(川で紡がれるもの)
「きて……起きて……」
厚い空気の層に阻まれているのか音がぼんやりとしている。
光が見えない。体が鉛のように動かない。
一体何が自分の体に起きたのかさえ思い出せない。
ただ、聞きなじみのあるかわいらしい女の子の声がだんだんと近づいてくる。
「起きて……あーもう!いい加減起きなさいよ!」
風船が破裂したときのような大きな音が頭に響き渡る。重い瞼がゆっくりと開かれて、色とりどりの光が薄く開いた目に注ぎ込まれていく。
上空に見えたのは、満天の星空だった。
東京の空で見える転々と寂しそうに彩りを添える光ではない。
それぞれが思い思いの色を纏い、高い空を隙間なく埋めるように並べられているみたいだ。
はっと息を飲む。
その言葉の本質を今、理解した気がする。
息をするのも忘れるほどに見つめていた。苦しくなって初めて息を吸った。瞬きするのも惜しい。
「やっと目覚めたと思ったら……あんた、状況わかってんの?」
その言葉で初めて我に返った。
辺りを振り返る。ぎしぎしと体が揺れる。思わず、掴まれるところに右手をかける。
もっと揺れが激しくなった。
振り子のようにだんだんと揺れが小さくなっている。いつの間にか閉じていた目をもう一度開いて、状況を理解した。船に座っていた。いや、起き上がって座ったというのが正しいか。
私の身長よりも少し長い木造りの船が真っ暗な川なのか海なのかわからない水の上をゆっくりと進んでいる。帆もなければ、何か機械が付いているわけでもない。それなのに、速度を変えずにまっすぐ進んでいる。
それに、私以外誰か人が乗っているわけではない。
ということはだ。
「また、あなたなの?」
「やっと、状況理解できた?」
「あなたはどこにいるの?」
虚空に向かって、その声にまた話しかける。
「あのねえ、こっちのことはどうでもいいのよ。そんなことより自分のことを考えなさいよ」
ため息交じりに少女の声は答える。
「ゲンダツバの人たちと話をしたのは覚えてる……それで」
毎回諭されているせいか、少女のその言葉を何も疑いもせず鵜呑みにしてしまう自分がいた。言葉にしながら、自分でも驚いた。
「お馬鹿さん。少しは学んだら?左手の方でも見なさいよ」
その言葉に導かれるように左手の方に目をやる。船に敷かれたごわごわとした白い毛布の上に見慣れた黄緑色の本が置かれている。
私の視線を待っていましたと言わんばかりに本がひとりでにページを繰り始める。
最後にこれを見たのはアシュラでの戦いの前。本はちょうどその後の出来事からのページへと到達していた。アシュラからの脱走、そしてリュウ、ゲンダツバからこの船に乗せられて目が覚めるまで、数十ページに渡って物語が刻まれていた。
「私が伝えるよりもわかりやすくていいでしょ。その本を一緒に乗せておいて正解だったわね」
「どういうこと?」
「どうって、読んだ方が理解しやすいでしょう?」
「そうじゃなくて……ゲンダツバで私が船に乗せられていた時……あなたは近くにいたの?」
「さあね」
「さあねって何なの!? どういうつもりなの? あなたは何者なの? 私の敵なの!?」
「それはまだ言えない」
「どうして?」
「私がここであなたに全てを伝えると、物語が崩れてしまうからよ。リュウの親父さんからも言われたでしょ?」
知らない世界での孤独になってしまった不安と全てをはぐらかされている苛立ちがだんだんと船のヘリを、川の流れを歪ませていく。頬を伝った温かい水はすぐに凍てつくような寒さによって、氷のように冷えていく。
「私はどうすればいいの……」
「そんな子どもじみた言い方をするなんてね……。社会に出て世界の暗さを知ったあなたがまた人を簡単に信じるように戻るとは思わなかったわ」
思わず、目を見開いた。
大人になるまでも、大人になってからも少なからず、人に裏切られてきた。それが積み重なって、人を信じるということを放棄していた。
ただ、ここに来てから……いや、ここにいる人たちのことは簡単に信じてしまう。
「まあ、いいわ。これだけは教えてあげる。この船はテンに向かっている」
「テン……」
「そう、テンに着いてしまえば一緒に旅をしてきた子たちと再会するのは難しいかもしれないわね」
その言葉に彼らの顔が頭を埋め尽くした。さようならも言えずに、もう二度と会えないかもしれない。そう、実感してしまうと途切れたはずの涙がまた溢れそうになる。顔を俯かせたときに自分の手の中に納まっている本を見つめ直した。
そうだ! この物語を変えればいいんだ。
左手に本を持ち替えて、船の中を探った。このくらいの大きさの船でももしかしたら錨があるかもしれない。そう思えたからだ。
「無駄よ、忘れたの? あなたの血はこの世界ではすぐに石に変わってしまう。それに物語は現実の世界でないと自分では示せないわ。ここではあなた自身も登場人物の1人なのだから」
「そんな……」
船首近くで見つけた錆びついた錨が手からするりと落ちて、船を鈍く鳴らした。
「それだけじゃないわ。今、現実に戻れば彼らのことは救えないわよ」
また、思考が先回りされる。
「ああ、そろそろもう無理ね。また会いましょう」
彼女の言葉を理解しきれていないぼんやりとした頭に、彼女の別れの挨拶が流れ込む。その挨拶に重なるように、『もう、サクラは甘えん坊なんだから』という懐かしい言葉が直接頭に響く。
「ちょっと待って! 私、ここに来る前にもあなたに会ったことあるの?」
――――答えはない。
言葉通り、彼女はこの場所から消えたようだ。辺りには変わらず誰もいない。頬にふわりとした冷たい何かが当たった。雪だ。
周りに目をやると木々がなくなり、その代わりとでもいうように氷の柱が左右を囲み、空には紫色から青色、黄色と移り変わるカーテンのようなオーロラがなびいている。
船がガタガタと揺れ始め、雪が次第に吹雪へと変わっていく。雪で服が濡れ、体温がどんどん奪われて行く。歯が上下で音を立て、心臓が鼓動をうるさくする。
毛布を被って少しでも暖を取ろうと試みた。
ごわごわとした生地が肌をこすり、冷えきった体に追い打ちをかける。それでも、寒いよりも数十倍増しだった。体の周りから徐々に熱が生まれていく気がした。頭がぼんやりとしていく。
どれくらい時間が経ったかわからない。
ただ、左目に光の線のようなものが当たった。眩しさが意識を少し鮮明にしていく。
「来たぞ!」
「こっちに引き寄せろ!」
遠くの方で男たちが声を荒げている声が聞こえる。




