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私がわたしを描く世界   作者: 宇槻 叶
6章
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(はじまりの海の歓迎2)

メルローはかなり混乱しているようだった。頭を触れていた左手を降ろして、自分の体を包み込むようにした。彼が混乱しているからか、あれだけ残酷なものを見せられたというのに妙に冷静だった。そんな自分が少し怖く、腹立たしく思った。


『何よ、その目は……』

 唐突に、聞き覚えのある声が頭のずっと深いところから湧き上がってきた。

聞き覚えのある声はどんどん大きさを上げていく。


『もう嫌! なんでそんなに私を困らせるの!? そんなことして楽しい?』

 金属の不協和音のように不快な思いを頭の中いっぱいに埋め尽くしていく。

 次第に周りの音も、見えている景色もすべてが色あせ、消えていく。

 黒々とした世界に飲み込まれる。手足の先から順に溶けていくような感覚がした。


 プルルルル――――プルルルル――――


 どこか懐かしい電子音が響く。隣に座っていた誰かが、すっと立ち上がる。

 服同士が擦れる音がした。


「あら、知らない番号ね……誰かしら」と言いながら、携帯電話を手にした。


「はい。安藤ですが」


 女性が凛と知った声を出す。

 ぼんやりとしていた視界がだんだんとピントが合って鮮明になっていく。

 肩にかからないくらいのショートカットで、黒い艶のある髪。ボーダーのTシャツに少し色の薄いジーンズを履いて、黄色のエプロンをしている。

 威圧感のある二重の瞳に、少し低い丸鼻、薄い唇。若いころの母の姿だった。

 

 彼女が取った携帯電話の電話口から甘ったるい女性の声が漏れ出してくる。


「急に申し訳ありませぇん。谷崎と申しますがぁ、こちらぁ、安藤優花様のお電話でしょうかぁ?」


 嫌な声。咄嗟にそれが身体中を駆け巡る。

 この声はだめ。お母さん、電話を切って。そう願うばかりだった。


「え、ええ。どちら様ですか?」


 母は少し苛立ちを見せながらも右手を左肘に添えながら返答し、相手の反応を待った。

 その母を打ちのめす勢いで、携帯電話の向こうの女が変わらない声で続ける。


「ああ、よかったぁ。私ぃ、よし……旦那様とぉ、同じ部署の谷崎千尋と申しますぅ」


「はあ……」


「仕事で近くにいるものですからぁ、旦那様がお忘れものになった眼鏡ケースをぉ、お届けに伺えればと思ってぇ」


「……どういうことでしょう?」


「だってぇ、また出張される予定があるのでぇ、ないと不便かなぁと思いましてぇ。ご家庭用の眼鏡もあるとは聞いていたんですけどぉ」


 携帯電話を握る母の右手にぎゅっと力が入り、目力のある瞳がいないはずの相手をまっすぐ捉えているようだった。


「そういうことではなく……なぜあなたが持っているのですか?」


 それでも感情が出たら負けと言わんばかりに、冷静な声を発するに留めている。


「あー。出張で一緒だったんですよぉ」


 ふふふという嫌な笑い声まで伝わってくる。


「出張で一緒だったからと言って、眼鏡ケースを持っている理由にはなりませんよね?」


「嫌ですよぉ、わかってて聞いてるんですかぁ? それはぁ、よし……旦那様がぁ」


「義仁って堂々と言ったらどうなの?」


 母がぴしゃりと言い切ると、電話口から甘い声が一瞬消えた。

 ただ、10秒も経たないうちに彼女の笑い声が聞こえてきた。


「いいんですかぁ? よかったぁ。旦那様っていう度に笑いそうになってしまってぇ、限界だったんですよぉ」


「出張っていうのは?」


「ああ、本当と言えば本当ですよぉ? でもぉ、その後は義仁さんとホテルでお泊りしてぇ、帰りはちょっと観光しながらぁ」


「そんなことまで聞いてない」


「義仁さんが言ってましたよぉ、奥様が怖すぎるって。本当にそうですねぇ。電話なのに超怖い」


「うるさいわね」

 

