東大生のドーピング
羅列されているのは、かろうじて文字だとわかるレベルの雑多な記号の群れだった。
かつてロゼッタ・ストーンを解読したシャンポリオンは、言語学の天才と言われたが、ロゼッタ・ストーンは同じ文章が3つの言語で書かれており、うちひとつは現代ギリシャ語だったという大きな手がかりがあった。
このスクロールにはそんなものはなにもない。
正真正銘、意味不明な記号の羅列だ。
しかし意味を伝達する記号であるからには、規則性が必ずあるはずだ。
何かないか、何か……
当たり前だが、未知の言語の解読なんて、そんなに簡単にいくものではない。
稀代の天才と呼ばれるレベルの人が、一生をかけてやるような仕事である。
気合だけで読み解けるほど甘いものではない。
さまざまな仮説を立てては試行錯誤を繰り返すが、これといった進展はないままに時間だけが過ぎていく。
そうしている間にも、カンジとナナミは必死で俺をかばい、敵を退け続ける。伝説の装備を手に奮闘を続ける二人だったが、さすがに疲れの色は隠せない。
とりこぼしはしないものの、さきほどまでは勢いよく吹き飛ばされていた敵の死骸が、ごろごろとそのあたりに転がるようになっていた。
俺の足元にも、魔狼の死骸が転がってくる。
死骸はやがて魔石を残して溶け消え、あたりにも大粒の魔石が目立つようになってきた。
カンジとナナミはもはや、せいいっぱいの表情。
一方の俺の方は、まるで解読が進まない。
大口を叩いておいて、こんなもんなのか、俺は……!
もっと、もっと頭を回転させるんだ!
そう自分自身を叱咤する一方で、頭の片隅からは、たかだか常人の分際で稀代の天才の仕事を真似ようなんて、ムシがよすぎるよ、という冷静なツッコミも聞こえてくる。
ええいうるさい、俺はもはや常人でいていいわけがないんだ。勇者パーティーの一員として、いつまでも役立たずでいられるかよ!
頭を回せ、限界を超えて、もっと、もっと早く!
焦る気持ちを無理やり押さえつけながら、目の前のスクロールを、眼光で貫き通す勢いで睨みつけていると、視界の外から大きな何かが高速で飛んでくるのに気がついた。
ヤバい! と思ったときには、すでにその石の塊のようなものは側頭部へ直撃寸前で、俺は思わず目をギュッと閉じて痛みに身構えた。
しかし、その塊が当たったと思った瞬間、激痛の代わりに弾けるような清涼感が生まれ、すぐに全身を駆け抜けた。
驚いた俺だったが、すぐに飛んできたものが魔石の塊で、駆け抜けた清涼感は魔石が変じた魔力の作用であることに気がついた。
魔石にそんな作用があるなどということは聞いたことがなかったが、いつにない怜悧な思考で答えは自明に導かれ、その結論は確かに納得いくものだった。
俺の身体に行き渡った魔石の魔力は、疲弊した俺の精神を見る間に癒やし、焦りをも鎮めてくれた。
思考も明らかにクリアになっている。
俺は、手元のスクロールと周りに転がる魔石を見比べ、すぐに決心した。
ひときわ目立つ、大粒の魔石を拾い上げると、鈍く光る鉱物のようなそれを、ためらうことなく口に運び、咀嚼する。
思ったとおり、噛み砕こうとした途端に魔石は弾けて雲散霧消し、代わりに魔力の奔流となって俺の身体に流れていった。
視界に入るもの、耳から聞こえるもの、そういったすべての外部刺激のひとつひとつがスローモーションのように感じられ、それぞれに対して思考し、解釈を行っている自分に気がつく。
自分の心拍だけが、いやに大きく一定のリズムを刻む。
どうやら自分の思考速度に、感覚器からの情報が追いついていないようだ。
相対的に考えると、心拍数は大きく増加しているのだろう。
いわゆる違法なドラッグを使用するとこんな感じだろうか、などと頭の片隅で思考していた。
目の前のスクロールを改めて眺める。
相変わらずさっぱり意味不明だったが、先程のような焦りはない。
イケる。なぜだかそれは俺の中で真理のように確信された。
思考を展開する。
ある仮説を頭の中で検証している最中、思考にさらなる余裕があることに気がついた。必死で考えているのと同じ思考演算をしながらも、それを客観的に見ている自分を認識できるのだ。
ためしに、その客観的な自分でも、スクロールの解読に関する別の仮説検証を始めてみると、なんの不都合もなく、二本の仮説検証を並行して走らせることができた。
これは……。
俺はさらに手近な魔石を口に運ぶ。
心拍が飛躍的に加速し、同時に思考速度と思考空間が一挙に広がった。
これまで限界と感じていたものが、限界でもなんでもなくなり、仮説検証の思考スレッドのさらなる倍化に難なく成功した。
俺はためらうことなく、周囲の魔石をかき集め、片っ端から食らっていった。
ひととおり周囲の魔石を喰らった俺は、異常なまでに冴え渡っているのを感じた。
心拍数はもはや通常の50倍を超えているだろう。
心臓や全身の血管に異常な負担がかかっているのは間違いないが、それと引き換えに思考速度と並行思考の相乗効果で通常の数百倍をはるかに超える処理能力を得た俺の思考の前に、もはや未知言語の解析は不可能ごとではなくなっていた。
多数の仮説を同時並行で検証し、当てはめ、構文構造を解きほぐしていく。
数百もの道筋から行き詰まった仮説を棄却していくと、やがて思考のスレッドは一本にまとまっていった。
そのスレッドは、最後まで矛盾に行き着くことなく、ほどなくスクロールの全文面を網羅し終えた。
「読める……」
今、俺は神代文字と、それによって書かれたこのスクロールの内容を完全に解読した。
そして、すぐさま目の前で続く戦闘を終結させるべく、解読している途中で発見したスクロールのある一節を、記述のとおりに読み上げる。
「召喚。レヴィアタンーー」
スクロールにかざした俺の手とスクロールの間で魔力のやりとりが行われ、召喚術式が起動する。
瞬間、周囲は暗転し、夜よりも暗い闇があたりを覆い尽くした。
視界の隅で、ナナミの光の剣が輝く軌跡を描き続けているのが見えた。
「なんだこれは!?」
カンジの声が聞こえる。
魔物たちも戸惑い、戦いの音が一瞬止んだ。
その静寂の中、スクロールから一条の光がすっと天に伸び、暗闇を切り裂いた。
光の柱の先から空間を切り裂いて降りてきたのは、全長100メートルはあろうかという巨大なクジラのような怪物だった。
敵も味方も、天を指し、目をむいて叫び、大混乱に陥った。
そう、あの怪物こそが……
「来たな、悪趣味な大賢者」
俺がつぶやくと、巨大な怪物ーーレヴィアタンは、俺の方にぎろっと目を向けた。
「自力で解読したか、東大生」




