東大生の転生
300年に1度の大災害と、1000年に1度の天変地異が同時に発生ーー。
長きにわたる平和な世を謳歌したこの世界を襲った出来事は、まさに30万年に1度の“起こりえない大災厄”だった。
だが、そこへ一人の青年が彗星のごとく現れる。
その名はヒデトシ。
一見どこにでもいそうなその青年の肩書はーー東大生。
あの“起こりえない大災厄”と時を同じくしてこの世界に現れた東大生・ヒデトシは、世界を救う。
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「あー……暑ィ……。しかし、いい天気だー」
汗をたらしながら歩いていた俺は、ふと視線を空へと上げ、遠くにむくむくとわきあがる入道雲を見て思わずつぶやいた。
連日の真夏日。昨日と同じように、今日も快晴だ。
長かった梅雨が数日前にようやく明け、お待ちかねの夏がやってきていた。
夏は、一番好きな季節だ。冒険のはじまりの予感がするからだ。まあ、そんなだいそれた冒険なんてはじまった試しはないんだけど。
それでもやっぱり、この夏もきっと、何かがはじまる気がする。
ひそかな胸の高まりを覚えつつ、あたりを見渡せば、キャンパス内は濃い緑が生い茂り、強い日差しとともに混ざり合って、光の洪水のようだ。
思わず目を細めたそのとき、遠くで何か低く響くような音がした。
はっと後ろを振り返ったが、特に何もない。
「んー? 気のせいか? ま、いいや。急ごう」
俺は止めていた足をふたたび踏み出し、ほどなく目的地である池のほとりにたどり着いた。
ここは「一二郎池」。
俺の通う東大駒場キャンパスに隠された秘境のひとつだ。
秘境というだけあって、俺以外には誰もいない。
「ま、だから静かで好きなんだけど」
ここに人がいない理由はふたつあって、ひとつは辺鄙なところにあること。もうひとつは、ここに一人で来ると留年するというおそろしい言い伝えがあるからだ。
俺はちょうどいい具合の石を見つけると腰を下ろし、ぶら下げていたビニール袋から一号館パンショップで買ってきたパンと野菜ジュースを取り出した。
優雅なるぼっち飯のはじまりだ。
「さて、いただきまー……あ?」
まさにパンにかぶりつこうとしたそのとき、俺は頭頂部にぴちょん、と冷たい滴の感触を感じた。
見上げると、いつの間にかあんなに晴れていた空に、すごい勢いで黒雲がかかり、今まさに太陽を覆い隠さんとしていた。あ、覆い隠した。
あたりは薄暗くなり、それから数秒もしないうちに、大粒の雨粒が次々に落ちてきはじめ、すぐに土砂降りに変わった。
いつのまにか雷鳴も轟きはじめており、たまらず俺は木の下に駆け込んだ。
「マジかー。そんな予報出てたっけ?」
俺がスマホをポケットから取り出したそのとき。
辺りがカッと明るくなり、同時に凄まじい轟音が鼓膜を突き刺して、俺は意識を失った。
*
前世の記憶というのを聞いたことがあるだろうか。
ときおり、幼稚園児くらいの子どもが、行ったことのない場所や時代の知るはずのないことを克明に話し出したというような話が、ツイッターなんかで話題になったりする。
そんなことあるわけないと多くの人は言うだろうし、もちろん俺もそう思っていた。
しかし、今はそうは思わない。
なぜなら……俺自身が身を以て体験してしまったからだ。
俺は、この「塔の町」で生まれ育ち、今年で20歳になる。たいして特別なこともない普通の子どもとして育ってきたが、実は前世の記憶がある。
記憶そのものは、おそらく生まれたときから当たり前のようにあった。
しかしそれを前世の記憶として認識できるようになったのは、4歳くらいになって、自己認識がはっきりとしてきたころだ。
漠然としたイメージの蓄積だったものが言語化されて整理され、どうやら俺は、こことは違う世界の日本という国で生まれ育ち、大学生のときに落雷で死んでしまったときの記憶をそっくりそのまま持ち合わせているらしいということがわかった。
しかも、偶然か必然か、前世と現世で名前が同じだ。
しかし、遺憾ながら、俺は前世の記憶を持っていても特段まわりの子どもたちと変わるところはなかった。
前世で読んでいた「なろう小説」では、こういう場合、前世の知識を生かして現世を変えていくというようなことをやるのがセオリーだ。
たしかに事実として、今生きている世界の文明レベルは、前世より数百年は遅れている。
さらに、前世の俺は国内最高峰の大学に通う「東大生」で、いわゆる「頭のいい」人間だった。
しかしいざ、前世の知識をたぐって何かをしようとしても、何もできないことにすぐに気がついた。
そもそも、科学の体系というものは「巨人の肩の上に立つ」ことで成り立っているものだ。
巨人とは先人たちの積み重ねの比喩で、あらゆる科学者は先人の知恵を踏まえてそこになにがしかを付け加えてさらに巨人の背を伸ばしている。