母の体が小さく震えている。それにつられるように声も震えて、先ほどよりも小さくなった。


「だからぁ、私と一緒にいるのと気が休まるんですってぇ。彼ってぇすごい甘えん坊さんじゃないですかぁ。」


「うるさい」


「そうだ、眼鏡ケース! どうしたらいいですかぁ?」


「黙れ……! もう2度とかけてくるな!」

 

大きな怒鳴り声とともに電話はぷつっと音を消した。

 母は持っていた携帯電話を壁に向かって投げつけた。大きな音を立ててぶつかり、さらに床へと真っ逆さまに落ちていった。液晶画面に大きな亀裂が入っている。

 携帯電話が滑っていった先の壁には男の人の字で様々な名前が大きく何枚も記されている。


 母はゆらりと立ち上がると、おもむろにそれを1枚ずつ壁から外しては細かく切り刻んでいく。

 まるで想い出をかみしめているかのようにゆっくりと。

 何十枚と飾られていた紙は彼女の涙とともに消えていき、最後に『春』という文字がゆっくりと破かれていった。彼女が部屋の中に切り刻んだ紙の切れ端が散り散りに舞い、部屋の景色を埋め尽くした。


 突如として、白い紙吹雪は燃え盛る火の粉へと姿を変え、世界が一変した。

 真っ赤な炎が立派な屋敷の至る所から燃え上がり、真っ暗な夜の世界を眩しいくらいに照らしている。地割れのような低い音が聞こえ始め、目の前の家が軋み始めていた。


「ナイル……! ナイル……!」

 女がその家に向かって、誰かの名前を泣き叫びながら走っている。お腹の大きい女は金色の長い髪を振り乱しながら、美しい顔を歪めている。

 周りにいる男女がその女の肩を抱きしめるようにして、抑え込む。


「やめて! 離して! あの中にはまだナイルがいるのよ!」

 

必死の制止を振り払おうと女も負けずに体をねじり、抜け出そうとする。

女の額から流れ落ちる汗と頬を伝う大粒の涙が混じり合うようにして、地面の色を変えていく。


「やめなさい! お腹に赤ちゃんがいるのよ!」

 制止する女が口を開いた。


「そんなこと知らない! ナイルがいないと……ナイルがいないなんて……生きている意味がない……」

 彼女を支えていた男が身体をねじり、右手を自由にすると彼女の頬を勢いよく叩いた。


「そんな馬鹿なことを言うな! そのお腹の子まで無駄死にさせるのか! それがナイルの望みだというのか、ハイネ」

 女はお腹を抱えるようにしてその場にゆっくりと座り込んだ。

 その時、大きな唸り声のような音が辺り一面に響き、目の前の屋根が重力に従って落ちていった。


「ナイルー!」

 女の悲痛な叫び声が静まり返った夜の風に乗っていった。

 周りの人間もしゃがみこみ、すすり泣く彼女を抱きしめた。顔を上げず、彼女は泣き続けるだけだった。

 聞いていられないくらいに痛々しい声だ。もうこれ以上聞きたくない。


「……おい! あそこに誰か立ってねえか?」


「動いているぞ!」


 周囲からどよめきが訪れる。

 確かに家の門の中で微かに動く小さな影が見える。女が希望に満ちた目を向ける。

 数名の男たちが火を避けながらその影に向かって走っていく。助け出されたのは、幼い男の子だった。

 女の目は絶望で埋め尽くされ、目を丸く見開いたまま動かなかった。

 助け出した男の腕の中に抱えられた少年に向かって、女は駆け寄った。

 少年の肩を掴むと、「ナイルは? ナイルはどうしたの?」と揺さぶった。

 かなり強い力で掴んでいるのか肩に爪が食い込んでいるのが見える。少年の頬を涙が伝った。


 「ごめんなさい……ごめん……なさい」

 嗚咽交じりに彼は口を開いた。

 

 「ナイルはどうしたの! 答えなさい!」

 女はほとんど言葉に聞こえないくらいの金切り声を上げた。


「兄ちゃんは……俺を……庇って……崩れてきた屋根の下敷きになって……助けようと思ったんだけど……俺……俺」


「なんでなのよ!」

声を荒げ、叫んだ女は、右手を夜空に伸びるように高々と振り上げると、少年の頬に向かって振りかざした。

が、その手は途中で勢いを止め、彼の頬を優しくなぞるだけだった。女は再びぺたりと座り込み、お腹を擦りながらすすり泣き続けた。

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