(アシュラの闇の中で)
闇の中、数十メートル前を走るランレイさんの「ジァン! タイラン!」という悲鳴に近い声が聞こえた。すでに限界を超えている身体をもう一度奮い立たせて、走り出す。姫の体とはいえ、現実の自分に近い。走るほどに足が震え、肺が握りつぶされているように痛くなり、喉が熱く鋭い針で刺されたようになっていく。それでも必死に足を前に出した。
遅れて到着した私の前に待っていたのはアシュラの戦士たちの人だかりと、その足下で倒れ込んでいる仲間の姿だった。ランレイさんは潤んだ瞳をきつく尖らせ、彼らに何かを言っている。
「アエア!! アエアエア……!」
ルーキが私に気づき、傷ついた体を起こして震える手を伸ばして私の腕を掴んだ。
「姫様……逃げて……」
爆弾だけの傷ではない。腕中に痣や切り傷が無数にある。意識が遠のいているのか、私の腕を掴む手が緩んでいく。彼女を抱きかかえて支えようと腕を出そうとしたら、目の前に見慣れた黄緑色の本が差し出された。それはシャルの手だった。
「この中に……姫様はこの中に入れば……安全です……。早くお逃げください」
シャルも体中傷だらけで、体を起こすのもやっとなようだ。それなのに必死に笑顔を浮かべている。自分の非力さ、不甲斐なさに目の奥が痛くなり、視界がぼやけた。こんな時まで心配をさせるなんて……。
大きな音ともにシャルの背中に何かが命中し、彼の口から血が噴き出した。彼の手に握られていた本が地面を滑るようにして、私の足元に届いた。音のした方向を向くと、そこには昼間に見たテンの2人が銃のようなものを向けている。慌てて目をシャルに戻し、観察する。ただ、見える限りでは、背中からの出血はない。その代わりに彼の背中から直径2㎝ほどの丸い鉄の石がポロリと転がった。
「なぜ、貴様らがここにいるんだ!」
ランレイさんが目の前で起きたことが受け入れられず、声を荒げた。その顔を見て、テンの2人は薄ら笑いを浮かべた。
「どうせなら、最後まで私たちは手を汚すことなく後ろで見ていたかったのですけれどねえ?」
「なんだか、『逃げる』という言葉が聞こえてきましたので、これはいけないと思いましてねえ?」
「お前らが……こいつらに命令をした……?」
「ええ、そうですよ?」
「まさか、あなた今もまだ自分がこの国で国王の次に偉い……とでもお思いで?」
嫌な笑顔の仮面をつけたまま、彼らは高笑いをした。
「何がおかしい!」
ランレイさんが立ち上がり、腰につけていた剣を引き抜いた。鋭い瞳でテンの2人を捉えている。それを見ても彼らは何も起きていないかのように高笑いを続けた。笑いすぎて涙が出てきたのか、目の端を片方がふき取るようにしてこすりながら、言葉を発した。
「いやあ、本当に嫌だなあ。その目……反抗的な目はいけませんねえ」と言いながら、笑顔がボロボロと音を立てて崩れるように消えていき、「まるで父親そっくりだ」という頃には目の奥に潜んでいた暗い顔が出てきていた。
「ええ、全くです。ジュンさん。あいつはその目で私たちを睨み、一族の恥となる行動を犯した」
「本当です、コウさん。こんな野蛮な種族のものと結婚するなど」
「そして、お前のような気色の悪い混血が生まれた」
目の奥に輝きが見えない彼らの真っ黒な瞳はランレイさんを捉えていた。純粋な強さで行けば周りのアシュラの戦士たちの方が強いだろうが、それとは比べ物にならない恐怖を感じさせる目だった。何かに似ている……。そう思えば思うほどに、足が震え、視界が滲んでいく。
急に彼らがもう一度仮面をつけ直し、笑顔を浮かべた。
「少しは利用する価値もありましたが、もうあなたに手伝っていただくことはありません」
「迷惑なので、この者たちとともに、ここで死んでください」
倒れていたメルローが体をゆっくりと起こしながら、「こいつら……頭狂ってるだろ……同盟の仲間だったんじゃねえのかよ……!」と吐き出すように言った。
「仲間? ……仲間……ははは。仲間ですって? この者たちと? 聞きましたか?コウさん」
「ええ、聞こえましたよ、ジュンさん。御冗談がお上手ですねえ。マゴラガの坊ちゃん」
「冗談だと?」
何を言っているのか理解ができないとでも言いたいのか、コウと呼ばれていた男が肩をすくめて見せた。
「だって……そうでしょう? 私たちがこの者たちと仲間ということは、この者たちと私たちが対等であるということ……そんなことはあり得ません」
大きく腕を広げ、周りにいるアシュラの戦士たちを見回しながら、続けた。
「こんな脳みそが入っていないような野蛮人たちがこうして文明のある生活ができているのは、私たちのおかげです。私たちなしでは、この者たちはただただ殺し合いをするだけ」
コウの言葉をかみしめるように数回頷き、ジュンという男も続く。
