
だが――
「リアに会えたのはほんの一時。何故か、リアの姉が来たよね」
薄桃色の髪、熟した林檎のような真っ赤な瞳の、可愛らしいオトゥリアとは違って美女と表現するとしっくりくる姉が何故か彼の相手をし出した。オトゥリアと折角会えてもすぐに離された彼は無理矢理にでも会おうとするが、強引に姉に腕を掴まれ叶わなかった。大して大きくもない胸を押し付けてきた時は殺意が湧いた。
欲望に濡れた目で見られるのは慣れていた。色眼鏡で自分を見る輩が殆どだったから。
彼はその後、姉がいない時を狙って何度もオトゥリアを訪ねた。伯爵に追い返されそうになっても、遠目からでも姿を見たいと頑なにいたら、とうとう向こうが折れた。姿を見るだけと約束し、魔力操作の訓練中のオトゥリアを盗み見た。
「綺麗だったんだよね……努力するリアは」
時に泥に濡れ、時に手を魔力の出し過ぎで傷つけても、諦めず、努力するオトゥリアが愛おしく感じた。
サフィールが鏡を砕いた。
「……けど、何だろうね。あの家はリアを愛しているとほざきながら、リアを最も蔑ろにしていた」
大から小、数百に及ぶ鏡の破片には、光景が映ったまま。
サフィールは鏡に向かって手招きをした。
「さあ、“戻っておいで”」
おいで、おいで、と呼ぶ。
そうすると割れた鏡の向こうから、突然人が現れた。オトゥリアの元婚約者だ。
彼は虚な青い目をサフィールに向けていた。
「“演技”ご苦労様。もう戻っていいよ」
「ハイ……」
彼がサフィールに抱きつくと――すうっと……消えていった。
「はは……間抜けな人間どもだったが、俺にリアをプレゼントしてくれたのには感謝するよ。ありがとう、俺の大事な花嫁をずっと冷遇してくれて、蔑ろにしてくれて。お陰で記憶を抜き取っても、未練がないお陰でリアに後遺症はなくて快適な日々を送ってるよ」
ありがとう――。
にこりと笑ってサフィールは寝室に戻った。勿論、瞬間移動を使って。
サフィールは元々魔界に住む悪魔。それも魔王の息子、第1王子。今は父の跡を継いで魔王の仕事に追われ、忙しい日々を送る。
先代魔王である父は、同じ魔族なのに人間が好きな変な悪魔だった。
生まれたばかりのサフィールと公爵令息を入れ替えたのだ。
魔王の息子は人間の公爵家の長男になり、人間の男の子は違う大陸の裕福な家の養子になって元気にしているとか。
自分がずっと遠い世界、魔界の王子であると知ったのは7歳の頃。膨大な魔力を持って生まれたものの、どうも他人と魔力の質が違うと抱いた。神殿で検査してもらおうと悩むが、他人と違うとなると異質だと騒がれるのが面倒で止めた。そんな時だ、実父と名乗る、凄絶な美貌の男が現れたのは。
最初は馬鹿な話として聞き入れなかったが、魔王が指を鳴らした瞬間自身の容姿に変化が起きた。髪や瞳の色に変わりはなかった。強いて言うなら、癖っ毛になったくらい。しかし、あきらかに顔が変わった。母親似だと言われていた相貌が目の前の男と瓜二つとなった。唖然としたまま男を見上げた。愉快だと言わんばかりに口端が吊り上がっていた。
「あの時は親父に殺意が湧いたけど、今は感謝してる」
そこで詳細を聞き、サフィールは受け入れた。神殿側にバレないよう、赤ん坊の時魔力に細工をされていたお陰で魔族だとバレなかった。本来の息子が無事に過ごしているとも聞いて安堵した。同時に、悪魔のくせに面倒見が良い魔王に疑問を抱くもどうでも良かった。人間で言う成人の歳になったら、迎えに来ると告げて魔王は魔界に帰還した。
その3年後にオトゥリアと出会った。
忘れもしない、薄桃色の髪を緩く巻き、不安げな林檎のような真っ赤な瞳を自分に向ける彼女に対し、酷く庇護欲が湧いたと共に――側に置いていたい衝動に駆られた。
伯爵家の妨害、オトゥリアに対する冷遇。早々にオトゥリアを連れて魔界に帰還すると決意。
出会って4年目。そこでサフィールは行動に移した。
真夜中の伯爵邸に忍び込んだ。
少ない訪問回数でも彼女の部屋の位置は覚えていた。リア、と軽く窓を叩き、室内に入れてもらった。
突然の訪問に驚きながらも、愛らしい顔を披露してくれて安堵した。
……だが、次の瞬間オトゥリアは涙を流し始めた。困惑するサフィールにオトゥリアは笑ったまま。でも涙は流れたまま。
『オトゥリア……どうして泣いてる?』
『えへへ……私……幸せだなって』
『俺が会いに来たから?』
『うん』
会うのを泣く程喜ばれれば、嬉しい気持ちしかない。……けれど、次にオトゥリアの放った言葉で思考が停止した。
『だって……っ、最後のお別れに来てくれたんでしょう?』
『は……?』
最後? どういう意味か?