それこそが科学の営みだ。いきなり最先端の知識だけ知っていたところで、それは根拠のない空想と何ら変わりない。
航空力学や揚力の発生機序を知っていたとしても、飛行機なんて作れやしないのだ。
そんなわけで、俺は今日も店番をしている。
*
「よぉヒデトシ。元気にしてたか?」
そう声をかけながら店の中に入ってきたのは、熟練の冒険者であるカンジだ。
「はい。カンジさんもお元気そうですね。王都の様子はどうでした?」
「おう。いやあ、大変だったぜ」
店の中の商品ーー今は穀類が多いーーには目もくれず、カンジさんはカウンターまでやってきて俺の方に顔を寄せた。
「どうやら、今回王都に国軍の連中が集められたのは、大迷宮の調査が目的らしい」
「あ、やっぱり」
「それで、確認してみたら確かに半月前の大地震以来、大迷宮への一般人の立ち入りは禁止されてるんだと。お前さんに言われた通り、管理所で理由を聞いてみたが、調査の一点張りだ。それで何の調査か聞いても、要領を得ない。しまいにはあまりしつこいと牢屋にぶち込むとか言い始めたよ。あれは絶対何かあるな」
「ふうん……」
俺はその話を聞いて、少し考える。
大迷宮を筆頭とするダンジョンは、この世界において、富の源泉だ。
多くの資源が産出し、それを起点に経済が回っている。
実質的に王家の私有財産である大迷宮は、王家の収入源であると同時に、この国の信用を裏付ける担保の役割を果たしているといっていい。
元の世界でいえば産油国の油田みたいなものだ。
冒険者のダンジョン探索は、この国では文字通り基幹産業なのだ。
ダンジョンに深刻なトラブルがあったとなれば、この国の貨幣経済が揺らぐと見てまず間違いない。
「カンジさん、金を集めてください」
俺はカウンターの下から札束をありったけ取り出し、積み上げた。
それを見てカンジはぎょっとしたように言った。
「へ? この紙幣経済真っ盛りの世に、何だって金なんか。女に貢ぐアクセサリーでも作るのか?」
「違います。今の金相場が1G当たり3000Eくらいですが、俺はカンジさんから1G当たり3500Eで買い取ります。差額はカンジさんの取り分です」
理由をはぐらかしつつ、魅力的な報酬を提示すると、カンジは案の定飛びついた。
「ほー。美味しい話だな。相変わらず何を考えているのかわからねえが、お前さんの言うことを聞いておけば間違いないからな。引き受けたぜ」
カウンターの上の札束を荷物袋に詰め込むと、カンジは意気揚々と店を出た。
俺は帳簿を取り出し、借方に仮払金を記帳する。
前世の知識で世の中を変えることは難しいが、人よりうまく立ちまわることは可能だ。
簡単なところでは、この複式簿記なんかはその典型で、特段知識がいるものではないが、商売の状況をモニタリングするにあたって、あるとないとでは全然違ってくる。
貨幣の信頼が揺らぐと金現物の価値が増すというのも、世界を変える知識ではないが、利益を生んでくれる「発想」だ。
元々、東大生の多くは知識量というより、知識を有機的に結びつけて答えを導くような「地頭力」に秀でている。
かくいう俺も、そんなに博識でもなければずば抜けた発想力を持つ天才というわけでもないが、頭は回るほうだ。
俺はこれを武器に、現世の父から受け継いだ商売をやっている。
俺の店の商売は、元は普通の穀物屋だった。しかし、この世界の情報網が未成熟なことを見て取って、情報が金になると見た俺は、商品の取引のついでに各地の情報を買い取るようにした。
そしてその情報を元に、需要を先読みして様々な商材を扱うようにしたのだ。
たとえば、いま店頭に積み上がっている穀類は、去年東の海で水温が高くなったという情報を買い入れたので、少しずつ買い溜めしたものだ。
元の世界では、南米海域の水温が上がるエルニーニョ現象が起こると、世界的に気候が不安定化し、日本が冷夏暖冬になったりしていた。
これをヒントに数年スパンで現世の様子を観察したところ、この世界では東の海の水温が上がると、穀倉地帯で長雨が降り、不作になる傾向を発見したのだ。
俺の読みでは、おそらく今年また不作が発生するので、それに備えて穀類を集めているというわけだ。
知っているなら教えてやれという声が聞こえてきそうだが、こっちも商売だ。暴利を貪るつもりはないので大目に見てほしい。
とにかく、俺の商売は普通の何でも屋に見えて、その実態は「情報屋」だ。
この世界で情報の価値を知っている人間はまだそんなにいないようで、これまでのところ、俺の商売は順調にいっている。
この状況なら、カンジの買い付けもきっとうまくいくだろう。俺は降って湧いた今回の投資案件のソロバンを弾き、事業計画に反映した。
ーーそう、この時点では、あの大災厄に対して、俺もその程度の認識しか、持ち合わせていなかったのだ。