差出人のない手紙
平成12年8月中旬、差出人のない手紙が郵送される。B4版の角封筒が分厚い。
「誰からだろう」
通常差出人がないというのは異常である。名前を明かしたくないか、匿名かのいずれかであろう。
こういう手紙は”受取拒否”で送り返したくなるのだが、返送も出来ない。やむを得ず封を切る事になる。
5月中旬に亡くなった母の初盆も終わり、休日とあって自宅で寛いでいる時だった。
封筒の中からは、細かい文字でびっしりと書かれた大学ノートが出てきた。一字一字金釘流の文字だ。丹念に書いたものと思われる。
1時間ばかりかけて斜め読みする。
・・・湯中淳・・・差出人は珍しい名前なので、すぐに思い浮かぶ。
一通り読み終わって、私は激しい衝撃に襲われる。大学ノートには、”母”の文字が幾度となく出てくる。母を恋い慕う文章が私の胸を打つ。
母が死んで約3ヵ月、ようやく落ち着き、平穏な日々に戻ろうとしていた。この差出人のない手紙を読んで、私の心は千々に乱れ、母の死の光景がいやが上にも瞼の裏に浮かび上がってくる。
母が死んだのは5月16日午前10時半。享年88歳。
その数日前までは、周囲の者が驚くほど元気だった。その死を誰が予測し得たであろうか。
平成11年4月、体調を崩して常滑市民病院へ緊急入院。食事が喉を通らず、点滴を受けていたが、7月から経管栄養に切り替える。体調は一進一退のまま、10月25日に退院。経管栄養のまま、野間の渡辺病院経営の老人医療保健センター”サンバーデン”に入所。
1週間も経たぬうちに、経管栄養が取れて、他の入所者と同じ食事をとる事が出来る様になる。体調も回復する。
常滑市民病院の時の、食事もとれず、熱に浮かされた日々は一体何だったのか、と思うほどの回復ぶりだった。母本人も体の調子がいいと笑顔で答える。
「百歳まで生きるでなあ」私や姉達が訪問するたびに、口癖のように話しかける。血色も良くなって、歌を歌って聞かせる。
「ここから、どこにも行きたくない」ほど、快適な生活であった。医者や看護師がついている。若い看護師見習いも、手取り足取りの毎日だ。
春になり、2日と5日に2回自宅に連れて帰るも、1時間もたたむうちに「帰りたい」と言い出す始末。
若い頃から苦労の連続だった母の、この半年足らずのサンバーデンの生活は、極楽だったに違いない。
”入所させてよかった”私は最後の親孝行ができて、安堵の胸を撫ぜ降ろしていたのである。
平成12年4月から介護保険制度が導入される。事態は一変する。
4月25日まで、母は3階の個室に入所していた。入所者も20名足らずであったろうか。至れり尽くせりの毎日だった。訪問するたびに、笑顔で迎えてくれた。
4月25日以降、2階の大部屋に移される。
入所者は約40名。にも拘らず、入所者の世話をする介護士は3階の時と同人数。勢い手が回らなくなる。
その日から私が見舞いに行っても、母の表情からは笑顔が消える。歌も歌わなくなる。大抵食堂で1人ぽつ念としている。私の顔を見ると寂しそうに笑う。
「部屋に行く」というので車椅子を押して、ベッドが6台並ぶ部屋に連れた行く。
ある時、部屋に入るなり「もう死にたいがや」泣き出しそうな顔で訴えかける。
見舞いに行った姉にも「家に帰りたい」と洩らしている。
湯中淳の手紙を詠みながら、私は今でも後悔している。
あの時、退所させて家に連れて帰ればよかった。手足の爪は伸び放題。入れ歯は一度も洗った形跡がない。
母からすれば、3階の天国から2階の地獄に突き落とされた気持ちだったろう。何故こんなに待遇が違うのか。
後々、人づてに聞いたところでは、介護保険のせいだという。母の介護度は4.5は寝たきり老人という。4は人手を借りるも、自力で移動できるものだという。だから爪や入れ歯など自分で切ったり洗ったりしろというのだろうか。
それでも、2週間ぐらいたって、母は2階の環境になれたのか、あるいは諦めたのか、何も言わなくなった。
忘れもしない、5月10日、私が見舞いに行った時、母はベッドで横になり、肩で息をして咳こんでいた。それでも比較的元気だった。
この時、私は母を渡辺病院に入院させるべく、事務室に駆け込むべきだった。もし決断していれば、あるいは母の命は助かったかもしれない。今でもこの事が、心のしこりとして残っている。
11日昼、サンバーデンから電話。母を渡辺病院に入院させたとのこと。病名については一切触れない。
午後2時、病院に駆け込む。この時母はすでに手遅れの状態だった。顔に死相があらわれ、激しく肩で息をついていた。酸素吸入も役立っているようには見えなかった。
夜中の1時半、医院長先生自ら診察に見える。母の容体を見るなり「これはひどい」と一言洩らす。
この時、私は事態を察した。サンバーデンの医療関係者は母の容体を見て単なる喘息と判断したに違いない。適切な処置も摂らず放置していたと考えられる。11日になって、容体が尋常でない事を知り、あわてて渡辺病院に駆け込んだと推察した。
私は院長先生自ら、診察にお出ましになった事に、感謝の念は湧かなかった。母を放置しておいたサンバーデンに対して、強い怒りをを感じていた。
12日昼、危篤状態となる。延命処置を施すかがどうかという病院側の意見にオッケーを出す。母を集中治療室に移す。
義兄が手かざしや気功をやっている。
「母に手かざしをやってやりなさい。助かるかもしれない」と言われる。私は藁でもつかむ思いで、夜9時から朝9時まで、休息時間を省いて約8時間、母の身体に手かざしして、気を送り続ける。
亡くなる16日の朝まで、夜の看病は私1人で行う。
13日午前10時頃、主治医より母の容体について説明がある。
膵臓が全く機能していない。おしっこの出が悪いのはそのせいである。点滴によって母の顔はぱんぱんにむくんでいる。よって膵臓と思しきお腹の位置を重点的に手かざしをおこなう。その甲斐あってか、2日後におしっこの出が、僅かであるがよくなる。
次に右の肺が機能していない。気管支も、普通の人よりも細い。よって痰が出にくい。管を肺まで入れて空気を送り込む。肺にたまった痰を強制的に取り出す。管を肺に送り込むとき、余程苦しいのか、母の身体がのけぞる。
母は若い頃から塵肺の気があった。長じては気管支炎を患い、肺炎を引き起こしている。70歳になって結核にかかり、大府の国立診療所で9ヵ月の病院生活を余儀なくされている。
後で聞いた話だと、サンバーデンの2階で喘息がはやり、4~5人のお年寄りが入院したとのこと。
老人医療保険制度とは言いながら、介護保険制度の立ち遅れから、認定度4以下の入居者を2階に押し込めてしまった。その不備が喘息を流行させた。適切な処置も後手後手に回る。母はその犠牲者であった。
それでも14日頃から母の容体は持ち直しの気配を見せる。病院側の懸命な医療のお陰であろう。
私は秘かに1日約7時間から8時間の、死に物狂いの手かざしのお陰と自負していた。夜8時半ごろから12時まで、ぶっ通しで母の身体に気を入れる。1時まで仮眠、2時から3時まで手かざしを行う。3時から5時まで仮眠、5時から9時まで手かざし。
12日の夜から16日の朝まで、夜間つきっきりで看病し、手かざしを行って、私は不思議な体験をする。
朝方5時に起きる。起きるといっても、母の側にある診察台の上である。5時に起きなければと思って横になると、ピタリと5時に眼が覚める。とは言うものの、2日3日と日がたつと、けだるさに襲われる。眼は醒めるものの、体が言う事を聞かない。頭も重い。
そんな状態でも必死になって,手かざしを行う。30分、1時間と過ぎると、手の甲がピリピリとしてくる。頭のてっぺんに穴が開いたようになる。熱い気が頭の中から全身に流れ込んでくるのが判る。
一気に疲れが消し飛んでいく。全身に気が張るとはこの事か。全身が充実して、細胞の1つ1つが若返って行くようである。手かざしをしている右手が、グローブになったみたいである。充実した気が母の身体に伝わっている事が自分でも判る。
・・・母は助かる。いや、助けねばならぬ・・・
そんな気持ちが心を支配している。その甲斐あってか、14日の夕方ごろから回復に向かい出す。それまでは話しかけても、ほとんど反応も示さなかった。
14日朝、眼を開ける。私や姉達の顔も判るようになる。強制的な酸素吸入も取りやめる。鼻から酸素を送り込む。肺にたまった痰も、11日頃は1時間に1回ぐらいしていたが、それが3時間に1回ぐらいとなる。
16日、朝9時、主治医が集中治療室に診察に来る。血圧、脈拍も正常で体調も落ち着いてきている。
「一般病棟に移れるでしょう」太鼓判を押す。3日前、1週間は持たないでしょうと言っていたのだ。
・・・奇跡が起こった・・・
私はそう信じた。医師や看護師たちの懸命な看護が功を奏したと考えるのが普通であろう。だが私は、必死な思いの手かだしが奇跡を起こしたと自負していたのだ。
朝9時に弟の嫁さんと看病を代わる時「夜、また来るでな」母に話しかける。母は大きく頷いて私を見送る。意識はしっかりとしていたのだ。
これが母との末期の別れとなった。家に帰り、朝風呂に入り、朝食を摂る。横になろうとした矢先、母の容体の急変を知らされる。取るもとりあえず、病院に駆け込んだ時、私の眼に映ったのは、息を引き取った母の姿だった。
主治医の説明によると、私が帰って間もなく、心臓が停止する。電気ショックを施すも、効果がなかった。
死因は腎臓不全。
凍てついたような母の死に顔を見て、私の頭の中は真っ白だった。
・・・どうして・・・朝見た時は、一般病棟に移れる程の回復を見せていた。
・・・奇跡は起こらなかった・・・
4日5日と必死な思いでやった手かざしは、一体何だったのか。延命処置をとる時、主治医は助かっても植物人間になるでしょうとと言っていた。たとえそうであっても、母さえ生きていてくれれば・・・。私の願いは虚しく消えた。
心の中は、ほっかりと穴が開いた。張り詰めていた気持ちがしぼむ。葬式が終わった後、私は体調を崩す。それにもまして虚しい空間の中に、漂い続け、目標のない日々が続いた。
8月中旬すぎ、体力、気力共に元に戻りかけていた時、湯中淳の手紙が届く。
私の脳裡に再び、ベッドに横たわる母の死に顔が浮かび上がる。
――さて、イエスが行ってごらんになると、ラザロはすでに4日間も墓の中に置かれていた。・・・
マリアはイエスのおられるところに行ってお目にかかり、その足元にひれ伏して言った。「主よ、もしあなたがここにいてくださったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう」
イエスは、彼女が泣き、また彼女と一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になり、激しく感動し、また心を騒がせ、そして言われた。
「彼をどこに置いたのか」
彼らはイエスに言った。「主よ、きて、ご覧ください」
イエスは涙を流された。するとユダヤ人たちは言った。
「ああ、何と彼を愛しておられたことか」
しかし、彼らのある人は言った。「あの盲人の目をあけたこの人でも、ラザロを死なせないようには、できなかったのか」
イエスはまた激しく感動して、墓に入られた。
それは洞窟であって、そこに石がはめてあった。イエスは言われた。
「石を取りのけなさい」
死んだラザロの姉妹マルタが行った。
「主よ、もう臭くなっております。4日もたっていますから」
イエスは彼女に言われた。
「もし信じるなら神の栄光を見るであろうと、あなたに言ったではないか」
人々は石を取りのけた。するとイエスは天に向けて言われた「父よ、私の願いをお聞き下さった事を感謝します。あなたはいつでもわたしの願いを聞き入れて下さることを、よく知っています。しかし、こう申しますのは、そばに立っている人々に、あなたがわたしをつかわされたことを、信じさせるためであります」
こう言いながら、大声で「ラザロよ、出てきなさい」と呼ばわれた。すると死人は手足を布でまかれ、顔もおおいで包まれたまま、出てきた。
イエスは人々に言われた。
「彼をほどいてやって、帰らせなさい」――ヨハネによる福音書
あの時、私の心に、聖書のこの文章が影を落としていた。奇跡を望みながら、結局奇跡は起こらなかった。
夕方、落ち着くと、私は湯中淳の手紙を読み返した。
松本さん、お久しぶりですね。1年に何度か電話をかけていますが、改まって手紙を差し上げるのは、これが最初で最後かもしれません。
忘れもしません。松本さんと初めてあったのは5年も前の事でした。私が35歳、松本さんが50歳の時でした。
当時私は常滑焼の問屋さんの配送の運転手をしていました。松本さんにも申し上げたように、私は母を捜しておりました。湯中という姓は珍しいので、人伝てに尋ね歩いて、常滑に腰を降ろしました。
母はクリスチャンでした。教会には必ず顔を出すものと信じていました。常滑で教会といえば、ルーテル教会しかありませんでした。牧師さんもおらず、信者さん宅の2階を間借りしていました。1週間に一回、それも夕方に聖書朗読の会があったのみ。
その席に松本さんが居りました。あなたは、キリスト教そのものに興味はないと言われました。聖書の勉強をしたい一念で出席していたとのこと。
あの場所は、今どうなっているのでしょうか。西の方の海を埋め立てて、市役所や競艇場がありました。いわゆる鯉江新開地と言われるところでしたね。そこに隣接した場所に聖書朗読会がありました。常滑焼の問屋さんが軒を連ねていました。一階は倉庫と事務所兼住まい。裏手の急な階段を登り、煤けた2階に上がります。6帖と8帖2間の和室。長机を置いて、10人の出席者が腰を据えると一杯になります。前の方、壁を背にして、年の頃40歳くらいの女の人が座ります。
部屋の中は真っ黒ですが、信者さんの有志の方々が雑巾がけをしているそうです。そのお陰というか、部屋の中は小ぎれいでした。
松本さんがここに出席されたのは、確か寒い日だったと記憶しています。信者の方からの紹介だそうで、あなたは無愛想に、こくりと頭を下げるのみ。
・・・とっつきにくい人だな・・・私の第一印象でした。
度の強い眼鏡をかけ、眉間に皺を寄せ、薄い唇をぎゅうっと締めていました。世の中の苦労を自分1人で背負っているような、暗く近寄りがたい雰囲気がありました。
聖書朗読会は夕方7時から9時まで。
壁を背にして坐っている方は、この建物の所有者の奥さん。
上田淳子さんといい、若い頃にキリスト教会に入信。常滑での布教の基盤を作るために、開いた会と聞いています。
上田さんが新約聖書の中の一節を指摘します。信者の方に眼をむけて「あなた、ここをよんで」と申し渡します。
申し渡すという言葉がピッタリするくらい、上田さんの物言いは命令口調です。でもソフトな言葉遣いなので、嫌味はありません。
ある時上田さんは、あなたに読むように申し渡しました。
あなたは薄い唇をへの字に曲げました。度の強い眼鏡の奥から、反抗的な眼差しを向けました。
少し間を置いてから、小さい声で朗読しました。
・・・この人、命令されるのが嫌いなのかな・・・
それ以来、上田さんは一度も松本さんを名指しされませんでした。
朗読会が終わると、お祈りをします。上田さんが澄んだ声で歌います。私達は胸の所で両手を組んで黙とうします。約10分。
その後「ご寄附を」上田さんが黒い袋を一番端の信者さんに手渡します。袋が信者さんの手を回ります。信者さんが小銭を入れて、次の方に渡します。強制ではないので入れない人もいます。9時を過ぎると、上田さんがお茶やお菓子を運んできます。長机を片付けて、一同が輪になります。雑談に花が咲きます。
私は母を捜して、常滑に来ている事を話してあります。
