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私がわたしを描く世界   作者: 宇槻 叶
6章
59/70

(海からの脱出)

流れを止めることを知らない映像は、私の心を無視してずっと流れ続ける。ルーキの泣き声もずっと続く。映像以外の記憶も思い出しそうになる。

次第に立ってすらいられなくなってきた。思わずその場に座り込む。左の胸がきゅうと締め付けられるように痛み始めたかと思えば、奥の方から吐き気も込み上げてくる。

目を閉じても瞼の中で映像が流れ込む。目を上下左右のどこに背けても、水平を失った世界では何も意味をなさず、顔の向きを追うように映像が付いてきた。

だんだんと自分の体が立っているのか、座っているのかさえも分からなくなってきた。体が闇に飲まれていて、もうすでに自分はここに存在しないのではないかというようにも思える。


「いつまでこのループは続くの……」


力なくでもそう呟いたつもりだった。だが実際のところ、言葉にできていたのかもよくわからない。母親の悲鳴に近い怒鳴り声が声をかき消した。


「誰か……助けて……」


「……ラ……クラ……」


遠くで温かい声がしたような気がする。暗い闇の中を照らすろうそくのような温かい声。


「誰?」


「サクラ……! サクラ……!」


次ははっきりと聞こえた。私を呼ぶ、温かい声がする。誰でもいい、助けてというようにその声がする方を探す。

力の入らない足がぷるぷると小刻みに震えるのを感じながらもゆっくりと立ち上がり、歩き出す。徐々に声が大きく、はっきりと聞こえてくる。


映像の場面はまた発狂した母親の姿だった。右腕を抑え、また私の体を金縛りのように動かないようにする。

――――――砂嵐が映像に入り込んだ。


映像から私と母親の姿が消える。いや、フレーム内に収まっていなかっただけで、私はそこにいた。先ほどの映像と同じ場所。白い壁、淡い色のフローリング、ベージュのソファーに若草色のラグマット。壁には親子2人だけが映りこんだ写真がコルク板に何枚も張り付けられている。

そうだ。嫌なことばかりじゃなかった。お母さんは普段優しかった。温かかった。

たまにお父さんを思い出しちゃうからおかしくなっちゃうんだ。

小さな私が見上げているように映像も下からのアングルで動き続ける。遠くからの声はまだ消えていない。静かな部屋の中で聞こえる電化製品の低いうなりのような音の間に部屋に響いている。

部屋の中の私はゆっくりと小さな歩幅で部屋の中を動く。先ほどまでいたリビングのガラス付きの扉を開けて、左側にあるトイレの扉を通り過ぎて、右側にある寝室へとやってきた。

2人いっしょに寝ている白いマットにチェックの掛け布団が被ったベッドと母親の化粧台が置いてあった。化粧台は私がいたずらをしないようにと鏡に花柄の布のカバーが掛かっていた。でも、私は母の帰りを待つ間、たびたびこの椅子に座って鏡を開いて自分の顔を見ていた。

今もまさに映像で布が外されて、よく磨かれた鏡が目の前に現れた。幼い自分がそこに映りこむ。

いや、私のような私ではないような。


 よく映像を覗き込もうとした時だった。鏡の中に映る顔が今の自分の姿へと変わっていき、鏡の淵から水が滝のように流れ出した。

 深い深い記憶の暗闇の中に今の私の浅い記憶が流れ込む。

 そうだ。私は、ここにみんなを探しに来たんだ。メルローさんと。

 思い出すと遠くに聞こえていた声が一気に鮮明になった。


「サクラ! 鏡を思い出せ!」


「あ!鏡!」


 声がそう伝えてくれるまで、すっかり忘れていた。竜王から受け取った「ハル姫の鏡」の存在を。目の前の映像に映る鏡はまさにそれだった。そして、その鏡の中からメルローの声が聞こえてくる。

 思わずその鏡に向かって右手を伸ばす。

 鏡がまばゆい光を放った。その光の中から誰かが私の右手首を掴む。

 母親とは違う、温かくて力強い手。


「手を離すなよ。……もう大丈夫だ」


その声とともにメルローは鏡の中から現れた。握られた右手から血液が流れ出したように全身をドクドクと音を立てて回り出す。体が熱い。まるで生き返ったようだった。


隣でにかっと少年のように笑う彼に夕日の中、ラケットを持つ男の子の姿が重なる。安心感が押し寄せ、自分が強くなったような気さえした。


ただ、その安心も束の間、先ほどは映像で遠くから見ているだけだったのに、母親が実体で現れてこちらに近づいてきている。

映像の中と同様にこちらに大きな手を伸ばしてくる。走ってこの場から逃げてしまいたいほどの恐怖感が先ほどの温かい心を消し去っていく。植え付けられた恐怖心は根を張って、私の心をむしばんでいる。

