きゅうじつ と のーと
腰の右側がひどく痛む。
両足、両腕が痺れて、動かない。
ただ、腕はふんわりとした柔らかい感触に覆われている。
どうやら、机の後ろにあるベッドに腰を捻って突っ伏して、寝ているようだ。
一気に起き上がることができずに、まずは腰の捻りを戻し、両足を少しずつ伸ばしていく。
腕は、少し動かしただけで頭に響くような尖った痛みがあったため、最後に少しずつ伸ばした。
全てを伸ばし終えた後、腕を天井へと伸ばし、足もできる限り奥に向かって力を入れた。
血が全身を駆け巡った。
今までまるで血が通っていなかったように、通った箇所が熱くなった。
やっと、頭にも血液が循環し始めたのか、景色や考えがクリアになっていく。
会社用のスマートフォンからコール音が聞こえた。バイブとコール音から、スマートフォンの場所を探る。
会社用の鞄の中だった。まだ痺れが取れ切っていないため、這うようにして2メートル先の鞄を目指した。
鞄の中から取り出す頃には、6コールが終了しており、留守電の画面へと切り替わっていた。
状況もわからなかったため、取ることをやめてそのまま留守電が入り切るのを待った。
しかし、電話をしてきた相手は留守電をいれずに電話を切った。電話の相手は、『上田和也』だった。
電話の画面が消えると、驚くべき画面へと切り替わった。電話7件、留守電3件。
電話の音で起きないはずのない自分にとって、信じられない現状だった。
そして、もう1つ信じられないことがあった。
時刻が、10:36を指している。
先ほどやっと血流が回り始めたと頭から、急激に血がいなくなってしまったようで、目眩がした。
「嘘…だって、昨日の昼も夜も、向こうで過ごした時間より…こっちの方が…」
頭で対処しきれない言葉が、ボロボロと口から溢れ出した。
確かに、2日間ほど、あっちの世界で過ごした。
ただ、前の2回はこんなに時間は経たなかった。
むしろ、こちらの気持ちを読み取ってくれているかのように時間が進まなかった。
それなのに、今は、23時から10時まで時間が過ぎていた。しかも、電話の感じから、いつの10時か分からない。
恐怖を感じながらも、日にちを見直す。
4月27日(木)だった。
昨日は、確か水曜日だったから、丸1日過ぎた訳ではないようだ。
しかし、平日の10時を優に過ぎている。
出社時間は、8時30分。
だからこんなに電話が…と納得した。焦る気持ちさえもわかなかった。
ーーーーピンポーン
部屋のインターホンが鳴る。
こんな平日の朝に一体誰だ?
変に冷静な気持ちでインターホンのモニターの画面に立ち上がって向かった。
モニターには、私服姿の上田さんの姿があった。
「は、はい。」
弱々しい声が出た。焦ってはいないものの、声がうまく出ない。
「あ、安原? 大丈夫か?」
上田さんは、モニターの前でユラユラと揺れている。
落ち着きがないようだ。私の目は高田の姿を探していた。
いないようだ。
「あ…どぞ。」
オートロックを開けて、通す。
扉が開くとモニターがきれ、黒い画面に戻った。
私の絶望を示しているかのようだった。
ふーっと大きく息を吐き、玄関へと向かい、扉をゆっくりと開けた。
安っぽいマンションの軽い扉のはずなのに、非常に重く感じる。
扉を開けると、上田さんがゆっくりこちらに歩いてきていた。
上は、灰色のパーカーに中に黒いTシャツを着て、ベージュのチノパンを履いている。
やはり、私服で見間違いはないようだ。
今日は、休み?
では、なぜ上田さんが?
疑問が疑問を呼んだ。
「大丈夫そう…か? ごめんなあ、休みの日に。」
上田さんが心配そうにこちらの様子を伺う。
見られているため、つられて自分の体を見る。
そのまま寝ていたから、上は昨日の服のまま、下は学校の紺色のジャージ姿だった。
恥ずかしい気持ちと訳がわからない気持ちで、むしろ何も感じなくなった。
「い、いえ…どうしたんですか?」
うまく、声が出ない。
「ああ、さっきから電話してたんだけど、出ないから…家で倒れてるのかもって心配になってさ…」
言葉を切り、手に持っていたコンビニの袋を身体の前に差し出した。
中には、スポーツドリンクやゼリーなどが入っている。どうやら買ってきてくれたようだ。
「いらなかったみたいだな…?」
上田さんは大きな身体を縮めて、眉を下げた。
「あ、いや、あの、心配…かけて…すみません。」
状況が読みとれなさすぎて、上手い言葉が出てこない。
「いや、俺が早とちりし過ぎたんだ。休みだから、お前だって長めに寝るもんなあ。」
「すみません…。いつもは早く起きるんですが…。
でも、休日なのに、どうしたんですか?」
「あ、ああ。ほら取引先で、澤山商店の青沼さんっているだろ? あの人から俺に電話がかかってきたんだよね。安原が電話に出ないって。」
澤山商店というのは、青梅市にある会社で、元々上田さんが持っていて、私が去年から引き継いだ先だった。
「え!」
「安原に緊急で頼みたいことがあったらしくて、前任の俺に電話がきたんだ。俺が対応できる内容だったから、それは問題なかったけど。安原が心配になってさ。過労で倒れてるんじゃないかとかな。」
コンビニの袋を持たない方の手で、はにかみながら頭を掻き毟る。
落ち着かないようだ。
「まあ大丈夫ならいいんだ。家近いからって来ちゃって、ごめんな。」
同じ駅の南口から降りて、左右に分かれるものの、お互いの家が10分以内で行ける距離に住んでいる。
そのため、食事に行ったり、ゴルフの帰りに送ってもらったりしていた。
だから、私の家に来ることは珍しいことではないが、今回の一件は恥ずかしかったようだ。
一刻も早く立ち去りたいのか、足の先がオートロックの扉がある方に向いている。
「これ勿体ないから、良ければ食べてくれ。」
コンビニの袋を渡される。
受け取らないのも悪いため、そのまま受け取る。
「いえ、むしろ嬉しかったですよ! でもだいぶ焦りました。」
頑張って笑みを作る。引き立っていないか心配だ。
「うん、じゃあ、まあゆっくりな。」
爽やかな笑顔をジャージ姿の寝起きの女に向けると、上田さんは去っていった。
角を曲がるときにこちらに手を振ってきたため、会釈を返す。
見えなくなってから、扉を閉めた。
ふーっと大きな溜息を吐くと、身体から力も一気に無くなったようで、その場に座り込んだ。
本当によかった。
休みだった。なんの問題にもなっていない。
「ただ…。これからはちゃんと対策しないと…。」
今回はなんとかなったものの、これが平日で起きてしまっては笑えない。
連休しか向こうの世界に行かないようにしようかな。
そう心に誓った。
寝室兼リビングに戻り、インターホンで慌てて床に置いたスマートフォンを拾い上げた。
取引先に謝罪の電話をした後で、そのままカレンダーのページに昨日の向こうの世界について記載した。
こちらの時間と向こうに行って過ぎた時間を、わかる範囲で書き記した。
分からないことばかりの状況に、焦りを感じていたが、どうにか状況を整理してみた。