仕事は常滑焼の製造元から製品を運搬しています。製品はトラックで東京や大阪方面の建材店等に輸送しています。私はパートですから給料は安いですが、運送用の2トン貨物を自由に使わせてくれます。それが魅力でこの仕事に就きました。
私が驚いたのは松本さんの仕事です。
不動産屋と言うではありませんか。無口でとっつきにくいので事務でもやっているのかと思いきや、営業というではありませんか。これには2度びっくり。
雑談には個人の悩みも聞こえてきます。上田さんは聞き上手と言いましょうか、親身に対応していました。
私はソフトな面立ちをしています。現場よりも営業向きとよく言われます。色白で涼しい顔立ちをしているともいわれます。女の子にもてるでしょうと、からかわれることも度々です。
私は母の情報を得るために、信者の皆さんには腰を低くして接しています。聖書朗読会には半田や東浦からも来られる方もいます。半田にはルーテル教会もあります。牧師さんも見え、私も2度3度お会いした事もあります。
松本さんが出席されるようになって2ヵ月程過ぎた頃でした。朗読会でちょっとした事件が起こりました。事件というのは大袈裟かもしれません。でも波風も立たない朗読会には事件でした。
上田さんの紹介で、1人の婦人が出席するようになりました。小柄で異様な雰囲気が伝わってくるのです。粗末な木綿の作業服を着ておりました。年の頃40歳くらいでしょうか。頬がこけて、誰が見ても貧相な顔付と判ります。髪の後ろに束ねただけです。化粧気が全くありません。化粧に興味がないというより、その余裕さえないといった感じです。
いつも目の玉が躍っているようで、落ち着きのなさが誰の目にもわかります。
・・・食うに困る日々を送っている・・・信者さんの誰もがそう判断されたと思います。
上田さんは朗読をこの人に名指しされました。驚いた事に、と言っては失礼でしょうか、声に抑揚があって、情がこもっています。実にうまい、年季が入っている。昔はアナウンサーでもしていたのではないのか、そう思うほど、素人離れしておりました。
朗読が終わると、上田さんの講釈が始まります。聖書の言葉は判りやすいのが特徴です。だからと言って内容まで判りやすいとは限りません。
例えばマタイ伝に有名な言葉があります。
――心の貧しい人達は、さいわいである。
天国は彼らのものであろう。
――悲しんでいる人たちは、さいわいである。
彼らは慰められるであろう。
聖書の中には、このような逆説的な言葉が随所に出てきます。上田さんの良い所は、実生活を例にとって、講釈していく事でした。
お祈りも終わります。寄付の黒い袋が回されます。驚いた事に、上田さんはその袋ごと,当の女の人に与えたのでした。見るに見かねる程貧乏しているのでしょう。
女の人は袋を押し頂くようにして懐にしまい込むのでした。信者の皆さんも、私も松本さんも沈黙したままです。寄付したお金ですから、上田さんがどのように使おうと、上田さんの勝手です。でも何かしら、口では言えない奇妙な雰囲気が漂っておりました。
上田さんの話では寄付したお金は、働くにも働けない身体障害者の会に贈与されるとのことでした。
それからというもの、1週間に1度開かれる朗読会にその女の人の朗読となりました。他の信者さんの出る幕がありませんでした。寄付した袋がその人に他渡されます。
その人がどういう境遇なのか、上田さんは黙秘したままです。謎の女性としか言いようがありません。
彼女は黒い袋を押し頂いて、謝意を表して懐に納めます。
3回目の時でしょうか、袋を手にしたとき、かすかに口元が緩むのを、私は見逃しませんでした。私は彼女と同じ机に坐っていました。松本さんは私の横に座っています。
薄笑いのような、その表情に、私は嫌な気持ちになりました。何と言ったらよいのでしょうか。変なたとえで申し訳ありませんが、飢えた野良犬が餌をもらう場面を想像してしまうのです。
見知らぬ人間から餌を与えられる。思ってもみなかった僥倖に、思い切り尻尾をふる。それが2度3度と重なると、餌をもらうのが当たり前になって、尻尾を振らなくなる。余裕のある顔で、餌にありつく。
良い譬ではありませんが、私は眉を顰めました。
「吉田さん、職がないんですか」
松本さんが女の人に声をかけました。びっくりしたのは当の本人だけではありません。私もびっくりしました。前方に座っている上田さんも、驚いた顔で松本さんを見ます。
吉田さんは、懐に入れようとしていた袋を、いったん机の上に置きました。上田さんと目が合いました。上田さんは軽く頷きました。吉田さんは意を決したように袋を懐にしまい込みました。
「吉田さん、今、ずいぶん、お金に困っていらっしゃるんです。皆様のご寄附を頂けるのも、神のご意思と存じます」上田さんは皆に言いました。
皆さん、何も言いません。気まずい空気が漂っています。
「上田さん・・・」松本さんは度の強い眼鏡をたくしあげます。気難しい顔が一層気難しくなります。
「もし吉田さんが、今無職なら、仕事を世話するのが、神のみこころではないでしょうか」
吉田さんは小柄ですが、五体満足です。パートなら、捜そうと思えば、ありそうに思えます。
後ろの席から、女の人の声がしました。
「私の知っている段ボールの会社ですけど・・・」
折詰用の箱を組み立てる仕事があるがどうかと言いました。1日8時間の勤務で一ヵ月食っていけるだけの収入はあるというのです。
「私も松本さんの意見に賛成です」別の声がします。
身体障害者のように、仕事をしたくても出来ない人達の為に寄附をしているとはっきり言います。
上田さんは皆さんの気持ちが、自分の意志と違っているのを知って、うろたえました。
上田さんはもう1つ間違いを犯していました。
吉田さんが出席する前までは、聖書の朗読は、出席者の方たちが行っていました。松本さんは別として、聖書の朗読を楽しみにしている方もいたのです。それが吉田さんの独壇場となっていしまい、不満を持つ人もいました。
上田さんは、吉田さんを信者にしょうとするあまり、それが見抜けなかったのです。
吉田さんは、その日以来、出席しなくなりました。
この”事件”がありましたが、雑談は表面上何事もなく話の花が咲きました。
外に出たのは10時でした。
「湯中君、一杯どう?」
思いもかけず、松本さんから声をかけられました。
一杯と言ったところで、酒屋さんは店を閉めています。この時代常滑にはコンビニはまだ開店していませんでした。あるとすれば自動販売機でしょうか。
「私、車の中に一升瓶あるから」
私は松本さんの車に乗せてもらいました。私の住まいは歩いて5分もかかりません。聖書朗読会の場所から南に4百メートル程行った県道沿いに住んでいました。
道路の向かい側に農協の本店があります。その東側にある大脇洋服店の2階を間借りしていました。洋服店といっても仕立て屋ですので、店舗というより作業場と言った方がふさわしい店です。
借りている2階は6帖2間です。聖書関係の本が数冊あるだけの侘しい部屋です。
明日は休日です。松本さんも明日は骨休みだといいながら、座布団の上に、どっかりと胡座を組みます。
コップになみなみと酒をそそいで、”乾杯”と飲み干しました。私は酒は嫌いではありません。時たま、仕事が終わって、風呂に入り、買ってきた酒瓶からコップ一杯ついで、喉を鳴らします。
「いやあ、今日は愉快だったねえ」
松本さんは小柄な体を反り返るようにして云います。私とて同感です。
「あの吉田って女、したたかだよ。人の良い上田さんを丸め込んでさあ」
、松本さんが饒舌なのには驚きました。気難しい表情が消えているのに、さらに驚きました。
・・・この人、どういう人だろう・・・あなたに興味を持ったのはこのときでした。
吉田さんを酒の肴にして喋りました。その上、上田さんはお嬢さん育ちで人を信じやすいとか、とにかく言いたい放題の事ばかりを話し合いました。
松本さんが私を誘ったのは、他でもありません。お互い独身である事、吉田さんに対する嫌悪感を同じように抱いていた事です。要は1人で酒を飲むのが寂しかったからと聴きました。今は懐かしい思い出となりました。
それから事あるごとに、松本さんは私を誘ってくださいました。一杯飲み屋とか、私の部屋で何度となく盃を傾けました。
松本さんは人一倍好奇心が強いのでしょうか、私の過去について、熱心に聞いてくれました。
私は母を捜すために常滑にやってきました。私が5歳の時に母が出奔しました。松本さんとお会いした当時としては25年前の事です。父と3人で撮った写真だけが手がかりです。母が家を出たのが母が28の時です。
母の写真を見せながら、母の行方を尋ねます。大抵の人は、大変ですねえとは言ってくれますが、出奔当時の経緯など、太して関心を持ちません。私も問われない限り答えませんでした。
ここで改めて、当時の松本さんとの思い出に耽りながら、母が家を出た頃の私の家庭について述べたいと思います。
私が生まれた所は神戸市の摩耶山の麓です。はるか南の方に神戸港が見下ろせます。夜になると、夜景が美しく、飽きずに眺めることが出来ます。摩耶山の裏に、六甲山が控えています。
私の家は神戸製鋼の下請けをやっています。下請けとは言うものの、祖母方が神戸製鋼の某重役の娘でした。
仕事は潤沢に供給してくれます。父は毎朝迎えの車で出勤します。父の会社、湯中製鉄所は、神戸市内では中堅どころとして知られていました。
祖父母の代から、私共一家は敬虔なクリスチャンでした。日曜日には必ず教会に行きました。父が母を知ったのは教会に中でした。
母はクリスチャンでしたが、性格的には自由奔放で束縛を嫌うタイプでした。父は大人しく、真面目な性格でした。小学校の頃から頭がよく、俗に言う”優等生”でした。酒もたばこもやりません。友人と一杯やって、気晴らしなど考えた事もないと思います。
母の家は長田地区にありました。こう言う表現は差しさわりがあるかもしれませんが、東京で言う下町です。
母の父は区役所に勤めていました。貧しくはありませんでしたが、取り立てて豊かではありません。
母がクリスチャンになったのは高校生のころと聞いております。学校の友人から一度行ってみないかと誘われて日曜学校に通ったのが、クリスチャンになるきっかけと聞いております。
母は学校では部活動でバスケットをしておりました。均整の取れた肢体に、射るような大きな瞳が魅力的です。喜怒哀楽の情がすぐ顔に出ます。笑う時は腹の底から思い切り笑います。泣く時は、人目も憚らず泣きます。怒る時は、射るような眼を吊り上げて、口をとがらします。
父はそんな母が好きで、人を介して結婚を申し入れたのです。父が陰なら母は陽。父の申し入れに、母は1も2もなく承諾しました。
母の家は貧しくはありませんが、両親は体質的には弱かったと聞いています。母の父はよく欠勤したそうです。
親子3人の生活で、家計のやりくりは大変だったようです。母は両親の苦労をみて育っています。
湯中家は資産家として知られておりました。父から求婚された時、両親の苦労に報いてやれると思ったと聞いております。
以上の話は父や母方の祖父母からも伺っています。父と母が結ばれ、私が生まれました。私が5歳の時に母は家を出ましたので、私は母の面影を知りません。ただ記憶に残っているのは、抱かれた時の胸の暖かさと、白い乳房の匂いだけです。それにもう1つ、私の頬に落ちた母の涙です。
松本さんは、私を白人みたいだといいました。私は母似だとよく言われます。
前にも言いましたように、母は射るような眼と、富士額が美しいと聞いていました。私も母に似て射るような眼をしています。女なら、見方によっては愛嬌があるのかもしれません。
でも男は損ですね。「何を睨んでいる!」とよく叱られたものです。私は性格的には父に似ています。人と争う事はきらいです。随分悩みました。眼と眼とを合わさないようにするとか、どうしても面と向かわねばならぬ時は、顔をゆがめるとか、苦労しました。
お陰で人から柔和な人だと言われるようになりました。
話を元に戻します。母が出奔して、湯中の家は大変でした。母は外出する時祖母(私はおばあちゃんと呼んでいました)に外出先を告げます。外泊する時はなおさらです。
母は午前中に家を出たと聞いています。
おばあちゃんは、行先も言わずにと、怒っていたそうです。夜9時、10時になっても帰ってきません。さすがのおばあちゃんもうろたえました。母の実家に電話を入れたり、母の寄りそうなところに連絡したりしました。
でも一番心配したのは、夜遅く帰ってきた父でした。
3日たち4日が過ぎました。母の消息は依然として不明でした。誘拐されたのでは、そういう声も出ました。警察に通報したのは言うまでもありません。
母の部屋はそのままです。預金通帳から百万円降ろしている事以外、何も変わっていません。この百万円も私の5歳の誕生日のお祝いの為にと、父の了解を得て降ろしたものです。
ですから計画的に家を出たとは、どうしても思えないのです。散歩のつもりで、ふらりと家を出て、誰かにかどわかされたか、最悪の結果を考えるなら、通りがかりの者に殺されたのではと結論したのです。
2年3年とたつうちに、家の中は諦めのムードが漂いました。父は大人しく、律儀な人です。仕事はきちんとこなしていました。朝が早く夜の帰りが遅い父でしたので、父に抱かれた記憶はありません。母がいなくなって、おばあちゃんが私の面倒を見てくれました。それもあるのでしょう。父にかまってもらった思い出すらありません。
私の家は神戸港が見下ろせる高台にあります。白い洋館風の建物です。私が10歳になった時、夜、トイレに行った帰りに、父の書斎から明かりが漏れているのを見ました。私には父は怖い存在でしたので、一度も書斎に入った事はありません。
家政婦さんが掃除をするとき、ドアが開いていて、中を覗き見した事があります。中央に大きな樫の机がありました。壁には、天井まで張り付いているようにして、本がびっしりと並んでいました。
その夜、私が見たのは、机の上にウイスキーの瓶を乗せて、酔いつぶれている父の姿です。机を背にして、手に何かを持っているのです。
私はこんなに酔いつぶれていた父の姿を見たことがありません。怖ろしさも忘れて、ドアを開けて、中に入りました。
私の気配を感じたのでしょう。「誰だ!」くるりとこちらを向くなり誰何しました。私は金縛りにあったように、その場に立ちすくみました。
「何だ、淳か、早く寝ろ」それだけ言うと、またくるりと背を向けてしまいました。
その時、父が手を机の上に上げました。手に持っていたのは母の写真だったのです。母がいなくなって、一番苦しんでいたのは父でした。そういう私も、物心がつくようになって、母のいない寂しさに悲しくなる時がありました。
私が15歳の時に父が亡くなりました。私はおばあちゃんの手で育てられました。幸いにも湯中製鉄所は、父の弟が切り盛りしています。父は亡くなる3年前から、酒浸りの日々が続いていたのです。会社の経営に耐えられるような状態ではありませんでした。
おばあちゃんは、私を大学まで行かせてくれました。父の跡継ぎにしようと必死だったのです。湯中の家に残ったのは、おばあちゃんと私だけだったからです。
でも私はおばあちゃんの期待には沿えませんでした。私が25歳になった時、おばあちゃんが亡くなりました。私は大学を出てから、湯中製鉄所で働いていました。自分の会社ですから、行く末は社長になる身分です。
おじさん(父の弟)は思いやりのある人でした。将来は私を会社の代表者に育て上げようと心を尽くしてくれたのでした。彼には5人の子供がおります。その内の3人が、会社で重要な部門についていました。いわば、将来の湯中製鉄所を支える仕事をしていたのです。
25歳の時、私は意を決しました。
