(記憶を辿る水)世界の狭間とノート
寺のような建物は近づくにつれて大きさを増した。実際に目の前にしてみると屋根だけの建物で、高さは私の身長の3倍くらいある。中には八角形の大きな手水のようなものがあり、水を救う柄杓と幾何学模様が刻まれた銀色のコップが積み重ねられていた。水は給えまなく八角形の中に流れ続け、水面を静かに揺らしている。外の湖の水と同じように澄んでいて底に描かれている模様が目を凝らさずとも見ることができた。
「これ飲んでいいのかな?」とメルローが息を弾ませながら柄杓を持っていた。この道中飲み物を飲んでいなかったこともあり、今にも口をつけてしまいそうだった。私もそういわれてみれば、本当に喉が張り付いてしまいそうなほど乾燥している。誰も答える前にメルローは柄杓に口をつけようとする。それをシャルの鋭い言葉が止めた。
「馬鹿! 敵の罠かもしれないのにすぐに飲むやつがあるか!」
その声に驚いたのかメルローは柄杓を水の中に落とした。
「えー。でもさ、さっきのカルラ族も飲んでたと思うよ、ほら」
そう言って指を差す先には文字が刻まれた大きな岩があった。今までの街とは違う感じのような見慣れない文字が刻まれている。やはり例の如く、なぜか読める。もはや驚かなくなっていた。そこには『清き心の持ち主のみリュウへの扉が開かれる』と刻まれていた。
「これ、なんて書いてあるの?」とルーキ。
「なんとなくばあちゃんにリュウの文字習ったけど、水を飲めってことなんじゃないの? 言い回しが難しくてうまくわからないけど」
メルローは顎に左手を当てて考え込むように言った。シャルとランレイはその様子が信じきれないのか2人して顔を見合わせた。
「あっていると思いますよ、メルローさんの言葉。……ここには『清き心の持ち主のみリュウへの扉が開かれる』と書いてあります。おそらくですが、水を飲んだ時にリュウの方々には何かわかるということなのではないでしょうか?」
そこまでの自信はなかったものの、考えたことを伝えてみる。ランレイは「この文字が読めるの?」と驚いたが、その後で「ハイネが言うなら……」と言った。
「抜け道も見当たらんし、カルラ族のあの者もここから姿を消したということを考えると、ハイネ様が言うことは正しいといわざるを得ません……」
神妙に言葉にするシャルに「俺が最初に言ったんだけど!」とメルローが食い掛った。シャルはメルローの言葉を無視して「ここは私が最初に……」と水面に浮かんでいる柄杓を手に取り、震える手で水を掬った。その水を銀色のコップに注ぎ込む。簡単なことをしているはずなのに、なぜか息が詰まり、見ているだけなのに唾をごくりと飲んでいた。
「おいしい!」
シャルの様子に心を奪われていた私たちの沈黙を元気な声が破った。その声の主はルーキだった。太陽で火照ったのか、白い肌が紅潮している。ただ、水を飲んだというものも何か起きた様子はない。
「な! ルーキ!?」
シャルは驚きが隠せず、水を注いだコップを落としそうになった。ただ、ルーキを見て安心したのか、躊躇することをやめてぐいとコップの水を飲み切った。メルロー、ランレイも続き、最後に私が水を飲んだ時、一番初めに飲んだルーキがその場に膝から崩れ落ちて倒れた。
「ルーキ」と声を上げて一番近くにいたシャルが体を起こすように抱き上げる。深い眠りについているように何の反応もなく、身体中の力抜けてしまっているのか彼の腕からだらりと腕が地面に向かって落ちた。青い顔をしていたシャルも抱き上げた彼女に重なるように倒れこんだ。
声を上げたメルローとランレイもまるで2人を追いかけるようにその場に倒れ込んだ。
私にも急に強い眠気が生じて、瞼が重くなり、目を開いているのが困難になっていく。何も考えられなくなって、光が消えて、暗い世界に潜っていた。
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どこか懐かしい声が聞こえる。それに温かくて、ゆっくりと決まった速度で音が聞こえて、とても心地いい場所にいる。
誰かが私の声を聞こうとして外から触っている気がする。優しい手の温もりを感じる。それに応じようと手を動かしてみる。
「あ、動いた」
楽しそうに女性が呟く声がした。
「え!? ほんと!?」という声の後に力が強い手が触れた気がする。驚いて体を動かす。
「うわあ……本当だ……動いたあ……」
無邪気にはしゃぐ子どものように男性が喜んでいる。
「ふふ、もう。あなたまで子どもみたいになってどうするの?」
「そう……だよなあ……俺たち……パパとママになるんだもんなあ……」
さっきの男性がとぎれとぎれに言葉を紡ぐ。そして自分に言い聞かせるように「頑張んないと……」と力強く言った。
「そうね。頑張ろうね、パパ」
女性は柔らかい声を重ねる。
「あ、それはそうと名前……どうしようか」
「気が早いわよ。生まれてくるの、まだまだ先よ?」
「そうなんだけどさ、もう待ちきれなくってさあ。早く春にならないかなあ?……女の子だったら、そのままハルって響きもいいよなあ……あ、でもでも自分の力で芽吹いて生きていくって意味で芽生とかもよくない?」
男性が楽しそうに話す。女性もその言葉を聞いて、楽しそうに笑う。
「それもいいわね」
「でしょでしょ!……あとは……」
声が水の中に入ったときのように周りに反響して、遠ざかっていく。私自身が深い水の中に沈み込んでいっているようだった。
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明るい光が瞼の上に照らされているのか眩しい。それとともに、自分の呼吸に合わせて音を刻む電子音が聞こえて、次に耳に深く残る低い機械音が聞こえてくる。何かが体にかかっている。少し重い。接着剤で固められたように固く閉ざした自分の瞼をこじ開けるように開く。目の端についた目ヤニがパリパリと音を立てているように感じる。
白い天井、壁、布団――――見えるものすべてが真っ白な空間にいた。体を起こそうとしても重くて全く体が持ち上がらない。呼吸が苦しい。何かマスクをつけられている。瞳しか動かせず、辺りをどうにか確認しようとする。
「ここは……」
声がうまく出せない。掠れた声が息を吐く音に混じる。懸命に自分の身に何が起きているのか確認しようとする。右側には窓があって。窓の傍に置かれたパイプ椅子の上には見慣れた仕事用の鞄とスーツの黒いジャケットがあった。そして、その横には誰かがきちんと置いたであろう少し端が焦げた黄緑色のあのノートが置いてあった。
「おや、間違えて向こう側にいってしまったか……」
誰もいない部屋の中空からしわがれた声がしたと思ったら、大きな手にぐいと手を引かれて、あのリュウの湖のように澄んだ青の光が視界を包み込んだ。




