(温かさで気付く自分の影)
海外の映画で見たことがあるような猫足のあるバスタブからふんわりと湯気が立ち上っている。微かに花のような甘い香りがしているようだ。
動くたびにギシギシと音を立てているのではないかと思うほどに冷たい体をバスタブの中へとどうにか進める。足の先についた湯がむしろ氷のように感じられる。少し痛い。―――でも、少しずつ慣らしていくうちに吸い込まれるように身体は湯船につかっていった。体の先端から中心に向かって、ものすごい速さでかゆみと熱が向かってくる。中心に行きついたそれらは、私の口から力ない息となって出てきた。力が抜けていく。気持ちよすぎる。
「姫様……お、湯加減はい、いかがでしょうか?」
湯船を囲う白いカーテンの向こう側に見える影から声がした。私を連れてきたショウヤという男が紹介してきた、ここの召使いのメイコさんだ。白い髪の毛に白い肌、目もまつ毛もすべて雪のように白い少女。ルーキさんたちと同じくらいの年齢に思える。ただ、目も合わなければずっと何かに怯えているようだ。
「とても気持ちいいです。ありがとうございます。それで、あの……」
言葉を付け加える前に、彼女の方が反応した。影がびくっと縦に揺れたのが見えた。
「も、申し訳ありません。な、何かふ、不手際がございましたでしょうか?」
「いえ、そうではなくて」
「で、では、湯に入れたお、オイルのか、おりがお気にめ、めしませんでしたか?」
ついに座っていた影が立ち上がった。そして、そわそわと左右に動いている。何を言っても彼女を怖がらせてしまうようだ。やはり、この伯爵家の家来たちの態度が関係しているのだろうか?
私が川から引き揚げられた時に中心にいたスーツ姿の男―――ショウヤと名乗り、丁寧に迎えてくれた。歴史の教科書で見たことがあるようなきちんとしたスーツ姿。そのショウヤ曰く、伯爵様というこのテンを治めている人が急病で倒れてしまって、医者に見せても誰一人治すことができず、無礼を承知で私をここまで連れてきたらしい。
あからさまな嘘のようには思えなかったけれど、ショウヤの一緒にいたアシュラの人たちやこのメイコさんに対する態度が異常だった。アシュラの街に来ていたテンの2人組―――コウとジュンの態度にそっくりで、高圧的だった。私の前だから少し抑えているつもりなのか、かなり小声で「くそ使えない女だな」とか「お前の頭には脳みそが詰まっていないんじゃないのか?これ以上、俺を怒らせるなよ」と言っていた。その時の目の鋭さは、よく覚えがある。そんな気がする。
メイコさんはあの男とは全く違う雰囲気を持っている。この街に起きている問題は、伯爵の病気だけではなく、このことなのかもしれない。彼女を救いたい。だから、話を聞いてみたいと思っただけなのだが。どうしたものか。こちらが話そうとすればするほどよくない方向へと向かってしまう。そう少しの間考えていると、彼女が心配そうに「姫、さま?」と声を掛けてきた。
「ああ、ごめんなさい。あなたとお話しするにはどうすればいいのか考えていたのです」
その言葉にまたカーテンの向こうの影が揺れた。
「わ、私めと……ですか?」
「そう、メイコさんとです」
「めめめ、滅相もございません! わ、私の名前を、ひ、姫様がく、ちに、されるなんて、お口が、よ汚れてしまいます」
こちらが口を挟む前に彼女は早口で続けた。
「私には、し障害があ、あります。か、んたんなことさえできません。み、皆様をいら、だたせて、ししまいます。そ、それなのにここで生きていられる……こ、れ以上の幸せはあ、りません」
ここまで自分を蔑むなんて……よほどひどい扱いを受けてきたんだろうな……という思いが自分の中の記憶とともに喉の奥の方からやってくる。
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頭に勢いよく当たる紙の束―――
物理的な痛みよりも強い痛みが自分の中側から押し寄せる。
床に雪が降るようにひらひらと落ちていく。誰かの足がその紙をくしゃりと踏みつぶす。
「お前は本当に使えないなあ! おい!」
男の声が上からのしかかってくる。男は右手で足元に散らばった紙を無造作に拾う。
「聞いてんのか? 聞いてんのかよ! 顔上げろ。人の話はちゃんと顔見て聞くのが礼儀だろうが! そんなこともできねえのかよ!」
言葉を吐きながら私の頭を右手で持った紙で何度も叩く。「すいません」とか細い声が自分の中から聞こえてくる。意地汚い顔。苛立っている中に笑みが浮かんでいる。悪魔のような顔。視界が歪んでいく。
「この前、少し大きい契約を取ってきたからってどうせ気を抜いてたんだろ? でもなあ、あれはお前の手柄じゃない。会社の実績だ。お前ひとりじゃ何にもできない。散らばってる紙と同じで誰かがなんかしてくれないと、くそほどの役にも立たねえんだよ」
右手に持っていた紙を私に投げつけた。視界が白くなる。何も考えられない。自分の意識とは裏腹に口から「すいません。すいません」と言葉が漏れる。
「女はいいよなあ! 女っていうだけで契約が取れる! 守られて仕事ができる! どんなに使えない奴でもここにいれる。金がもらえる! 羨ましくて仕方がねえなあ!」
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「ひ、姫様? 姫様?」
カーテンの隙間から彼女の白い手が覗いている。入るべきか迷っているようで、力をこめたり、緩めたりしている。私はまた意識が飛んでいたらしい。最近頻度が多くなってきている気がする。
「ごめんなさい。大丈夫です。少し、嫌なことを思い出してしまっただけなので」
「嫌なこと……ですか?」
「ええ、でもこのお風呂はとっても気持ちいいのですぐに忘れてしまいました」
自分でもそう思いたくて、言い聞かせるようにそう口にした。今までの記憶とは別次元の恐怖を感じていたから。全身が細かく震えている。温かい湯船に浸かっているはずなのに。忘れたかった記憶が戻ってきてしまったから。
私はメイコさんを心配しているんじゃない。私はいつでも自分のことだけを心配しているんだ。何もできないクズな私が何かを救うことなんて考えないし、できない。ただ、自分の身を守ることで精一杯なんだ。
今だって、訳の分からない状況の中、ここの情報を聞き出しやすそうな人を見つけたから、彼女を使おうと思っただけなんだ。
気づいてしまうともう今まで通りには動けない。私はどこに行っても変わらない。卑怯者で、何もできない女。