おじさんにすべてを打ち明けたのです。自分は会社を背負っていく器ではない。それに、どうしても母に会いたい。母が死んだとはどうしても思えない。母を捜したい。
私の一途な思いを聞いて、おじさんは以下のような条件を付けて、私の思い通りにしてくれました。
1つ、母探しは私が40歳までとする事。それまで、母を捜せなかったとしても、会社に戻ってくること。社長にならなくても、湯中家の一員として仕事に専念する事。
2つ、仕送りはしないから、行く先で自分で働いて、自分で生活する事。これは、私が世間の波にもまれて、もっと逞しくなってほしいという、おじさんの願いがありました。
3つ、一ヵ月に1度は必ず連絡する事。
以上でした。
私は、家をおじさんに任せて、旅に出ました。所持金は5万円。行く先々でアルバイトをしながら、徒歩か電車を利用しました。
母が生きているなら教会に行くに違いない。そう判断したのは明確な理由があった訳ではありません。母は外出すると、必ず教会に寄ると聞いておりました。いつでも1人、ぽつんと長椅子に腰かけていたとの情報も入っています。
手にしたのは25年も前の親子3人で撮った写真だけです。母は23歳で結婚して、その年に私を産んでいます。私が神戸の家を出た時、母は48歳になっています。果してこの写真から、今の母の姿を想像できるか不安でした。これしかないから仕方あるまい。とにかく行動に移すだけだと意を決したわけです。
別にあてのある旅ではありません。教会のありそうな場所をめぐりました。広島や長崎にも行きました。東京へ行ったり、大阪へ行ったり、気の向くままの旅でした。
こうして私が常滑にやってきたのは、平成7年8月、約5年前の事です。運よく常滑焼の問屋さんの仕事に就く事が出来ました。今の住まいも、問屋さんの社長さんの紹介です。貨物とは言え、車を与えられて、私の行動範囲は拡がりました。
松本さんと知友になりました。
酒を飲みながら時も忘れて語り合う。聖書朗読の会で一緒になりながら、松本さんとはキリスト教についてや、世間話、人のうわさ、松本さんの仕事の話などです。
松本さんは、日頃はぶすっとした顔をしています。でもいったん口を開くと別人のように人が変わります。身振り手振りを交えて、面白おかしく話します。私も引き付けられて身を乗り出します。
松本さんは夏先には聖書朗読の会には出席されなくなりました。私はその年の10月には常滑を後にしました。私が常滑を出るまで松本さんは気持よく付き合ってくれました。
その後半年ばかり名古屋、春日井、犬山を転々としました。信州まで足を伸ばしました。新潟にも行きました。その土地、その土地で暖かい人の情にふれ、友人もできました。でも一番印象に残る友人といえば松本さんでした。
それから2年が過ぎ3年目となりました。
40歳になったら神戸に帰ってくるようにとの、おじさんとの約束を忘れたわけではありません。
あちこちを回り、歳を重ねるに従い、私は焦燥の日々を送るようになりました。自分に判断は間違っていたのではないのか、そう思う様になりました。
教会に行けば母に会える。私の思いが間違っていたのではと深刻に悩むようになりました。もう死んでいるのかも、諦めの気持ちにとらわれる日もありました。たとえ生きていたとしても、教会とは縁のない生活を送っているのかもしれない。そうだとするなら、捜すことは絶望と言わざるを得ません。
私は名古屋に戻り、奈良、京都をめぐって、大阪に行きました。住之江区のコンビニストアの店員になりました。住之江ボートの近くですので、競艇のある日は売り上げが上がります。お金を扱いますので、神戸のおじさんから紹介状を送ってもらいました。
そこで一緒に働いている、工藤さんという青年がいました。背が高く、痩躯です。鼻が長く、小さい眼と唇に特徴がありました。浅黒い顔で、いつも目をキョロキョロさせているのです。歳は25歳。
私も彼もパートです。朝10時から昼の3時まで働きます。1週間もたたぬ内に、1人で自炊するのも大変だろうと、工藤さんは親し気に話しかけてきました。人間は悪い人ではありません。笑うと、えくぼが出来て愛嬌があります。面倒見の良い青年です。
私も彼も、職場の近くにアパートを借りています。
「うちに引っ越ししてこないか」と勧めます。ボロアパートとは言え、家賃は6万円もします。
2人が1つ屋根に住んで、家賃を半々にしたらどうかと言うのです。言われてみればその通りで、彼も私も、朝アパートを出て、夕方遅く帰ってくる。1ヵ月3万円が浮く勘定になります。私は早速彼のアパートの引越ししました。ただお互いの生活には干渉しないという約束です。
私は朝7時に起きます。ボロアパートとは言え、6帖2間に3帖の台所、トイレ、風呂付です。朝食は私の手が空く限り、彼のも作ります。朝食と言っても、電気釜がありますし、みそ汁に、ダイコン漬けか、他の漬物をそろえるだけです。食費は彼持ち、代わりに私が食事を作る訳です。
私は朝8時にアパートを出ます。10時までの2時間、近くの教会に行きます。その地区の牧師さんとも親しくなり、、母の写真を見せて、消息を尋ねたりします。3時から夕方10時まで足を伸ばし、伊丹市や宝塚市まで行きます。
工藤さんは朝9時まで寝ています。朝食が出来上がっています。私が来て助かったと喜んでいます。飯を食いながら新聞を読んだりして、10時近くまで近くの喫茶店で時間を潰すそうです。夜はいつも12時過ぎに帰ってきます。
「こんな夜遅くまで何やっているのか」と尋ねてもにやにや笑うだけで答えません。
彼の事を語るのは本意ではありませんので、深入りはしません。ただ彼と寝ぐらを一緒にした事で、結果的に母と巡り合えました。ですから少しは彼の事を松本さんに知ってもらいたいと思い、書く次第です。
私が大阪にやってきた来たのは平成10年3月頃でした。
判で押したような毎日です。職場がコンビニですから休みがありません。私も工藤さんも身軽な身分ですから、パートの収入だけでも何とか食っていけるのです。
その年の6月、工藤さんが真面目な顔で「俺、池田市に行く」と言い出すのです。びっくりしたのは私です。
「えっ!どうして」訳を聞いても答えません。お互い干渉しない約束ですし、彼は必要な事以外話しません。
1つの部屋に居ながら語り合った事は一度もないのです。無理もありません。私は朝8時に出て夕方10時に帰ってきます。彼は朝9時まで寝ていて、深夜でないと帰ってきません。一緒になるのは仕事場です。
お客の出入りが少なくなった時に、唐突に言ううのです。工藤さんは笑って、私の驚いた顔を見るだけです。
別れる時「落ち着いたら連絡するわ。お母さん探し、頑張ってや」これだけ言うと、風のように去っていきました。
工藤健男、この男ほど不思議な者は居ません。どこで生まれたのか、何故、住之江にやってきたのか、毎晩帰りが遅いのはどうしてなのか、一切不明です。人には言えぬことでもやっているのではないのかしら、例えば泥棒・・・
そんな想像もしたものです。
でもコンビニの中では実に親身に接してくれました。辞める事も前もって店主に報告してあったのでしょう。彼が去った翌日から新しいバイトが入ってきました。そういう私も、秋になったら、また別の所に行こうと考えていました。
8月に入って、工藤さんから連絡が入りました。まさか本当に電話をくれるとは思ってもみませんでしたので、びっくりしました。
「湯中さん、こっちに来ない?」のっけからこんな調子です。思いがけない時に、ズバッと切り込んでくる。性格というのでしょうか、これが工藤さんのやり方です。
・・・池田市か・・・
私は思いあぐねました。悪くないか・・・心が傾きました。彼の住所や携帯電話の番号を聞いて、一旦電話を切りました。
お盆過ぎ、私は池田市に行きました。ここは箕面市と宝塚市とのほぼ中間に位置しています。工藤さんの住まいは神田町の町はずれにありました。東の方約20キロの所に大阪国際空港があります。
彼の住まいに行って驚きました。2階建ての鉄骨のアパートです。それを会社が借り切って寮として使用しているとの事。私がびっくりしたのは、寮に入っているのは女性ばかりです。
それにアパートと言っても、私が住んでいた安アパートではありません。
6帖2間に8帖の和室。6帖の台所に、風呂、洗面室、トイレ付きの私から見れば豪華なアパートでした。しかもその部屋に住まうのは女性1人だけ。上下8部屋あります。7人の女性が住み、1階の1部屋に工藤さんが住んでいました。
彼が私を呼び寄せたのは、アパートを管理する事と、工藤さんを含めた8人の食事を作るためです。
私は工藤さんと同居します。給料は住之江の時より良いし、楽でした。私は1人暮らしが長いので、食事を作る事など、お手のものでした。
このアパートの住人になって感じた事を言います。アパートを借り切っているのは、大阪を中心にして、15店舗のバーを経営している会社です。バーやキャバレーで働く女性は、通いが普通と聞いています。ところがこの店のオーナーは、寮に入ることを条件にして雇用しています。
工藤さんの説明を聞いていますと、オーナーの思惑が見えて面白く感じられます。私は風俗営業の世界にはまるきり音痴です。工藤さんの話の通りに、述べる事にします。
平成元年当時のバブル時の好景気も終わりました。現在この業界も不況の最中にあるそうです。昔は色気のある女性なら、金目当てで、猫も杓子の入ってきたのです。当然お店の質も低下します。景気の良い時はそれでも良かったのでしょう。
お客の方の、気持ちを満足させる店を選別するようになります。店内の改装や雰囲気作りは金さえあればできます。でもホステスは、金だけでは集まらなくなってきます。
無論、ホステスはお金が欲しいから働くわけですが、お店の雰囲気や条件が悪かったりすると、他の店に移ってしまいます。
お客に満足してもらうためには、接客の上手なホステスを雇う事になります。店では接客のマナーを教え込むそうです。ところがせっかく元手を入れて”質の良い”ホステスとして育て上げても、他の店に引き抜きされる恐れがあります。特に通いのホステスはその可能性が大きい。
そこで寮に入るのを条件として雇い入れる。と言う訳です。夕方5時には工藤さんが彼女たちを連れて、お店に行きます。店が終わるのは深夜2時頃とか。
彼女たちが朝起きるのは10時過ぎになります。彼女たちが起きた頃を見計らって、私が朝食を用意します。
夕方4時頃に夕食を食べてもらい”出勤”します。
私は長い自炊生活に慣れています。私と工藤さんの分を入れて9人分の食事を作るのは造作もない事です。それで給料がもらえるなんて嘘みたいな話です。
38歳になって、もう母は生きてはいないのではないか、そんな気持ちが強くなってきました。それでも教会関係をくまなく捜していきました。
湯中という姓、母の旧姓諸直も珍しい姓です。人に尋ねれば、記憶してくれます。知る人がいないという事は、死んでいると考えた方が自然です。
それでも神戸に帰るまで2年あります。厳密には1年半ですが、私は最後の最後まで捜し続けようと決意しました。とは言っても、教会という教会は捜し尽くしました。
仕方なく電話帳で調べますが、湯中と諸直の姓はそうざらにある訳ではありません。調べる方法も、これと言って思いつきません。時間を持て余して、寮に引きこもる日が多くなりました。
朝食を作ってから、彼女達を起しに回ります。
”バーで働く女”という事で、私は世間の常識に囚われておりました。といいますのも、私はバーやキャバレーに入った事はありません。女性経験もありません。
”男をたぶらかすやり手”彼女達をそのように見ていました。工藤さんに言われて寮で寝起きするようになって”別世界の人種”として彼女達と一線を引いた気持ちで接しておりました。速い話、事務的に接していました。
彼女達は私の心の内を知ってか知らずか、”淳ちゃん”と気安く呼びかけてきます。
「淳ちゃんの食事、おいしいわ」
こう言われると、私も冷たい態度で接する事も出来ません。もともと、私はつとめて笑顔で、人なつこく接するように生きてきました。
「おいしい?夕食も頑張っちゃうからね」
私は満面の笑みを浮かべて答えます。
「わあ、淳ちゃん、かわいい!」笑いの渦が起きます。
彼女達1人1人を観察していると、とても”やり手”とは思えません。町の中を闊歩する、普通の女の子です。素直で純情で、すごく礼儀正しいのです。
工藤さんの話ですと、お客に接するマナーはずいぶん厳しいそうです。彼女達はマナーを仕込まれてからホステスとして店で働くのです。
ひと昔前までは、ホステスと言うと、社会的な偏見があったそうです。ホステス自身もその事は充分に承知していました。その為に、ホステスである事を隠していました。社会的な劣等感を持っていたのです。
お金は会社務めに女性の何倍、何十倍と稼ぎます。稼ぎますが、劣等感から抜けきれません。彼女達は大金にまかせて、高価な服やアクセサリーを、どんどんと購入して身に着け、見せびらかします。
劣等感の裏返し、工藤さんの言葉は、若いうちからこの世界を渡り歩いていますので、実感に溢れています。
でも、今は違います。ホステスも社会的に認知された”立派な職業”です。
彼女達は、立派な洋服は持っていません。何百万円もするダイヤの指輪もはめていません。部屋の中には、普通の女の子でも1万円も出せば2着買えるような衣服しか持っていません。給料は銀行振り込みです。
7人の内、年長者の斎藤洋子さんは28歳。30歳になったら、この世界から足を洗うそうです。お金を貯めて、良い男と結婚して、子供を作るのが”夢”だそうです。
一番若い若林弓子さん19歳。ホステスになって1年未満。彼女は店に来るお客の中から御曹司を見つけ出して、結婚するのが目的だそうです。眼を輝かせ語るその顔には屈託がありません。
7人の女性は一様にあっけらかんとしています。ホステスである事を、むしろ自慢しているのです。
彼女達がその店のホステスに選ばれたのは、容姿と美貌です。女なら誰でもなれる訳ではないのです。
でも彼女達は普段は自らの美しさを意識しているとは思えません。テレビを観ている時など、私が入室しても、足を投げ出したり、饅頭をパク突いたりします。まるで子供です。色気など感じられません。
彼女達は工藤さんをパパさんと呼んでいます。彼女達のパパさんにしては似つかわしくありませんが、そんなことにお構いなく「パパさん」と呼ぶのです。
工藤さんの役目は、夕方、バンで彼女達をお店に連れていく事。お店が閉じた後、寮まで送ることです。
それ以外に、彼女達の健康の管理、悩み事や仕事のトラブルの解決も含まれています。25歳で、いつも落ち着かない眼つきで、キョロキョロあたりを見る工藤さんの良い所は世話を焼くのが好きだという事でしょうか。彼女達はそんな工藤さんに全幅の信頼を置いているのです。
それから見ると、私は彼よりも13歳も年上なのに、彼女達に、あまり信用されていません。私はそんな事には意に介していませんし、工藤さんを年配者のように接しておりました。
私が寮の住人になって、2ヵ月、3ヵ月と立ちます。私は大人しくて、工藤さんのように、彼女達と喋る事はありませんでした。
ところがある日、
「淳ちゃんって、お母さんを捜しているんだって?」
朝食の後、26歳の、絹川里子という、7名の中で1番の美貌の女の子が、私の顔を覗き込むようにして言うのです。大きな眼がキラキラして、きれいです。
「えっ?、はい!」私は思わず叫ぶようにいて言いました。里子さんは、皆に里ちゃんの呼ばれています。7名の中で一番活発です。どんな事でも首を突っ込みたがります。