絶句するサフィールをきっと困らせていると勘違いしたのか、オトゥリアは手の甲で涙を強引に拭い無理矢理笑って見せた。
『わ、私は大丈夫、だよ。サフィール様とお姉様が結婚しても、恨んだりしないから』
『ま、待って! 俺と君の姉が結婚? 何を言っているんだ。俺の婚約者は君だ』
『……でも、それも今日まででしょう? 今日食事の席でお父様に言われたの。私とサフィール様の婚約は白紙になって、お姉様と婚約を結び直すって。公爵様も了承してるって』
言われている意味を理解するのに時間がかかった。何故顔も体もイマイチで性格も嫌な女とオトゥリアを交換しないとならない? 何故、当人である自分の意思を聞かれない?
呆然としている間にもオトゥリアはお別れの言葉を紡ぐ。聞くと、彼女は成人したら隣国の貴族に嫁ぐのだと言う。
――……ふざけるなっ
『私……私……サフィール様にもらったプレゼントがい、一番、うれ……嬉し…………』
オトゥリアの声が小さくなっていく。無理に止めた涙は際限なく溢れ、拭っても拭っても流れ落ちた。声も震え、体も震えていた。
『やだ……嫌だあぁ……一緒に、いたいっ。離れ、たくない、ずっと……一緒に……っ』
『……勿論だよ。俺も君以外と一緒になる気はない』
震える体を抱き締めた。予想していたよりも細く、小さな体。
婚約解消を聞かされた時、どんな気持ちだったろうか。笑顔の下に隠しても、人の心は正直だ。押し付け、表に出ないようにしていたのに蓋は開いて、止めれなくなっていた。
離れたくない、一緒にいたいと泣くオトゥリアに……サフィールは魔族の魔法を使った。
起きる気配のないオトゥリアの隣に戻り、そっと抱き締めた。
「リア。俺のリア。ずっと俺の側にいて。君を不幸にしない、君を幸福に出来るのは俺だけだよ」
身に秘めるオトゥリアの膨大な魔力を代償に、オトゥリアの記憶から、心から、過去を全て消し去った。
愛していると言いながら愛情を与えず、蔑ろにしてばかりいる家族の記憶と感情なんて、あるだけ無駄だ。
魔力も、記憶も、家族への感情もサフィールに奪われたオトゥリアに待っていたのは、永遠に逃げられない幸福な檻。オトゥリアの為だけに作られた箱庭。彼女が疑問を抱く日はきっと来ない。
過去を消され、自分が何なのかさえ忘れたオトゥリアを溢れんばかりの愛情を注ぐサフィールがいるから。
サフィールがいる限り、オトゥリアは檻から逃げられない。逃げようと思う意志すら芽生えない。
跡取りがいなくなった公爵家は、明日には大騒ぎだろう。息子が婚約者を好いていると知りながらも、勝手にオトゥリアから姉に婚約者を変更したのだ。オトゥリアが姿を消してからは、幻影の魔法で廃人を装ったがその必要も無くなった。
あの家がどうなろうがサフィールにはどうだっていい。伯爵家が未だオトゥリアを捜索しているのもどうでもいい。
サフィールの幸福な檻に入れられたオトゥリアは、とても幸せな寝顔を無防備に晒しているのだから。
サフィールは魔族
オトゥリアは人間
何れ、寿命が2人を引き裂く。……と言うのもない。抜かりないサフィールは彼女の時間を止めた。永遠に若いままになる。
仮にサフィールが死んでも同時に死に、そして、魂は新たに器に入り、2人が再び出会うよう魔法を施した。禁術に近い魔法だったのでお詫びとして魔王に協力させた。
異常なまでの執着心を息子に抱かれ、永遠に逃げられない箱庭に入れられた清らかな少女を魔王は憐れんだ。魔族の執着は人間の比でもない。
好かれたが最後――2度と、離れられなくなる。
「生まれてくる子供の名前を明日考えようね」
眠っているオトゥリアに「お休み」と頬にキスをしてサフィールは瞳を閉じた。
眠っている筈のオトゥリアが服を握ったのを……サフィールは知っているのか、知らないのか。
読んでいただきありがとうございます!