「そんな彼らと私たちが対等なはずがありません。彼らはただの駒の一つ。駒が一つかけようが、また補充をすればいい。ただそれだけです」
言葉にならない苛立ちが胃をきりきりと絞り、知らない内に下唇から顎に向かって生温かい血が垂れていた。ただ、何から否定をしたらいいのか言葉にならず、ただ立ち尽くすしかできない自分によりイラついた。
「ラレ、ニゲ……」という低く唸るような声が優しく呟いた。タイランだった。ジァンとタイランはそれぞれ石の斧と大きな刀を杖のようにして大きな体を支えて立ち上がろうとする。シャルも背中の痛みがあるだろうに、「そうです……姫様……早く……」と言いながら立ち上がり、私の手に押し付けるように本を渡した。
「そんなことできない」というつもりだった私の声を深い地響きのような声がかき消した。
「逃げることは許されない。ランレイとその周り、みんな殺す」
周りのアシュラの戦士たちが一斉に道の両端に並び跪いて、道を開けた。その開いた道を屈強な男がゆったりとした足取りで進む。暗がりでも男はそこにいる誰よりも大きく、屈強な体を持っていることがわかる。轟々と横で燃える火柱が男の持つ見たことのない体を照らし出した。左右に3本ずつ、腕を持っていたのだった。胸にはランレイに会ったものと同じような太陽のマークが刻まれている。
「そうしなければ、ランレイはこの国を私や息子ジン・ミンから奪う」
屈強な男は一番下の1組の腕を腹の前で交差させ、残りの4本の腕を宙に広げた。その姿を目にしたランレイさんは剣を手から滑らせ、膝から崩れるようにしてその場に座り込んだ。
「こ……くおう……陛下……」
コウが体をくねらせながら、手を胸の前で組み「申し上げた通りでございましょう? ズーハオ陛下。この娘、陛下の寝首を掻こうと夜のうちに外へ出ていたのでございます」とまるで本当のことのように告げる。「本当に恐ろしい娘です。我々がこうして先手を打っていなければどうなっていたことか」とジュンも続く。
「貴公たちの働きにはまこと頭が下がることよ」
小さな子どもあやす様に国王は足の長さもないテンの2人の頭を左右の手で撫でた。あまりに力が有り余っているのか、優しくなでているはずが頭が大きく揺れ、いたぶっているようにしか見えない。ただ、テンの2人は笑顔を崩さずにいる。
「そんなことを私がするはずがない!」
ランレイが声を震わせながら反論する。その声に国王はピクリと反応し、2人を撫でていた腕を引っ込ませ、3組すべてを交差させた。
「ランレイ、お前のことは今まで信用してきた。しかし、お前の魂胆はすべてわかっている」
野生の獣のように鋭く光る瞳をランレイへ向け、たてがみの様な髪がより逆立つ。
「お前は、私を恨み、殺そうとしている。母親を殺すよう仕向けた私を」
その国王の言葉にランレイの目に灯っていた輝きがすべて消え、その場で項垂れた。初めて聞かされたことによるショックなのか、信頼が消えたショックなのかは不明だが、生きる気力がなくなった……そんな様に見えた。
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「ねえ、なんで急に私を無視するの? サクラ」
「……」
呪縛の様な母親の言葉の鎖で私は俯くことしかできなかった。そんな私の肩を彼女が掴む。私の背中から耳障りな高笑いと甘い声が聞こえてくる。
「きゃはは。気が付かないの? 迷惑なんだって。安藤さんにとって、あんたはさ」
「そうそう、貧乏で制服もまともに洗えてないの? くっさいんですけど」
「あんたたちには聞いてない! 2人の話に口出すな!」
すごい剣幕で2人を睨む横顔が目に入る。「ねえ、サクラ、なんか言ってよ」ともう一度肩を揺さぶる。人形のような私の頭がぐらんぐらんと大きく揺れる。
「……て」
「え?」
「離して! もうやめて!」
彼女は力なく手を離すと、困惑したような笑顔を浮かべながら「どういうこと?冗談でしょ?」といった。
「もう二度と私の前に現れないで!」
彼女の顔から笑顔が消え、きれいな瞳が暗く沈んだように見えた。
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「いけ! 者ども、奴らを殺せ」
もう対抗する力もないであろうランレイのことは見えていないとでも言うように、ズーハオは雄叫びのような声を上げ、1番上に生えた腕で私たちの方角を指さした。それを合図にアシュラの戦士たちが雄叫びを上げて立ち上がり、砂嵐を巻き上げながら走り込んできた。
右手が燃えるように熱くなった。先ほどシャルから渡された本の中から光が漏れていた。こんな状況下なのに、自分でも驚くほど冷静に手がその光を漏らすページをめくって開く。そこには新たな物語が書き記されている最中だった。
『ふふ。どうなるかは、あなたの選択次第……なんじゃない?」