食後のせんべいをバリバリかじりながら、無遠慮な声で言うのです。色気などありません。というより、私や工藤さんを男と見なしていないのでしょうか。
「パパさんが言ってた」里ちゃん男のように言うのです。
「何?淳ちゃん、お母さんを捜しているんだって?」
若林弓子、通称、お弓ちゃんがにじり寄って顔を突き出します。髪の毛が男の子のように短く、色の白い鼻筋の通った、可愛い女の子です。
私は手短に母の事、母の名前や写真を見せたりしました。
「もっと早く言えばいいのに」斎藤洋子、通称洋姉ちゃんが口をとがらします。彼女は細い眼をしていますが、整った顔立ちをしていいます。笑うと引き付けるような愛嬌があります。7人のリーダー格だけあって、落ちついた話し方をします。
「淳ちゃん、神戸の大きな会社の御曹司だってよ」森川澄江こと、22歳のお澄みちゃん、したり顔で、皆の顔を見ながら言います。彼女、長い髪が自慢です。面長で大きな瞳と、ふくよかな頬が魅力的です。
「えっ、本当?」お弓ちゃんが素頓狂な声をたてます。
「パパさんから聞いたから間違いないて」お澄ちゃんが1人合点して言います。彼女はいつも済ました顔で言います。
私はあと2年したら、神戸に帰る事、おじさんとの約束で会社を継ぐ事などを話しました。
「あたし、淳ちゃんにプロポーズしちゃおうかな」
21歳の桑山のぞみこと、のうちゃんが私に抱き付いてきました。
私は真っ赤になりました。あわてて後ずさりしました・
「嫌だあ、淳ちゃん、てれてる」
のうちゃん、ケラケラ笑います。今起きたばかりの、化粧気のない顔をしています。それでも白い肌からは若い女のムンムンした色気が伝わってきます。彼女、看護師出身という異色の存在です。
何でも老人ばかりの病院に勤めていたとか、ホステス稼業に入ったのは、お金もあるけれど、金持ちと結婚したいからだそうです。お弓ちゃんと同じ動機です。
食事の後は、食後のデザートやお茶、お菓子を食べながら、テーブルを囲んで雑談に花が咲くのです。いつもなら工藤さんもいます。今日に限って工藤さんは不在です。どうゆう訳か、私がその場の中心に据えられました。
のうちゃんに抱き付かれ、正座したままドギマギしている私を、14個のギラついた眼が見据えています。
「もしかしてさあ、淳ちゃんまだ女を知らないんじゃない?」
テーブルの向こうにいる江本雪子、通称お雪ちゃん、23歳、にこりともせずに言います。彼女、顔は10人前ですが、高校、大学とテニスをやっていただけあって、抜群のボデイをしています。日頃無口で皆の話を聴くタイプです。喜怒哀楽の情も、あまり顔に出ません。でも口に出す時は本音が出ます。
「えっ!淳ちゃんって、童貞!」
お雪ちゃんの横に座を占める女の子、加藤みどり、歳は26なのですが、どう見ても17,8ぐらいしか見えません。通称みいちゃん、活気のある喋り方をします。丸顔でお餅のような、色白です。美人という程ではありませんが、引き込まれるような愛嬌があります。
「みいちゃん、やめなさい。淳ちゃん、困っているじゃない」
洋姉ちゃんがたしなめます。
松本さん、7人の女性を全部紹介したのも、彼女達全員が、私の母探しに骨身を惜しまず協力してくれたからです。母に巡り合えたのも、彼女達のお陰なのでした。
余分な事ですが、彼女達、美人で人目をひくほどの容姿ですが、女も7人も寄ると、何か異様な雰囲気になります。圧倒的されてしまうというのか、動物的な匂いの中に包まれてしまって、息が詰まる感じなのです。
「淳ちゃん、パパさんより若く見えるわ」
彼女達の批評です。私は歳よりも若く見えます。色白で小柄の事もありましょう。工藤さんは私よりも13歳も歳下なのですが、遊び慣れしているせいか、老けて見えます。褒められて悪い気はしません。
私の所持品と言えば1冊の聖書だけです。日曜日には朝食の支度をしてから、近くの教会に出かけます。それが私の日課です。
彼女達は朝10時半から11時頃に朝食を摂ります。食後雑誌をみたり、お茶を飲んだり、菓子を食べたりして、2時間ばかり過ごします。
私が聖書を読んでいる事は知っています。
ある日、お弓ちゃんが大きな瞳をキラキラさせて、「
「淳ちゃん、聖書、読んで聞かせて」豊かな肢体をくっつける様にして言います。
食後で、所在なさそうに、雑誌を読んだり、テレビに釘付けになっていた他の6名の目が私に向きました。
私は他の6名に同意を求める様に見渡しました。テレビのスイッチが切られ、皆、テーブルに向き直ります。
――しかし、聞いているあなた方に言う、敵を愛し、憎む者に親切にせよ。呪う者を祝福し、辱める者の為に祈れ。あなたの頬を打つ者には、他の頬を向けてやり、あなたの上着を奪い取る者には下着をも拒むな。あなたに求める者には与えてやり、あなたの持ち物を奪う者から取り戻そうとはするな。人々にしてほしいと、あなた方の望む事を、人々にもそのようにせよ。自分を愛してくれる者を愛したからとて、どれ程の手柄になろうか・・・――ルカによる福音書
私の朗読はそれ程うまくはありませんが、自分なりに抑揚をつけて喋りました。
室内は森としています。6帖2間の和室にまたがったテーブルに、頬杖を突いたまま、7人は身動きもしません。
・・・彼女達、今まで聖書を読んだ事はないのかしら・・・
頬杖はついてはいるものの、眠っている訳ではありません。眼を見開いて、私の声に聞き入っているのです。
みいちゃんは、眼をうるませています。
聖書は頭で理解するものではないと考えています。心で聴くものと心得ています。
彼女達の真摯な表情からも、心を打つ響きがある事が判ります。
こんなことがあって、私は度々彼女達に聖書を読んで聞かせる様になりました。彼女達が身を粉にして、私の母探しに協力してくれるようになったのも、こういった背景があったからと思っております。
平成も11年になったばかりのある日の事です。
洋姉ちゃんが「淳ちゃん」と真剣な顔つきで言います。
私と彼女達が気軽に話し合えるのは朝食後だけです。夕食の4時まで、自由行動ですので、彼女達はめいめいに外出してしまうからです。
洋姉ちゃんがこの業界に入って10年になるそうです。
この世界で10年も生き抜く事は、並大抵の事ではないと、工藤さんから聴かされています。
それだけに、洋姉ちゃんはこの業界では顔が広いのです。
洋姉ちゃんは言います。5年前に一緒に働いていた女の子がいた。彼女、聖書に興味があって、仕事のない時はいつも聖書を読んでいた。ホステスが聖書を読んではいけない事はないけど、聖書を読むホステスは珍しいので覚えていた。
彼女、仕事のない日は、聖書朗読の会に出席していた。聖書を読むことで心の支えとしていた。
ホステスになる前は、某大会社の事務員だったけど、お母さんが病気で入院した。お金が欲しくてこの世界に入った。今年35歳になる。美人で売れっ子だから、引き抜かれて、今は京都の下京区にいる。
お母さん捜しの糸口が見つかるかもしれない。引き合わせるがどうか、という話でした。
藁でもつかみたい気持ちは今も変わりありません。洋姉ちゃんにお願いしました。
彼女の働くクラブは、京都でも指折りの高級クラブで、気軽に行ける所ではありません。それに私はそういう場所には興味はありません。お店の休みの日に、彼女の家に行く事にしました。彼女の名前は高月八重子。
高月八重子の住まいは清水寺から東へ1キロ程行ったところにありました。花山という地名です。昔で言うなら、京の入り口に当たる場所とでも言いましょうか。高台に聳え立つマンションの最上階です。ここからは清水寺は勿論の事、京都御所、円山公園、西本願寺などが遠望できます。
私共の住む”寮”とは月とスッポンです。
「すばらしい所ね」洋姉ちゃんは感嘆の声を漏らします。
それ程景色の良い場所です。
マンションの入り口には管理人がおります。用件を言って、高月八重子に連絡を取って、それから中に入れるのです。
「すごい所に住んでいるんですねぇ」
私も気後れして、高月八重子という女性は太変な貴人のように思えてくるのです。
マンションは10階建てです。エレベーターで最上階に上がります。彼女の部屋のチャイムを押します。1階の管理人室で連絡してありますので、すぐにもドアが開きます。
「洋ちゃん、久しぶり」ドアの奥から顔を出した、髪の長い女性が微笑します。
「八重ちゃん、お邪魔するわよ。こちら湯中淳さん」
洋姉ちゃんの紹介もそこそこに「さあ、入って」高月八重子は中に招き入れます。
応接室に通されて「わあ、すごい」洋姉ちゃんが感嘆の声をあげます。ダイニングルームと言うのでしょうか。奥にあるカウンター式の台所と応接室を1つにした作りです。20帖ぐらいの広さはありましょうか。壁のクロスといい、天井のシャンデリアといい、素人目で見ても、豪華な物である事はすぐに判ります。
「洋ちゃん、ここ初めてね?」
高月さんは応接室のロココ調のテーブルの前に腰を降ろした洋姉ちゃんに話しかけます。
私は驚きの目で調度品を見詰めます。真っ白な華奢な造りです。南の窓には大きな窓ガラスがあります。ベランダも広々としています。南の方に、伏見稲荷大社の赤い社屋が眺望出来ます。起伏にとんだ青々として山肌も見えます。ところどころに萌えるような紅葉も目立っています。
秋も深くなっています。いつまで見ていても見飽きない光景です。
「八重ちゃん、電話で話した件、お願いできる?」
洋姉ちゃんは細い眼を見開いて口を切ります。高月さんは、コーヒーを入れてテーブルに置きます。
「お母さんを捜していらっしゃるんですって・・・」
高月さんは腰を降ろすと、洋姉ちゃんの側に座る私を見つめます。瞳が大きく、うるんだような輝きがあります。朱に染まった唇が鮮やかです。鼻筋が通り、きれいな瓜実顔です。
私は軽く頷いて、今日までの顛末を手短に話しました。
「力になれるかどうか・・・」八重子さんは心もとない返事をします。予期していた事なので驚きはしません。
私としては藁でも掴む気持ちですが、洋姉ちゃんから見れば、私は久し振りに友人に会うための、ダシのようなものでした。
「ガッカリしないでね。当たるだけ当たってみるから」
高月さんは私を失望させまいと、優しく言います。
「八重ちゃん、、この部屋、どのくらいの広さがあるの?」
洋姉ちゃんは、私の話が済んだとみると、話題を変えました。ダイニングルームの他に、6部屋あるそうです。
私も洋姉ちゃんも溜息をつきました。
「ねえ、外に出ない、お昼、おごるからさ」
高月さんが腰を浮かします。彼女はレース編みのセーターを着ています。花柄を編み込んだチュニックセーターです。地味な感じですが、上品な風格が漂っています。洋姉ちゃんは長袖のジャケットを着ています。萌黄の生地が若々しく見せています。私は服装にはほとんど縁のない人間です。グレーの背広に、カラーシャツ、ノーネクタイ姿です。
私達は醍醐寺の近くのレストランで昼食をごちそうになりました。帰り際、高月さんから聖書朗読会へ出席しないかと誘われました。私は1も2もなく応諾しました。
高月さんは明朗で、はきはきした人です。色白で、うるんだような眼がきらりと光る時があります。柔和な表情ですので、きつい感じはしません。
でも彼女に心の奥底までは判りません。帰りの車中、洋姉ちゃんはハンドルを握りながら、彼女、父親の顔を知らないのだといいました。お母さんも病気で病気で入院中とのこと。
でも洋姉ちゃんでも判らない事があるそうです。高月さんは、男好きのする美貌の持ち主です。彼女が働くクラブは、京都でも5本の指に入る高級クラブです。お客は関西の財界人や、著名な芸能人で占められています。
結婚話も持ち上がっていい筈なのに、見向きもしないというのです。
「男が嫌いなの?」と問うと、笑って「嫌いならこういう所で働かないわ」と答えます。
彼女のハートを射止めるのは誰かしらと、寄ると触るとその話で持ち切りだそうです。
「どう、淳ちゃん、アタックしてみては・・・」
洋姉ちゃんは、ニヤリと笑って、私を挑発します。私は真っ赤になって「そんな事、出来っこないです」かぶりを振ります。
「でも、神戸では御曹司なんでしょう」洋姉ちゃんはからかう様に言います。
私はかぶりを振りながらも、心の奥底では、高月さんと一緒になれたらと、密かに思いを寄せていました。
聖書朗読会は1週間に一度、夕方7時から9時まで、その日は高月さんは仕事を休みます。
場所は名神高速の大枝インターチェンジの近くで、塚原という所です。松尾大社や西芳寺、通称苔寺として有名なお寺の近くです。
池田市から、高速道路を走っても2時間はかかります。
私は夕方4時頃に食事を用意して5時には寮を出ます。
そこは小さな教会です。京の風情に教会は似つかわしくないかもしれません。塚原の小さな町の中に、埋もれる様にして建っています。大正時代からの建物とかで、20名も入れば満員です。映画に出てくる教会そのものです。
入り口の観音開きのドアを開けます。まず目につくのは正面のステンドグラス、十字架上のキリストの像があります。一段高い所に祭壇があり、その脇にオルガンがあります。年代物のようですが、きれいに手入れされています。真中には通路がありますが、左右の長机には4人しか座れません。それが5段あるだけの、小さな教会です。教会に横手には、20坪程の平屋があります。牧師さんの住まいです。
牧師さんと言えば普通独身ですが、ここは妻帯者です。奥さんがオルガンを引いています。子供さんはいません。お2人とも、50歳くらいとお見受けしました。
牧師さんは大人しく、品の良い人です。奥さんは影の薄いような人です。オルガンを弾く時だけ、その存在が判るような人です。
朗読会の出席者は私を含めて12名。高月さんが皆さんに私を紹介します。母を捜している事を付け加える事を忘れません。
私は朗読会で、常滑を思い出しました。松本さんの顔や上田さん、皆さんの事を懐かしく思い出しました。
ここでは、聖書の朗読は牧師さんが行います。内容は常滑の朗読会と変わり映えしません。牧師さんは朗読した箇所を注釈します。1つ大きな違いと言えば、ここでは旧約聖書の朗読が主なのです。
牧師さんの注釈について、誰も質問しません。質問は禁句なのでしょうか。2時間黙って耳を傾けるだけです。9時に終了して、10時まで雑談の花が咲きます。常滑の朗読会とほぼ同じです。常滑の場合、個人的な悩み事を打ち明けたりして、横のつながりを重視していました。
ここでは牧師さんの1人舞台です。皆、牧師さんの一言一句を聞き漏らすまいと、真剣な眼差しで聞き入っているのです。
3回目の時、私は思い切って、質問しました。
「キリスト教の神は唯一絶対の神ですね?」
「そうです。私の他に神としてはならない、と述べておりますね」牧師さんは柔和な声で言われます。
「それでは1つお尋ねします」
私は旧約聖書、創世記第1章14を声を出して読みます。
――神はまた言われた、」地は生き物を種類にしたがっていだせ。家畜と、這うものと、地の獣とを種類にしたがっていだせ」そのようになった。
神は地の獣を種類にしたがい、家畜を種類にしたがい、また地に這うすべての物を種類にしたがって造られた。
神は見て、良しとされた。
神はまた言われた。われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り,――
「神は唯一絶対ならば、なぜわれわれという言葉が出てくるのでしょうか」
われわれとは2人称です。複数の人数を呼び時に使用します。
牧師さんの表情が険しくなりました。
「私には判りません」牧師さんとしては正直な答えでしょう。
私と高月さんと他の10名の信者さんも黙っています。黙って私の質問を無視しようとする意図がありありと見えます。
帰り際、高月さんは牧師さんに呼ばれました。