逃げようとする私をそこに繋ぎとめたのは右腕だった。でも、母に掴まれたわけではない、メルローが掴んでいた。


「あれがずっとお前を苦しめていたんだな」


メルローは冷静に母親の方を見つめる。声にならなくて、私は小さく頷くしかできなかった。


「サクラ、あいつを倒そう。倒さないと、お前もみんなも救えない」


「無理だよ……お母さんは……」


 弱くて今にも泣きだしそうな情けない声が自分の体から発せられた。顔も前に向けられない。まるで駄々をこねる子供のようだ。だけど、それ以外、できなかった。


そんな私の右腕を掴んでいた彼が掌同士を合わせるように手をつなぎ直した。


「あんなやつ、お前のお母さんなんかじゃねえよ。あいつはこの海に潜む魔物だ」


 冷静な彼の声が聞こえ、下を向いていた顔を上げる。彼は変わらない笑顔を向けながら言葉にする。


「だって、サクラのお母さんだろ? 悪いやつなわけねえって。そうだろ?」


 そうだ。私のお母さんは、優しかった。そう。優しかった。

『サクラ、明日遠足なんだよね?おかず、何にしよっか。普段はお母さんズルしてばっかりだけど、明日はサクラの好きなもの一生懸命作るよ』


『熱つらいね……ゆっくり寝なさい。大丈夫。お母さん、ずっとサクラの傍にいるから』


『サクラ、お誕生日おめでとう。もう立派なお姉さんだね』


 温かい声とともに消えかけていた記憶が蘇る。


「うん。そう、私のお母さんはあんなのじゃなかった」


 目の前の母親に砂嵐のようなものが流れると、姿から色が消えて濃紺のスライムのような何かがそこに残っただけだった。周りにハイネが燃え盛る家に向かって走り出そうとする映像が流れる。


「待って!」と泣き叫ぶルーキの声がはっきりと聞こえた。

声の先に涙を流しすぎて目を腫らし、力なく座り込むルーキの姿があった。


「ルーキさん!」


 ランレイと同様、こちらの声は聞こえていないようだ。まっすぐに映像を見つめ続けている。右手がぐいと引っ張られた。


「ルーキを助けたいんだったら、こいつを封じないと。竜王から預かった鏡を……」


 いつ持ったのかもわからないほどに馴染んでいた左手にある丸い鏡がきらりと光った気がした。

「早く!」と急かされる。

 急かされた理由が正面を向き直してよくわかった。紺色の何かが手を伸ばす代わりに全体を伸ばして、私たちを包み込もうとしている。


 右手から熱が消えたと思った瞬間、しゃりという金属の擦れる音ともに刀が暗闇の中に光った。


「俺があいつをどうにかするから、サクラはあいつを封じることに専念して!」


「でも!」


「大丈夫。俺、これでもマゴラガの血をひくものだぜ? 俺たち一族は邪を払うことができるってしらない?」


 重力がないように軽々と宙を舞いながら、伸びる相手の体を切り落としていく。切り落とされた体の一部はうにょうにょと単体でも動いているが、小さくなり、元の体の方へと戻っていく。


 早くしないと……そう心では焦っていても、どうすればいいのかはっきりとわからない。わかっているのはこの鏡に封じることができるということだけ。

「大丈夫。ゆっくり深呼吸をして」


優しい声が聞こえた。メルローでもルーキでもない。別の誰かの声。いつもの声だ。でも、私はここに来る前からこの声を知っている。そう、知っているんだ。

 深呼吸をして澄んでいく頭の中にまた直接響く。


「呼吸が落ち着いたら、その鏡をあの魔物の方に向けるの。鏡の淵から中に向かって大きな渦があることを想像しながらね」


 言葉を疑うこともなく、言葉の通りに身体を動かす。

 鏡の外にも渦が起こり始めた。鏡に向かって引き込むように渦が伸びている。メルローに大きな傷を付けられた魔物は動くことができないのか呆気なく渦に飲み込まれて行く。


 映像が消えて、ゆらゆらと揺らめく水面に変わっていく。

 自分の形がだんだんと光に溶けていく感じがする。

 溶けて、消えていくのに、どこか心地がいい。温かいお風呂にいるようだった。

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