(落ちていく暗い海での希望)
目を閉じたときのように世界が上下両端から消えて、真っ暗に変わる。
けれど、すすり泣く声は消えていない。
むしろ誰か2人の声が重なって大きくなっていく。
不協和音のように頭に響く、嫌な音。聞き覚えのある音。嫌な記憶が掘り起こされていく。
嫌に懐かしい匂いが鼻に入り込む。
出しっぱなしになった水が勢いよくシンクに流れ落ち、ぐつぐつと鍋から音が鳴っている。
フローリングの氷のような冷たさが足底から全身へと広がっていく。
「ママ……ごめんなさい」
自分の奥から声が出たようだった。
他の誰でもない。自分が話をするように自分の体に響き、自分の耳へと遅れて入ってくる。
「なんでなの! あなたは約束をどうして守れないの!」
強い衝撃が頬に走る。脳がぐらりと揺れ、一瞬世界が暗くなる。
頬の痛みだけがジンジンと音を立てるようにそこに居座る。
視界が戻ると、その先には鋭く光る瞳があった。
ぼおっと耳鳴りのする耳にも母親のつんざく悲鳴のような声が辺りに響き渡る。
「ママ……」
痛みが熱さへと変わった頬に冷たい水の筋が流れる。
「やっぱりどこまでいってもあいつは私のことを邪魔するのね」
目の前の母親がこちらに近づいてくる。
私はそれから逃げるように震える足を一歩、一歩後ろへと運ぶ。
「なんでそんな目で見るの……私が悪いの?」
持ち上げられた右手首に痛みが走る。
強く握られて、ギリギリと軋んだ音を立てているようだった。
母親の爪が柔らかい肌に食い込んでいく。
「あいつの同じ目。ほんとに嫌い。嫌い。嫌い……」
「ママ……痛い……」
「うるさいのよ!」
手首を掴んでいた手が消えて、一気に顔元へ近づいてくる。
声が出ない。息が苦しい。吸うことも吐くこともできない。
自分から溢れる涙と苦しさで視界がどんどん薄れていく。
「マ……マ……」
喉の隙間から絞り出すように声が出た。
母親の冷たく鋭い目つきがだんだんと和らいでいく。
それに呼応して、首元の痛みも緩んでいく。
血流が戻って、体中が心臓になったように鼓動しているようだった。
そんな体を母親の震える手で抱き寄せられる。
「ごめん……ごめんね……」
抱きしめられる手がひどく冷たくて、こちらの体温も奪われていくようだった。
灰色の部屋がだんだんと暗くなっていき、映像が巻き戻っていく。
頭の中にすすり泣く音、金切り声がまた響き始める。
小さな部屋の中で何度も何度も、怒りと憎しみを突きつけられていく。
頭の中でどんどんそれが煮詰まっていって、自分の心がすり減っていく。
「もう……やめて……なんでこんな……」
声に出そうとするのに、声にならない。
先ほどまでと同じ台詞が繰り返されて行くだけだった。
叫び出したいほどなのに、その自由さえも許されない。
水の底も見えない深い海の中に一人取り残されて、ゆっくりと沈んでいくように、光がどんどんと離れていく。
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目の前からサクラが消えたことでメルローは焦りを隠しきれず、彼女の名前を呼び続けた。
声が枯れそうなほどに何度も何度も。
それでも、何の音も返ってこない。
誰も何もいない、ただの柔らかい淡い青色の世界だった。
「何が……あった……んじゃ?」
竜王のゆったりとした声が途切れながらもメルローの下に降り注ぐよう聞こえてきた。
「サクラが……サクラが消えたんだ!……さっきまではここに一緒にいたのに……」
メルローの声が少し震え、細くなる。
「何があったのか」と問おうとする竜王の声を彼の声が遮った。
「黒い球が……中が見えないくらい真っ黒な球が近づいてきたんだ。そしたら、横見たらサクラがいなくて、前向いたら球も消えてて……」
不安が声に乗って、どんどんと溢れ出していく。
淡い青色の世界の色が徐々に曇り空のようなどんよりとした灰色に変わっていく。
「俺……俺……」
パンッ――――――
鋭く大きな手と手が合わさる音がメルローの世界に響き渡る。
世界の音を一度なかったかのように消し去っていくようだった。
メルローは目を丸くして、瞳から溢れそうな涙が立ち止まった。
「メルロー。声は波となって人のここに伝染していく。お主の悲しみや不安がその世界をより暗くする。それはまた姫の状況を悪くするものでもある」
メルローは鼻水をすすり、涙が溢れる目を袖で拭い、自分の頬を両手でパチンと叩いた。
先ほどの音に負けないいい音が鳴り響く。
「姫は恐らく魔が巣くう少女の記憶に飲み込まれたのじゃろう。そして、今の間にも魔と対面しているはずじゃ」
「なんで、サクラだけ……」
「記憶が彼女だけを引き寄せたんじゃ。近い記憶同士がな」
「どうすればいいんだ?……何もできないのか?」
「案ずることはない、これからワシの力をそちらに送る。そうすれば、姫の記憶にお主の声が今のワシのように入り込めるはず。それで姫に声を掛け続けるのじゃ」
「声を……?」
「うむ。その世界は魂の世界。いわば、体という実体を除いた世界ゆえに心と心が直接つながっておる。わしにはどうすることができなくても、そこにいるお主ならどうにかできるはずじゃ」
メルローは一瞬頭を抱え、竜王の言葉の意味を理解しようとしたが、理解しきれず頭を左右に大きく振った。
世界の色がまたゆっくりと色を変えていき、淡い青色になった。
「あーもう! 難しいことはよくわかんねえけど、声かけ続ければいいんだな!やってみる」
「よろしく頼む。力を送れば、もうワシにはほとんど力が残らぬ。お主たちが頼りじゃ」
その言葉が終わると、一筋の光がメルローの下に降り注いだ。
温かい黄色の光が煌めきながら彼の体を縁取っていく。
彼は両の拳をぐっと握りこんで、正面を見定めた。サクラの顔を思い出しながら。
頭の中で鮮明に彼女が描かれていく。
驚いた顔、不安な顔、泣きそうな顔、起こっている顔、笑っている顔――――――
まだ出会ってから間もないということの方が不思議と思うほど、彼女のことが大事に思えた。
失いたくないと心底感じていた。
「サクラ! サクラ! 」
メルローは何もない空間に向かって吠えるようにサクラの名前を呼び続ける。
その声に呼応するように、世界がゆらゆらと波打っていく。
彼はその変化にすら気づかず、ただただ彼女の名前を必死に呼び続けた。