教会を出た後、私達は教会から少し行った所にあるレストランに入りました。深夜2時まで営業しています。
席につくなり、高月さんは「牧師さんに注意されたわ」
朱に染まった形の良い口を開けて笑うのです。長い髪をさっとさっと撫で付けます。
「今後、あのような馬鹿げた質問はしないように、私から注意して欲しいそうよ」
私はどういってよいのか判りません。困った顔で,高月さんのうるんだ眼を見ていました。
「馬鹿みたい・・・」
高月さんは食事を口に運びながら、独り言のように呟きました。
聖書朗読会は、朗読会とは言うものの、その本質は、教会による聖書解釈の会なのです。ですから牧師さんのお説教じみた講釈を一方的に傾聴するだけです。
高月さんはクリスチャンではありませ。プロとしての牧師さんが聖書をどのようにみているのか、興味があり、この会に出席していたそうです。
12月に入りました。ホステス稼業も忙しくなります。聖書朗読会は、クリスマスや暮れ、正月が重なるため、1月の中旬まで中止となります。
2月になって、高月さんが私に提案しました。
高月さんのマンションで、1週間に1度、私と2人きりで、聖書を読む会を設けたいがどうかと言うものです。私に異論があろうはずはありません。問題なのは7名の女性達と工藤さんの食事の事です。
私は正直に洋姉ちゃんに相談しました。池田市を9時に出るとして、朝食の支度は何とかなります。帰りは2時間かかりますから、4時の夕食には間に合いません。そこで私は提案しました。夕食の支度をしておきます。刺身などの生ものは冷蔵庫に入れておけば充分です。火を通すおかずは鍋に入れておきます。後は自分勝手に、火を通してたべてもらいます。
洋姉ちゃんは、私と高月さんが気が合う事を知っていました。
「頑張ってね、淳ちゃん、、八重ちゃん、いい人よ」
私の背中を押す様にして送り出してくれました。
平成12年2月、私と高月さんは塚原の教会へは出席しなくなりました。その代り、私と高月さんの2人だけの朗読会が始まりました。
高月さんが朗読します。私がそれを解釈します。
私が講釈するのはおこがましいのですが、「あなたの意見を聞きたい」と言って、高月さんは譲りません。いったん言い出したら、一歩も引かない芯の強さがあります。
――天国は、ある家の主人が、自分のぶどう園に労働者を雇うために、夜が明けると同時に、出かけていくようなものである。彼は労働者達と1日1デナリの約束をして、彼らをぶどう園に送った。それから9時ごろ出ていって、他の人々が市場で何もせずに立っているのを見た。そしてその人たちに言った。「あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。相当な賃金を払うから」。そこで、彼らは出かけていった。主人はまた、12時ごろと3時ごろに出て行って、同じようにした。5時ごろまた出ていくと、まだ立っている人々を見たので、彼等に言った、「なぜ、何もしないで、1日中ここに立っていたのか」。彼らが「だれもわたしたちを雇ってくれませんから」と答えたので、その人々に言った。「あなた方も、ぶどう園に行きなさい」
さて、夕方になって、ぶどう園の主人は管理人に言った。
「労働者たちを呼びなさい。そして最後に来た人々からはじめて順々に、最初に来た人々にわたるように、賃金を払ってやりなさい」そこで、5時ごろに雇われた人々がきて、それぞれ1デナリずつもらった。ところが最初の人がきて、もっと多くもらえるだろうと思っていたのに、彼らも1デナリずつもらっただけであった。もらったとき、家の主人にむかって不平をもらして、言った。「最後の者たちは1時間しか働かなかったのに、あなたは1日じゅう、労苦と暑さを辛抱したわたしたちと同じ扱いをなさいました。」
そこで彼はそのひとりに答えて言った、「友よ、わたしはあなたに対して不正をしてはいない。あなたはわたしと1デナリの約束をしたではないか、自分の賃金をもらって行きなさい。わたしは、この最後の者にもあなた同様に払ってやりたいのだ。自分の物を自分がしたいようにするのは、当たり前ではないか、それともわたしが気前よくしているので、ねたましく思うのか」
このように、あとの者は先になり、先の者はあろになるであろう。――
マタイによる福音書
高月さんは、朱に染まった美しい唇を開きます。きびきびした声が響きます。
このイエスの説教は、経済感覚からみると、納得できるものではありません。キリストの真意は当然の事ながら経済感覚を述べたものではありません。その真意はいかに、というのが高月さんはの質問です。
・・・教会ではどのように説明しているのだろう・・・
私は長年、聖書に親しんでいるといっても素人です。でも私は臆することなく述べました。
冒頭、イエスは、天国とは・・・のようなものである。と述べています。当然経済観念ではなく、天国とは何かについてのたとえ話であると、私はことわってから以下のように言いました。
ルカ伝に以下のような話が載っています。
――神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見られるかたちで来るものではない。また「見よ、ここにある」「あそこにある」などとも言えない。神の国は、実はあなたがたのただ中にあるのだ」。――
――自分を義人だと自認して、他人を見下げている人に対して、イエスはまたこの譬をお話になった。
「2人の人が祈るために宮に上がった。その1人はパリサイ人であり、もう1人は取税人であった。パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、「神よ、わたしはほかの人たちののような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者でなく、また、この」取税人のような人間でない事を感謝します。わたしは1週に1度断食しており、全収入の10分の1をささげています」。
ところが,取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った。「神様、罪人のわたしをおゆるしください」と。
あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。――
私が朗読を終わると、高月さんは微笑しました。うるんだ瞳がきらりと光りました。賢そうな表情が何とも言えない程、輝いて見えます。
私が言わんとする事を見抜いているようでした。それでも、私は天国の解釈をしました。
夜が明けると同時に働く労働者とは、体力もあり、誰もが雇いたくなる人達の事です。彼らはどこへ行っても雇ってもらえると信じている。
1デナリとはいくらの価値があるのかは不明ですが、明け方から、夕方6時まで、労苦と暑さの代償としては相当の代価だと思われます。
朝9時に雇い入れた人達は、明け方に雇った労働者達よりも、程度がおちた人です。つまり、9時になって、ようやく雇ってもらえた人達ですから、彼らは、明け方から働いている労働者とくらべて、能力でも体力でもおちることは判っていたのです。
だから、仕事がもらえた嬉しさは、明け方から働いている人達よりも大きい筈です。
12時頃に雇った人達はもっと程度がおちます。自分達を雇ってくれる人はいない事を、充分に判っているのです。働ける場所さえあれば、賃金は少なくても仕方がないと考えている人々です。それでも1デナリくれるというのですから、彼らの喜びは、明け方と9時頃に働いている人々よりも大きいのです。
さて、5時頃に雇い入れた人々は「誰もやとってはくれないから」と本人が自嘲をこめて言っているように、労働者としては、誰も見向きもしない人々、老人か不具者のような人々を想像します。
この人達は、今日生きる糧さえ手に入れる事が出来ません。お腹もすいているでしょう。ひょっとしたら、何日も食べ物を口に入れる事も出来なくて、今日死ぬかもしれません。
5時頃に雇い入れた人々とは、そんな明日のない労働者達だったのです。彼らはほとんど働いていません。それでも雇い主は彼らに1デナリを差し出したのです。彼らの喜びが目に見えるようです。雇い主の手を取り、涙を流して、伏し拝んで、1デナリを懐にしたに違いありません。
明け方から働いている人々は、当然貰える賃金と思っている労働者です。彼らは自分を義人だと自認して、他人を見下しているパリサイ人と同じなのです。
一方、5時ごろに雇入れた労働者は、社会に見捨てられた人々。
「神様、罪人の私をお許しください」胸を打ちながら涙を流す取税人と同じです。
ここでイエスの言わんとする事は、若いうちから神の教えを守り、義人と信じていて心の奢りがある人よりも、若い頃、さんざん悪いことをしても、悔い改めて、真摯に神の道を歩む人の方が先に天国に入ると言っている。
ですから、先の者は後になり、後の者は先に天国に入るだろうといっているのです。
またこんな質問がありました。
マルコによる福音書からです。
――パリサイ人たちが出てきて、イエスを試そうとして議論をしかけ、天からのしるしをもとめた。イエスは心の中で深く嘆息して言われた。「なぜ、今の時代はしるしを求めるのだろう。よく言い聞かせておくが、しるしは今の時代には決して与えられない」。そしてイエスは彼らをあとに残し、また舟に乗って向こう岸に行かれた。
弟子たちはパンを持ってくるのを忘れていたので、舟の中にはパン1つしか持ち合わせがなかった。そのとき、イエスは彼らを戒めて、「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とを、よくよく警戒せよ」と言われた。
弟子たちは、これは自分たちがパンを持っていないためであろうと、互いに論じ合った。イエスはそれを知って彼らに言われた。「なぜパンがないからだと論じ合っているのか。まだわからないのか、悟らないからのか。あなたがたの心は鈍くなっているのか。目があっても見えないのか、耳があっても聞こえないのか。まだ思い出さないのか。
5つのパンをさいて5千人に分けた時、拾い集めたパンくずは、幾つのかごになったか」弟子たちは答えた。
「12かごです」。「7つのパンを4千人に分け与えた時には、パンくずを幾つのかごに拾い集めたか」。「7かごです」と答えた。そこでイエスは彼らに言われた。
「まだ悟らないのか」。――
天からのしるし。
イエスの時代に限らず、いつの時代にも、入信者の多くは、天からのしるし=奇跡を求めようとする。イエスは数々の奇跡を行った。多くの人々はイエスをメシアとして信じた。だがイエスが十字架にかけられた時、多くの信者は逃げ去った。12使徒でさえそうであった。
奇跡を見て信じる者は、この世の権力者さえ打ち負かす力があると信じてついてくる人々である。
だから、イエスがこの世の権力に、いとも簡単に負かされるのを見て、離れていくのである。彼らの求めるメシアはこの世の政治的権力者である。
マタイ伝には以下のような記録がある。
――偽善な律法学者、パリサイ人よ、あなた方は災いである。あなた方はひとりの改宗者をつくるために、海と陸を巡り歩く。そして、つくったなら、彼を自分より倍もひどい地獄の子にする――
――偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなた方は、わざっわいでである。はっか、いのんど、クミンなどの薬味のの10分の1を宮に納めておりながら、律法の中でもっとも重要な、公平とあわれみと忠実とを見逃している――
――偽善な律法学者、パリサイ人たちよ、あなたがたは、わざわいである。あなたがたは白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えるが、内側は死人の骨や、あらゆる不潔なものでいっぱいである。――
――偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは預言者の墓を建て、義人の碑を飾り立てて、こう言っている。「もしわたしたちが先祖の時代に生きていたなら、預言者の血を流すことに加わってはいなかっただろう」と。このようにして、あなたがたは預言者を殺した子孫であることを、自分で証明している。――
次にパリサイ人のパン種とヘロデのパン種について
ヘロデは当時のイスラエルの民を支配していた政治権力者である。
イエスが注意したのは、邪しまなパリサイ人や、陰謀うずまく政治の世界に目をむけるなという事である。
パン種についてルカ伝に以下のような記録がある。
――神の国は何に似ているか、またそれを何にたとえようか。1粒のからし種のようなものである。ある人がそれを取って庭にまくと、育って木となり、空の鳥もその枝に宿るようになる。また言われた。神の国を何にたとえようか。パン種のようなものである。女がそれをとって三斗の粉の中に混ぜると、全体がふくらんでくる――
パリサイ人とヘロデのパン種とは、思想、考え方といってもよいと思う。
はじめの内、ささやかな関心ごとであったのが、知らず知らずのうちに、そこから抜け出すことが出来なくなるほどになる。自分の全存在が、その思想の中にどっぷりと浸かるようになる。気が付いた時は、金や権力の亡者になっている。
5つのパンをさいて5千人に分け与えた話は聖書に出てくる。実際にあった話だと断定した。
私は以上の事を、高月さんに話して聞かせました。私の言っている事が正しいのかどうかは判りません。私は自分の信じる通りに話したにすぎません。
もっとも、これらの話の半分以上は、松本さんからの受け売りです。
創世記の、神は言われた。われわれ・・・は松本さんから指摘を受けたところです。
私も長年、聖書に親しんでおりますが、これには気が付きませんでした。唯一絶対神という概念が頭の中にこびりついているせいでしょうか。松本さんに言われるまで、判りませんでした。
それからもう1つ。アダムとイヴがエデンの園の中央にある善悪を知る木の実を食べる話があります。この話は有名で、大抵の人は知っています。
しかしと、松本さんは言われました。善悪を知る木の側に、命の木があるのを忘れている。善悪を知る木よりもこの木の方がはるかに重要だといわれました。
この木こそ、ヘブライの神秘思想のカバラの生命の樹だと。つまり命の木を学べば、人は神になると言われた時、私は驚愕しました。
私は高月さんに同じことを言いました。高月さんの驚きは私が予想していた通りでした。キリスト教は、人は絶対に神になれないと説いているからです。
高月さんとの朗読会は、1週間に1度が2度になり、3度になりました。付き合っている内に、高月さん程の美貌と知性を持ちながら、何故結婚しないのか、判るようになりました。
高月さんがその気になりさえすれば、有名人や金持ちと結婚できるでしょう。
今年35歳と言いますが、どうみても25か6ぐらいにしか見えません。スタイルも男の心を魅了するには充分です。彼女がお金に興味がないという事は有り得ません。この若さで充分すぎる程のお金を稼いでいます。
・・・心に響くような愛がほしい・・・
彼女の独白です。聖書の朗読会や、時には教会の説教に耳を傾けるのも、心の触れ合える異性とめぐりあえるかも、そんな淡い思いが心に交錯しているからなのです。
私は高月さんから好意を持たれました。私も彼女が好きでした。私達が結ばれる日も、それ程遠くはありませんでした。平成12年春、私達は婚約しました。
私が幸福の最中にいた時、母の事を知っている人がいるとの吉報が入りました。良い事が起こる時は次から次へと起こるものだと、その時信じました。
私が高月八重子さんと婚約したことは、寮の皆は知っております。心から私を祝福してくれました。
その情報を持ってきてくれたのは、桑山のぞみこと、のうちゃんです。彼女、ホステスをする前は、看護師さんでした。中学校の旧友数人が看護師さんになっています。彼女、旧友や知り合いの看護師さんを通じて、通院や入院の患者に、湯中、旧姓師直静花という人はいないか尋ねて回ってくれました。
のうちゃんは、私がいると、べったりと私の側に座ります。もち肌の身体をすりよせてきます。一見、好色そうに見えますが、芯は寂しい人なんだなと感じました。
私が婚約した時、口をへの字型に曲げて、私を睨んだのも彼女です。それも当座の事で、私の母探しに、一番奔走してくれたのも彼女でした。
病院関係を捜すと聞いた時、私はまさかと期待しておりませんでした。母は生きていれば今年63歳です。寝込む歳ではありませんし、父と一緒になる前は運動選手でしたから、体力的には人並み以上でした。
平成12年4月頃でしょうか、その日は寮で朝食の支度をしていました。
「淳ちゃん、ちょっと!」といって、のうちゃん、私に抱き付くようにして、自分の部屋に連れていきました。のうちゃんの態度になれていましたので、私はされるがままに、彼女の部屋に入りました。
コードレスの受話器が、テーブルの上に置いたままです。彼女、私を座らせたまま、受話器に口付けするように、話しかけるのです。
「幸子、その話、間違いないね。うん、判った。久仁子によろしくね」喋り終えるなり受話器の”切”のスイッチを押します。
「淳ちゃん、お母さんかどうか判んないけど、湯中という女の人を知っている人がいるんだって・・・」早口にまくしたてます。
「今日の昼、いいわね。その人のいる病院に行くから」
あまりにも急な事なので、私は喜びよりも、戸惑いを感じました。
「なんだ、淳ちゃん、。嬉しくないの?」のうちゃんは口をとがらします。
「いえ、嬉しいですよ。ただ突然だったもんで・・・」
言いながら、私はふと日頃疑問に思っている事を口に出しました。
寮の女性達は”ちゃん”で呼びあっています。ところが、今ののうちゃんの電話のように呼び捨てにしています。
「これはどうして?」私が聞き返します。
「えっ!何?どうしてって、そんなの、判っているんじゃないの」のうちゃんは大きな眼をパチパチさせます。
私は判らないから聞いているのです。
「やだぁ、もう・・・」のうちゃん、言いながら、洋姉ちゃんの部屋に私を連れていきました。
「淳ちゃんがね、変な事を聞くのよ」のうちゃんは洋姉ちゃんに説明します。
洋姉ちゃんは、ふかしていたタバコを灰皿にねじ伏せます。細い眼で、私を見つめてから以下のように説明しました。
男にしろ、女にしろ相手を呼び捨てにするという事は、心から話し合える友人だから。幼友達とか、旧友とか、親しい間柄の場合、相手を呼び捨てにします。たとえ相手が出世して、自分よりも偉い人になっても、親しい間柄に変わりはありません。その人と久し振りに合っても、「おい、お前偉くなったなぁ」呼び捨てで抱き合います。
「でもね、私達の場合はそうではないの」
洋姉ちゃんは、口元に寂しい笑いを漏らします。
自分たちの場合、2,3年から4,5年前までは見知らぬ同志。仕事が縁で付き合っているだけ。いつ別れて、見知らぬ同士になるか判らない。自分はたまたま、この寮の先輩だから姉ちゃんと言われているだけ。
だからと言って、お互い関りを持たないわけでもない。お互いの立場を尊重し合っている。
――何々さん――と呼ぶには他人行儀過ぎる。呼び捨てにしては失礼。
――何々ちゃん――なら、他人行儀ではないし、親しみが籠もる。
「という訳なの・・・」洋姉ちゃんは子供でもあやすように説明してくれました。
「どう判った」のうちゃんは、白い顔を私にくっつけるようにして得意げに言います。
私は頷きました。高月八重子、彼女と最初の付き合いの頃は高月さんでした。親しくなったころは八重ちゃんで、婚約した今、八重子と呼び捨てにしています。
その日の正午、私はのうちゃんと一緒に亀岡市街地に出かけました。
「淳ちゃんとドライブしてくるからね」のうちゃんは陽気です。私も嬉しくない筈はありません。車の窓から手を振りながら寮を後にしました。池田市から国道403号線北に走ります。約2時間で到着します。
目的の病院は亀岡中央病院という、3階建ての病院です。
玄関ロビーを入ると、受付があります。1階は外来患者の待合所となっています。完成して間もないのか、病院とは思えないほどの、きれいな建物です。
「ホテルの待合室みたい」のうちゃんが呟きました。
病院と言えば、普通白一色を想像します。この病院は、壁のクロスが花柄模様です。外来患者の受付や新患の窓口も、カウンター超しです。広々として、受付の女性も親切です。
のうちゃん、受付の女性に用件を述べます。5分と立たぬうちに、1人の看護師さんがエレベーターから降りてきました。のうちゃんと眼が合いました。
「のぞみ!」看護師さんは、顔中をくしゃくしゃにして、のうちゃんの手を取ります。
「幸子!」のうちゃんも負けてはいません。握りしめた手を振るようにして、久しぶりの再会を喜んでいます。
それも束の間、のうちゃんは後ろに突っ立つ私を紹介します。
看護師さんは渡辺幸子さんと言います。でっぷりと肥えた、肩幅の広い、貫禄のある女性です。目が大きくて、唇の薄い、どことなく厳しい雰囲気を漂わせています。
根は優しい人と見えて、湯中という女性を知っているという患者さんの事を詳しく話してくれました。
高村静代、63歳。この病院は5年前に開業した個人病院です。高村さんは開業当時からの患者さんです。
普通、保険は3か月を過ぎると、点数が厳しくなります。ですから、3か月を過ぎた患者さんを、他の病院に移ってもらうよう、家族の方々そ説得する事になります。
「高村さんの場合は、初めから保険はないの」
渡辺さんは、周囲を見回して、ひそひそ声で言うのです。憚りのあるような言い方です。でもこれは彼女のクセと、後で判りました。
――高村――と聞いて、私は高月八重子を思い出します。
彼女のお母さんも入院していると聞いています。どこに入院しているの?どういう病気なの?と尋ねても答えません。結婚してから紹介するわというだけです。人に言えぬような病気かしらと思ってしまいますが、それ以上追求はしません。
私達が病院に到着したのは、昼の1時です。1時から2時までが看護師さんの昼休みの時間だそうです。
渡辺幸子は3階の外科に勤務しています。病院中の看護師さんに当たったところ、湯中の姓の女性を知る患者さんがいたと言う訳です。
3階に行き、看護師さんの詰め所に顔を出します。高村静代さんの病室まで案内してもらいます。部屋は個室です。15帖の広さはありましょうか。トイレと風呂がついています。ソファやテーブルもあります。花柄模様の壁紙は病院らしくありません。
この病室の当番の看護師さんが優しく声をかけます。
「高村さん、起きてる?お客様よ」
私と渡辺さん、のうちゃん、当番の看護師さんがベッドの横に陣取ります。
高村さんは点滴と酸素吸入をしています。髪は3分ばかり白いものが混じっています。顔艶が悪いようです。切れ長の眼に、筋の通った形の良い鼻、下唇の厚い受け口、肌色は日焼けしたような、青みがかった色をしています。
高村さん、名前を呼ばれて、閉じていた瞼を開けます。
「ほら、こちらの方が湯中さん、この方のお母さんについて、何か知っている?」
当番の看護師さんが大きな声で言います。
「少し起こして・・・」高村さんはしわがれた声で言います。ベッドが少し持ち上げられます。
「湯中・・・」私の顔をじっと見ます。
「お願い皆さん、外に出て、あなただけここに・・・」
高村さんは掛け布団の中から手を出します。手には包帯が巻かれています。痛々しそうな表情で、私の方へ手を差し伸べるのでした。
3人の女性たちが外に出ます。
高村さんの眼から、大粒の涙がぽろぽろこぼれます。
私は、はっとしました。・・・もしや・・・そう思った時、
「淳・・・」高村さんの口から私の名前が漏れました。
「お母さん?」私は呼びかけました。
「立派になったねえ」私は思わず包帯を巻いた手を握りしめました。力が入って、痛かったのか、母は顔をしかめました。でも顔をくしゃくしゃにして、もう一方の手で、私の顔を撫ぜます。その手も包帯が巻かれていました。
面長で、切れ目の眼は35年前の母の面影を髣髴とさせました。
私は母の手を握りしめたまま、しばらく何も言えませんでした。積もる話があるのに、言葉が出てこないのです。
「淳、ごめんね、母さんを許してね」
母の口から出る言葉は私への詫びばかりです。
私は母の突然の失踪について聞きたいと思いましたが、まずは、手短に、父の死や、家の事、会社の事、母を捜すために、全国の教会を尋ね歩いた事などを話しました。母は瞬きもせず、聞き入ってくれました。
この病院を2時に出て、3時までに寮に帰らねばなりません。約束の時間もすぐに来てしまいます。
私は母に、明日夕方来ると約束して、病室を出ようとしました。母はすがるような表情で「私がここにいる事、誰にも言わないで、おじさんにも、親戚の人にも・・・」
母の両親はすでにこの世の人でない事を、母は知っていました。両親の死に目に会えなかった母の心情はいかばかりだった事か・・・。
私も25歳で家を出て、40歳の今日まで、母を捜しながら、さんざん苦労をしてきました。その人の気持ちを察する事が出来る様になっています。
母の必死な願いに、私は大きく頷きました。高月八重子にも、寮の女性達や工藤さんにも内緒にしようと決意しました。ただ毎日見舞いに来れば、私の事はのうちゃん達に筒抜けになるでしょう。
私は高村さんは母の友人だと答える事にしました。本人の希望で毎日見舞いに来ること、その見返りに、母の事をきかせてもらうのだと言うつもりでした。
母の症状に関心がありましたが、のうちゃんは、私の腕をとってせかします。「私が聞いているから、車の中で話すわ」顔をぴったりとつけて、覗き込むようにいいます。
私とのうちゃんは渡辺さんや当番の看護師さんがに礼を言って病院を後にしました。
「高村さん、膠原病なの、可哀そうにね」
のうちゃんは元看護師ですから、よく知っていいます。「
「コ―ゲン・・・」
今まで聴いた事のない病名に、私は困惑しました。のうちゃん、メモ用紙に――膠原病――と書いて、ハンドルを握る私に見せました。私には難しいので、のうちゃんは以下のように説明しました。
――膠原病は、結合組織病、リュウマチ性疾患、自己免疫疾患の3つの要素を併せ持った疾患です――
この時の、のうちゃんは、まとわりつくような”男たらし”の表情は何処にもありません。気難しい顔です。看護師時代の事を思い出しているのでしょうか、色白の横顔が僅かに赤みをさしていました。
――結合組織病――
結合組織は、体の中で細胞と細胞を繋ぎ合わせ、支える働きを担っており、ただ固定するだけでなく、弾力性を持たせる働きをしている。
フィプリノイド変性といって、結合組織が壊され、弾力性が失われてしまうのが、結合組織病。
例えば、血管にこのフィプリノイド変性が生じると、血管の弾力性が失われ、血液の流れが悪くなる。
――リュウマチ性疾患――
慢性関節リュウマチを中心として、関節に痛みを起す様々な疾患、例えば痛風や五十肩。
――自己免疫疾患――
免疫とは本来、疫(病気)から免れる事を意味する。自分の身体を守るために、自分の細胞以外の細胞(病原体や移植された臓器など)が侵入するのを防ぎ、排除しょうとする働きを持っている。
排除する時には、侵入しようとする細胞に対して、破壊活動(炎症)が起こる。この機能が正しく働くためには、自分の細胞とそれ以外のものを正しく見分ける必要がある。
その見分ける機能がなくなると、誤って自分自身の細胞に対して炎症を起こしてしまい、放っておくと、慢性的な破壊活動がくり返される事になる。
このように免疫機能が悪くなり、自分自身の細胞を標的として、炎症を起こしてしまう疾患が自己免疫疾患。
以上の条件を満たした疾患を総称して膠原病と呼び、その代表的な疾患として全身性エリテマトーデスや強皮症などがある。
私はのうちゃんの説明をきいていて、寒々とした気持ちになりました。
「それで、この病気、治るの?」
「難治症ね・・・」
「治らないって事?」
のうちゃん、黙って頷くのみ。彼女の白い横顔が沈んでみえます。
――初期の兆候として、風邪を引いた時と同じように、発熱、全身の倦怠、体重の減少などがあらわれる。
症状が進むと、脱毛、口腔、耳鼻頭潰傷、血行障害に伴う指肢壊死や皮膚潰傷、爪の変形など――
「つまりね、指の肉が腐ってね、指の骨があらわになったり、爪が割れたりするの」
私は母の両手に包帯がぐるぐる巻きになっていたのを思い出しました。とんでもない病気だと、愕然としました。
私の心情を知ってか知らずか、のうちゃんは看護師になったみたいに、専門用語を交えて話します。
「末期症状になるとね・・・」
――慢性腎炎のため、腎機能が低下する。心臓とそれを包み込む心外膜との間に炎症が起こり、水がたまる心外膜炎を起こす。
肺が慢性的に炎症を繰り返し、肺がふくらみにくくなる間質性肺炎や肺腺維症になり、肺の血行が悪くなる。その結果、肺の動脈圧が上昇する肺高圧症になる。
その他消化器病疫、膀胱炎、内分泌異常、筋肉痛などが併発して起こる――
「外見的には、おしっこが出にくくなるから、顔がむくんだり、毒素が体の外に排出されにくくなるので、顔色も変色してくると言う訳・・・」
「で、高村さん、あと何年生きられるの?」
私は喉から出かかった母という言葉を飲み込んで尋ねました。
「当番の看護師さんの話だとね、よくもって、1か月、2週間か、3週間が限度だそうよ」
「えっ!そんな・・・」
私は絶句しました。体中から血の気が引いていくのが判りました。ハンドルを握る手に力が入りません。
「ちょっと!淳ちゃん、ちゃんと運転してよ。危ないじゃないの!」
のうちゃんがヒステリックに叫びました。私は気を取り直し、ハンドルを握りしめました。
「娘さんがいるそうよ。1ヵ月に1度しか見舞いに来ないそうよ。冷たいわね」のうちゃん、非難するように言いました。
翌日から、私の1日のスケジュールは過密になりました。
朝7時に起きて寮の廊下、トイレ、フロなどを掃除します。皆の朝食と夕食の用意をして9時に出ます。
高月八重子のマンションに10時につきます。彼女は私と2人の食事を作っておいてくれます。4時頃の夕食までは2人だけの時間です。聖書を読んだり、将来の生活設計を語り合ったり、睦言を交わし合ったりします。楽しいひと時なのですが、ふと母の事を話したくなる時があります。
・・・誰にも話さないで・・・母の哀しそうな表情を思い浮かべると、打ち明ける気も失せてしまいます。
私達の結婚式は9月中旬です。教会で、寮の皆や、彼女が働くクラブの仲間だけの、ささやかな結婚式です。
母の寿命は1カ月ぐらい。私には妹がいるそうです。いずれ会う事になるでしょう。今は、母と2人だけの時間を過ごそうと考えておりました。
5時には八重子はマンションをでます。彼女はクラブへ、私は近くのスーパーで、寮の皆の食事のおかずを購入して、母のいる病院へ直行します。
面接時間は8時までですが、渡辺幸子さんから、院長先生にお願いしてくれて、10時まで、母と2人きりの時間を持つことが出来ました。
母は私が来るのを、大変喜んでくれます。
母は私が5歳の時に家を出ました。私は自分の事、行った先々で知り合った人達の事を話しながら、母の事も聞きました。
「私をうらまないでね・・・」
包帯の手で私の手を握ろうとします。母の手は端やスプーンさえ握れません。私は優しく母の手を握り返します。
「恨んでなんかいないよ」
母は眼にうっすらと涙を浮かべながら話します。余程疲れるのでしょう。10分か20分話しては、眼をつむり、またゆっくりと喋ります。切れ長の眼が病室の天井を見つめます。受け口の厚い下唇がかすかに動きます。
以下母の話です。
母は幼い頃より、自由奔放なところがありました。男の子に混じって、鬼ごっこをしたり、ケンカもして、男の子を泣かした事もあるそうです。長じて運動選手になりました。友人とあちらこちらと遊び歩いて、家の中にじっとしてはおりませんでした。陽気な性格ですから、大勢の人のいる所が好きでした。
母の家から見れば、湯中家との縁談は玉の輿でした。でも、母は玉の輿であろうと、どうであろうと、かまわなかったのです。父に見初められたとは言うものの、父に対して、好き嫌いの情など持っていませんでした。
――湯中家は大変な金持ちだ――
そう判断した心の内で、お金をたっぷりもらえて、あちらこちら遊びに連れて行ってくれる。打算的な気持ちで結婚したそうです。
ところが、意に反して、姑より、厳しい躾を教え込まれたそうです。食事の作法から、箸の上げ下げに至るまで、それも朝起きてから夜寝るまで仕込まれました。
――湯中家は末をたどると、やんごとなき公家の出――だそうで、事あるごとに、家の格式を叩き込まれました。
たった1つの救いは、父がクリスチャンだった事で、日曜日には、父と一緒に教会に行けた事だったのです。
湯中家は宗教には寛大でした。父や母がどんな宗教に入ろうが、干渉はしませんでした。
結婚して5年、私が5歳になるまで、母にとって湯中家の生活は牢屋だったと思います。
父は朝早く家を出て、夜遅く帰ってきます。夫婦だけの生活もほとんでありません。夜の生活も味気ないものだったといいます。
・・・外に出て、思い切り羽を伸ばしたい・・・
積もり積もった鬱積が爆発する日がやってきました。
母は日曜以外にも度々教会に出かけていました。祖母も大目に見ていました。
教会に出かけるつもりで家を出ました。普段着のままです。それでも懐には大金を持っていました。その日、教会に行った後、私の誕生日祝いの買い物をするためのお金だったそうです。
出かける時はタクシーを呼びます。教会に行ってから、一旦タクシーを帰します。迎えの時は教会の近くのタクシー会社に電話を入れます。
家を出たのは10時ごろ、教会には10時半に着。
1時間ばかり教会で過ごします。教会は摩耶山の麓の自宅から北に登った、森林植物園の近くにあります。そこは、鈴蘭台という新興団地街から1キロ程北に位置しております。風景と言い、人の集まりやすさと言い、絶好の場所に立っています。
人恋しさに胸焦がれていた母は、鈴蘭台まで歩いて下る事にしました。
季節は5月です。新鮮な空気を胸一杯に吸って歩くなんて、何年ぶりだったのでしょうか。運動選手で鍛えた母の身体は、エネルギーを発散する場を求めていました。
私を産んだとはいえ、おっぱいを飲ませる以外、育児には手をかけていません。祖母や家政婦さんが私の面倒を見ていました。
母の心は学生時代そのままでした。鳥籠から解放された鳥と同じです。
団地に入ると喫茶店のドアを開けました。コーヒーの香りが漂ってきます。お昼ですので、お勤めの人達が軽食を食べています。席は8分ほどふさがっています。
母はコーヒーとジャムトーストを注文しました。喫茶店の中は活気に溢れています。
・・・この空気、久しぶり・・・
母は眼を輝かせて、あたりを伺います。普段着とはいうものの、一応外に出るのですから、グレーのロングスカートに、紺の長袖のジャケットを着ています。派手さを嫌う祖母の意向で、髪の毛は後ろで束ねています。
母が家を出たのは28歳頃でした。若々しい肌に、切れ長の眼、筋の通った形のいい鼻、受け口のうりざね顔が年よりも若く見えました。服装も地味ですから、若さも一層引き立ちます。
その上、解放された気分で一杯です。久し振りに味わう喫茶店の雰囲気です。
この時、母は有頂天だったそうです。家の事も、私の事も頭から消し飛んでいました。もっともっと解放され高揚した気分に浸りたい。
まあ、譬が悪いですが、酒のみが、1か月間禁酒して、酒を口にするようなものでしょうか。思い切り酔いつぶれたい。
それと同じような気持ちの高ぶりの中に母はいたのです。
鈴蘭台からは神戸行きの列車が出ています。母は物に取りつかれた様に、その電車に乗りました。この時から母の運命は一変しました。
神戸から新幹線に乗りました。見るもの聞くもの、久しぶりで懐かしさで一杯です。自分が何行きの電車に乗っているのか、判らなかったといいます。
気が付いた時には東京駅に降りていました。お金はたっぷり持っていますから、不安はありません。2,3日したら帰ろう、そんな軽い気持ちでした。
姑に怒られ、父に怖い顔をされる事など、そんな先の先の事など、全く頭にありません。
タクシーに乗り込み、心浮き浮きして、
「どこか、にぎやかな所に行って」と言いました。
運転手さんはバックミラーで母を見て、どう見ても、お上りさんではないとみたのでしょう。羽目を外した若奥様と思ったのでしょう。
「浅草はいかがです?」
賑やかな所と言っても、もう夕刻です。昼の2時頃に神戸を出ているから当然です。
タクシーが停車したのは、浅草寺前の仲見世通りの雷門の手前です。
時刻は4時を過ぎていますが、買い物客や参拝客で一杯です。雷門の大きな提灯はテレビで見て知っていましたが、眼で見るのは初めてです。仲見世通りの商店街をみて歩きながら、参拝を済ませました。
見るもの、触るもの、皆珍しくて、時間の経つのも忘れました。
・・・来てよかった・・・
母は眼を輝かせて、周辺を歩きました。
お腹がすいたので、大黒屋の看板のかかった古い構えの店に入りました。てんぷらの美味しかったことが、今でも思い出されるそうです。
見るところだらけで、飽きが来ません。大黒屋の裏手に伝法院庭園があります。庭園を横手に観ながら、公園本通り商店街に入ります。仲見世商店街におとらず人混みの多い所です。
母は夢心地で歩いています。履物は5センチ高のアイボリー色のヒールです。早くは歩けません。
「おっと、ごめんよ」後ろから突き当たるようにして、小柄な男が通りすぎます。野球帽を被り、プリントのシャツを着ています。
・・・嫌な人・・・もう少しで倒れそうになった母は口をとがらして、小走りで人混みの中に消えていく男を見送りました。
そのまま北に向かって歩くと、浅草東宝があり、浅草観音温泉があり、新劇場があります。居酒屋も軒を並べています。
居酒屋から1人の酔客が出てきます。したたかに酔っているらしく、足取りも定かではありません。母はこういう人とは相手にしたくないと思い、道を避けようしました。
酔っぱらいは真っ赤な顔をしていますが、ぎらついた眼で母を見ています。母の方に近付いてきます。人通りが多いとはいえ、誰もかれもが男をよけています。
「よう、ねえちゃん、一杯付き合えよ」男は呂律の回らぬ舌で言います。
母は男を避けようとするのですが、酔っ払っている割には、執拗にまとわりついてきます。髪や髭はぼさぼさ、いつ風呂に入ったのか判らないような顔をしています。油の浸み込んだ、ねずみ色の作業服を着ています。一見して労務者と判ります。
男は母の手を掴みます。母は悲鳴を上げて逃げようとします。助けを求めますが、通行人は知らぬ顔です。
ここにきて、母ははじめて夢から醒めた様な気持ちになったといいます。怖くて体が震えました。
と、その時、「女、子供に手をかけるんじゃねえ」
図太い声と共に、男の手が離れました。
はっと振り向くと、酔った男は、作業服の襟首をつかまれています。
「何しゃがんでい!」
酔った体をふらつかせながら、掴まれた手を振りほどいて、両足をふんじばります。下から見上げるようにして、図太い声の男を睨みつけます。
「てめえ、誰に”がん”つけてやがんだ」底冷えのする声に、母が恐る恐る見つめます。
声の主は、角刈りの頭に、ネイピーブルーのジャケットを着こんだ40前後の男性です。爽やかな一文字眉に、秀でた鼻梁、炯々とした大きな眼、意志の強そうな薄い唇。
母の言葉を借りると、錦絵から飛び出したような、”いい男”だそうです。
中肉中背ですが、がっしりとした体つきである事は、母の眼にも判りました。
「こ、これは、高村の旦那、おみそれしやした」
酔っぱらいは何度も頭を下げると、こそこそと消えました。
角刈りの男は母に近づくと、深々と一礼します。
「あの男の無礼、あたしの顔に免じて、許してやっちゃあくれませんか」
許すも許さないもありません。助けてもらったのは母の方です。母は何度もお辞儀をします。せめてものお礼にと、ジャケットの内ポケットから」財布を取り出そうとして、「あっ!」と叫びました。
その声に「どうしやした?」角刈りの男がいぶかし気に尋ねます。
「ないわ、財布が・・・」みるみる内に母の顔から血の気が失せます。
・・・先程、ぶつかった、あの小柄な男・・・
思い当たる節がありましたが、後の祭りです。
「スリにやられやしたね」男は優しい声で言います。
途方に暮れる母を見ながら、男はここに突っ立ていても仕方がないと言って、近くに喫茶店に母を連れていきました。母を落ち着かせて、善後策を講じようというのです。
「あんたさん、このあたりの者ではありませんな」
男の声に、うつむいていた母は顔を上げます。切れ長の気落ちした眼を、男は優しく見ています。
母は頷きました。
「故郷は?」
母は口を開きません。催眠術が解けた後のように茫然自失の態です。後先も考えずに、東京までやってきたのです。男の人がお金を貸してくれたとしても、何で神戸まで帰れましょう。電話をすれば、迎えに来るかと思います。
でも、神戸に連れられた後、姑や父から厳しいお咎めを受けるのは、眼に見えています。それが怖くて答えられないのです。
「いや、言いたくないなら、答えなくてもいいですわ」
男は慰める様に言います。この近くに知り合いや友人はいないかと尋ねます。そんなものあろうはずもありません。母は軽く首を振るだけです。
「あんたさん、妊娠してなさるね」男の大きな眼が鋭く母のお腹のあたりをおよぎます。
母はハッとして恥ずかし気に俯きました。
母のお腹には私の妹がいました。3ヵ月目だったそうです。
「余程、事情がおありとみえる。よかったら、あたしの家に来なさるかね」
母が寝泊まりできる広さはある。他に方法があるなら無理強いはしないがと言います。
母の心の中には、この清々しい好男子に、密かな思いが芽生えていました。
恥ずかしそうに「お願いします」と頷きました。。でも内心は不安で一杯だったそうです。
男の名は高村政吉。総武線両国駅近くのマンションに住んでいます。北の方に両国国技館や江戸東京博物館が眺められます。12階建ての最上階ですので夜景がきれいです。
部屋は6帖の和室2部屋、8帖の洋室、15帖の応接室兼居間、6帖の台所があります。
居間に通されて、高村さんはお茶を入れてくれました。
「明日の朝、故郷に帰りなさいな」
母は高村さんの声を無視しました。
「あの、奥様は?」
「いねえよ、そんなしち面倒くせえもの」
高村さんは陽気に笑います。
「浮気、じゃねえ、本気ならしょっちゅうだがね」
「じばらく、ここに置いて下さい。何でもします」
母は必死な思いで懇願しました。
「いたけりゃ、好きにしな。帰りたけりゃ、いつでも消えな」
高村さんの言葉遣いは、いつの間にか、つっけんどんになっていました。でもその方が、高村さんを身近に感じて、母としては良かったそうです。
母には洋室が与えられました。ベッドですし、中から鍵がかけられるからです。
母は朝早く起きると、冷蔵庫からありあわせの物を出して朝食を作りました。高村さんが相好を崩したのは言うまでもありません。
高村さんは午前中出かけて、午後に帰ってきました。夕方、母を連れて、母の衣類や、夕食の買い物に行きました。
着る物を母が遠慮すると、「遠慮なんかするんじゃねえ」と怒ります。怖いとは思いませんが、突然入り込んで泊めてもらったばかりです。遠慮するのが当然だったのです。
母は高村さんの好意を有り難く受けました。
高村さんの仕事は”手配師”です。
浅草、両国、上野界隈にたむろする労務者を集めて、道路舗装や、ビルの工事現場などに連れていく仕事です。
土建屋さんから、今日は10人連れてきてと言われると、朝早く、その日暮らしの労務者をかり集めるのです。例えば、1人の日当が1万円としますと、2割は高村さんの取り分という事になるのです。
労務者の中には、農閑期で田舎から出稼ぎで出てきた者もいます。人に言えない過去を持つ者もいます。場合によっては犯罪者もいるとのこと。
高村さんは雇う人の過去は聞きません。人の古傷に触れないというのが鉄則だそうです。母の事でも何も聞かないのも、高村さんの習性なのでしょう。そういう高村さんも、自分の事を母に話した事はないそうです。
手配師は1人では動きません。数人がグループを組んでいます。仕事に休みはありません。高村さんとて生身の身体です。何が起こるか判りません。お互い助け合って、仕事の割り振りをしたり、カバーし合ったりします。それに雨の日は仕事がありません。
仕事の暇な時や、夜など、高村さんは母を連れて、バーやキャバレー、居酒屋や、盛り場に連れていきます。
高村さんは身なりをパリッとします。お金が手に入ると、パッパと使ってしまいます。
――江戸っ子は、宵越しの金は持たねえのよ――だそうです。
母への気配りも上手く、母の作る料理を「うまい、うまい」と言って褒めてくれます。
母は美貌で、スタイルも日本人離れしています。高村さんの指導で、髪形を変え、化粧もしました。
一緒に出歩く時、「俺の彼女だ。きれいだろう」と自慢しました。
母が東京にやって来たのは昭和40年です。日本が高度成長期に入る時代でした。人手がいくらあっても足りない時代でもあったのです。高村さんの仕事は時代が求めていたと言っても過言ではありません。
高村さんは羽振りが良く、母が1人で何処かへ出かけても決して束縛はしませんでした。
浮かれるような毎日でも、母はクリスチャンです。日曜日になると、近くの教会に行きました。その時ばかりはさすがの母も、私の事を思い出して、涙にぬれました。
高村さんの家に飛び込んで、2,3週間たったころです。夜一緒に外出して、飲んで帰ってきます。高村さんは一度も母に手を付けなかったのです。
――女が嫌いか――当初はそう思ったそうですが、高村さんと寝たとか、浮気したとかいう女の人がいくらでもいるのには、母は驚いたそうです。
母のいる前でも、女の人とじゃれ合って、あけすけに言い合い、笑いこけるのですから、驚くなという方が無理と言うものです。
母が飲みすぎて、気分がすぐれないとみると、高村さんは優しく母を抱きかかえて”夜の宴会”を切り上げ、マンションに帰ってきます。母を看病します。気が優しく、母の心はいつしか高村さんの事で一杯になりました。
2,3週間たったその日、夜9時に帰ってきました。母も高村さんも酔っています。高村さんは、母が洋室に入るのを見届けてから、和室の自分の部屋に入ります。
30分ぐらいたって、母は意を決して、高村さんの部屋に入ります。ネグリジェを脱ぎ、寝ている高村さんの側に潜ろこみます。
「お願い、抱いて下さい」母は高村さんに抱き付きます。
「いいのかい、俺で・・・」高村さんは、母が部屋に入ってくるのを気配で判っていました。
母は頷く代わりに、高村さんの唇を求めました。
高村さんは優しく母を抱きしめ、愛撫します。ゆっくりと執拗に、体のすみずみまで、なめ尽くすような愛し方です。
母の肉体は燃え上がり、あつい吐息が漏れます。天にも昇る心地です。頭の中が真っ白になり、どろどろした快楽の渕に落ちていきます。
母は言いました。
私の父との夜の営みは淡泊で、10分と持ちません。父は済ませる事だけ済ますと母に背を向けて高いびきとなります。
・・・まるで種付け馬・・・父の事をそう評しました。父は生真面目で、責任感も強い人です。大きな会社を背負っていかねばならない重責があります。夜遅く帰ってくると、本当に疲れ切った表情です。
夜遅く食事を摂りながら、仕事上の不満やうっぷんを母にぶつけます。家の中は暗く、母は父に仕える女中と何らかわりばえしなかったのです。
高村さんとの夜の営みは、それから毎晩のように続きました。母の身体の奥に隠された悦楽の泉が掘り起こされ、母の肉体の悦びは日増しに大きく、深くなっていきます。
私は母の話を聴きながら、天井を見つめる母の顔を、驚きの眼で見ていました。母の口から洩れる言葉は、独り言のように、さざ波となって室内に漏れます。
――母は真に1人の男を愛し、また愛されたのです。性を通じて、男女が1つになる――
教会は激しい性を罪悪とみなしているようです。
――創造者は始めから男と女を造られ、そして言われた。それゆえに、人は父母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである。彼らはもはや、ふたりではなく一体である――
母の表情は安らかでした。高村さんと過ごした日々を回想し、その中に浸っているのでしょう。
そう思って、母の眼を見ました。大粒の涙がしたたっています。
私は「あっ」と声をあげるところでした。
母はクリスチャンです。今でも聖書を読みます。元気な時は教会にも行きます。
高村さんとの赤裸々なセックスの話は、実の息子に聞かせる内容ではありません。
母の涙を見て、私は泣きました。
――母は私を通じて、神に懺悔しているのだ。罪を告白して、悔い改めているのだ――
母は死期が近い事を悟っていたのです。
母の話は続きます。高村さんとの極楽のような日々が続きます。やがて、私の妹が生まれました。困ったことに母は離婚している訳ではありません。
「俺に任せろ」高村さんは言うなり外へ飛び出していきました。2,3日して帰ってきます。
「これをもって、役所に行こう」
母を連れていきます。高村さんの手には戸籍謄本が握られていました。
彼の話によると、東京に流れ込んでくる”あぶれ者”の数は数千人にのぼるそうです。”夫婦ずれでやってきて、職にもありつけず”野垂れ死に”するものもいるのです。
高村さんは、金をやって、死んだ人の戸籍謄本を買うのです。つまり本当は死んでしまったのだけれども、死亡届を出さずに、”生きている”事にして、母が死んだ人とすり替わる訳です。
こうして母は高村さんと結婚して、高村静代と名乗ることになりました。
母の本名は静花。この時、母は、架空の名前と本名との間に、不思議なつながりを感じたそうです。
妹は高村由利子と名付けられました。高村さんは妹を自分の子供として、大切に育ててくれました。
幸福な日々は長くは続きませんでした。母37歳の時、”夫”の高村政吉が45歳で死にました。病状は急性白血病。この病気の初期のころは自覚症状はありません。体調の変化、例えば、貧血、出血傾向の多過に気付いた時は、すでに遅く、全身の白血病細胞が増殖しており、血球、白血球、血小板などの産出が抑えられた状態となります。脾臓機能の亢進によって、血球が著しく減少します。巨大化した脾臓がみられ、白血球の著しい増加となります。
唯一の治療法は骨髄移植ですが、適応年齢が45歳ぐらいまでとされています。
高村さんは酒の飲みすぎで、体調が思わしくないとしか考えておりませんでした。
車を運転中、貧血で失神し、事故を起こしました。病院に運ばれた時には、すでに時遅しでした。
高村さんの死で、母と妹に残されたものは、マンションの一室のみでした。貯金もせいぜい数百万円程度。
母は高村さんの知人のつてでバーに働きに出ました。37歳とはいううものの、母は若く見られました。この時由利子は9歳。
ホステス稼業は夜が主ですから、幼い妹の養育には向いていません。母もそれは判っていたとみえて、バーに働きに出て2年目。商用で大阪からやってくる中小企業の社長さんに見初められました。
――大阪に来ないか――というものです。速い話、ホステスをやめて二号さんになれという事です。
一時、母はためらいました。
大坂は神戸に近く、湯中家の事を知る者と出会うかもしれないかと危惧していたのです。
東京にやってきた時も、高村さんには本名を名乗っておりませんでした。外に出歩く時は、髪形を変え、化粧も濃いめにしました。
二号さんになればホステス稼業から足が洗えます。妹との2人の生活の時間も持つようになれます。母は決意して、その社長さんの二号さんになりました。
こう書くと、いかにもすんなりと事が運んでいるように見えますが、妹との軋轢があって大変でした。
高村さんが死んだとき、由利子の衝撃は大きかったのです。母よりも誰よりも愛していたし、可愛がってもらっていました。むしろ、時には自由奔放に生きる母に対して反撥を感じていたと言います。
母は由利子に手をかける事はほとんどありません。私を産んでからも、おっぱいをやる以外、自分の手で子供を育てた事のない母です。高村さんが母の代わりに、育児から小学校の事など、すべて情愛を注いでいました。
母がホステスとして働きだして、由利子は託児所に預けられたり、知り合いの家庭に預けられたりしました。
母と妹の間には、愛情は薄かったのです。
二号さんとして大阪に行く時も、由利子は嫌がりました。住み慣れた両国を離れることは多くの知人友人と別れる事です。それに高村さんが死んで、まだ2年、父への哀惜の情も冷めやらぬ由利子にとって、母が他の男を連れこむ事は耐え難かったのでしょう。
妹からすれば、二号さんではなく、再婚と言う手があった筈です。
しかし母は食事以外、出来る事は何もありません。お金の心配もなく、優雅な生活にも慣れています。それを、普通の男と結婚して、お金の出入りで苦労して、家の中に閉じ込められるのは、耐えがたかったのです。
大阪に行くまでの間、母と娘の間には、葛藤劇がありましたが、それを述べるのが本意ではありません。
母は自分の思ったとおりに行動したい性分です。11歳にしかならない由利子が反対しても、何が出来ましょう。内心、二号さんになる母への怨念と不満を宿したまま妹は母についていくしか方法がなかったのです。
妹は、病院へは1ヵ月に1度ぐらいしか見舞いに来ないそうです。その原因がすでにこの頃に芽生えていたのです。
東京のマンションを売り払い、やってきたのは大阪の枚方市です。母を二号さんとして囲う社長さんは門真市のナショナルの系列会社の下請さんです。奥さんと2人の子供がいます。母への月々のお手当は、会社の経費として落としていたのです。
由利子は枚方市の小学校に通いました。母が囲われていた期間は約14年。由利子が就職して、5年ほど続きました。
母は由利子が社長さんを好いていないことは知っていましたので、彼女が勉学に身が入るようにと、近くのアパートを借りて、そこに住まわせました。
社長さんが来ない日は、母と娘の2人だけの生活が1つ部屋で行われましたが、母は食事を作るだけです。学費と本代、1ヵ月の小遣いを与え、後は一切干渉しません。
干渉しないというと、立派に聞こえますが、要はほったらかしなのです。親子の会話もありません。食事が終わると、由利子はさっさと自分のアパートに引き移ってしまいます。母は母で、ブランデーを飲んで酔いつぶれて、テレビに見入ったりするだけです。それでも日曜日には、一緒に教会に行きます。
由利子が高校を卒業して1ヵ月がッたったある日、彼女にとって衝撃の事件が起こりました。
話はそれますが、私は母から由利子の事を聞きましたが、まだ由利子には会っていません。彼女は今、ナショナル系列の会社の社長秘書をしていると教えられているだけです。彼女の勤務先に行けば会えるかもしれませんが、「由利子が嫌うから、行かないで」母の強い懇願もあって、妹が病院に来るのを待つ事にしました。
由利子は母に似て美人で、利発で、気も強く、しっかり者だそうです。今年平成12年で35歳になっていますが、未婚だそうです。
由利子にとっての衝撃な事件と言いますのは、社長さんの口から、由利子が高村政吉の娘ではないと漏れてしまったのです。
その経緯は以下のようです。
由利子は高校を卒業して、就職する事になりました。彼女は母と別れて独り立ちしたかったのです。
「私、東京へ帰る」故郷の両国に帰り、旧友や知人、近所付き合いで知り合った人々に囲まれて暮らしたいと主張したのです。
母は娘の要求を断固退けました。高村との懐かしい日々を送った場所ですが、今更おめおめと帰れないという負い目がありました。
それに娘には、会社に勤めて、平凡に結婚して欲しいという願いがありますた。自分をかこってくれている社長さんにお願いして、某中堅企業の社長秘書の口を捜してもらいました。もっとも1年間は秘書という仕事の為の研修を受けねばなりません。高卒で、秘書という仕事にありつけれるのも、社長さんのコネがあればこそです。
しかし由利子はその仕事をかたくなに断りました。どうしても東京に行くと言ってきかないのです。
社長さんは辛抱強く説得しましたが、由利子もいったん言い出したら後に引きません。ついに口論となり、2人とも感情的になりました。
「由利子!」社長さんは彼女を呼び捨てにしました。
「お前は高村の実の娘じゃないんだよ」
この事は、両国に住んでいたころ、近所の人で知らぬ人は居ないと言い放ったのです。そんなところへ、どの面下げて帰るのかとなじったのです。
2人の間には冷水を浴びせた様な沈黙が漂います。それも一瞬の事です。由利子は驚愕のあまり、茫然自失していましたが、それも束の間、泣き出しそうな顔になると、外に飛び出していきました。
この時、社長さんはしまったと思ったそうです。
この話は、泥酔していた母が、思わず社長さんに漏らしていたのです。正気に返った母は、社長さんに、娘には言わないようにと、念を入れて頼み込みました。
それを知らぬ社長さんではなかったのですが、興奮のあまり、口を滑らしてしまいました。
後でこの事を知った母は、社長さんをなじりましたが,塞翁が馬とでも言いましょうか、この事は母にとって良い結果をもたらしました。2日ばかり、友人の家にいた由利子は、秘書になることを承諾したのです。
母の言によれば、その後、ずっと由利子は今の会社に秘書として勤めているとの事です。ただ、住まいは別々で、由利子は1ヵ月に1度ぐらいしか、顔を見せないそうです。
母の方は、それから5年ばかり二号さんでしたが、社長さんの急死により、収入の道が途絶えてしまいました。仕方なく、昔取った杵柄とかで、バーのホステス稼業に出ました。もっとも、51歳になった母を高給で雇う所はありません。それでも年よりも若く見え、美人です。優雅に暮らしていけるだけの収入はあったそうです。
膠原病の兆候が出始めたのは、55歳ころだそうです。朝起きると疲労感が残ります。
・・・もう歳なのかな・・・
5年余、ホステスの仕事を続けています。夜中の2時か3時頃に酔って帰ってきます。時には馴染み客を引っ張り込んで、どんちゃん騒ぎで夜を明かす事もありました。不摂生な生活が長く続いたせいで、五十五の声を聞いて、体が急に老け込んだと思ったそうです。いくら寝ても疲労感が取れません。起きた後のけだるさに、起き上がることも出来なくなりました。1年、2年と立つうちに、風邪を引いた時のような熱が出る様になりました。体重が急に落ちていきました。
ホステスを続ける事が出来なくなりました。二号さんの時、社長さんからあてがわれたマンションを売り払って、アパートに引越しました。母は得た金を、パッパッと使ってしまうタイプです。貯蓄はありません。倦怠感に悩まされ、熱があって、一日中ほうっとしているような毎日です。マンションを売ったお金で生活費に充てたのです。
愛情が薄いとは言え、血の繋がった親子です。さすがの由利子も心配で見舞いに来てくれます。この時は母はまだ買い物や食事、自分の身の回りの事は出来ました。
よく寝て、栄養のある者を食べたりしましたが、体は悪くなる一方です。由利子の勧めもあり、病院で検査をしてもらったところ、膠原病と判ったのです。即入院となりました。母は由利子の扶養家族となっていましたので、入院費はマンションを売ったお金で何とかなりました。でも病院は3ヵ月から半年で、他の病院に移るように説得されます。
今の病院に移るまで、母は病院を転々としました。平成7年の淡路、関西大震災の時、神戸の長田地区の母の実家が崩壊しました。まだ健在だった両親の死をテレビで知りました。
母はわが身の不幸を嘆きました。不幸に不幸を重ね、ついに両親の死に際にさえ立ち会う事も出来ませんでした。
この頃、母は寝たきりでベッドから起きるにも、看護師の手を借りねばなりませんでした。
そして、現在に至りました。
私は母の話を聴き終わった時、泣けて仕方がありませんでした。大阪まで来ていたのなら、神戸まで帰ってきてほしかったと思いました。せっかく対面したのに、母の命はいくばくもありません。喋る事さえ辛そうです。
「今日は何日?」私が見舞いに行くたびに言います。私が今日はね、と言いますと、後、1週間だね。由利子が来てくれるよ。涙を流して、声を震わせます。
まだ見ぬ妹への思いは、日に日に強くなります。大きな会社の社長秘書をしているとかで、私の脳裡には、その面影が、写真にある若い頃の母とダブります。
妹は、いつも午後2時頃に来るそうです。1時間ばかり母の側で、介護に必要な衣類などを整理したり、母に聖書を読んで聞かせます。母も死んだように眼をつむり、聞き入っています。
――また祈る時には、偽善者たちのようにするな。彼らは人に見せようとして、会堂や大通りの辻に立って祈ることを好む。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。あなたは祈る時、自分の部屋にはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は報いてくださるだろう。また、祈る場合、異邦人のように、くどくど祈るな。彼らは言葉かずが多ければ、聞き入れられると思っている。だから、彼らのまねをするな。あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存知なのである――マタイ伝
松本さん、私はここで告白しなければなりません。私は罪深い人間です。母と同じように、あなたに手紙を差し上げる事で、神に罪の告白をしています。
忘れもしません。母が亡くなったのは、平成12年6月10日、その2週間前に、妹、由利子が病院に来ました。
その日、私は午前中、高月八重子と、肉体の情を交わしていました。昼からは都合が悪いと言って、彼女のマンションを出ました。彼女もまた、マンションを留守にすると言いました。
昼の1時頃、、病室で母の看護をしながら、妹の現れるのを待ちました。1時40分、私の携帯電話が鳴りました。病院内では、携帯電話の使用が禁じられています。私は急いで病室を出て、廊下を走り、病棟の東端にある喫煙室に入りました。
工藤さんからです。明日は定休日です。加藤みどりこと、みいちゃんの誕生日でもあります。洋姉ちゃんの提案で、みいちゃんのバースデイパーテイを開くことになったので、明日の夕方は寮にいるとのこと、料理も総出で作るから、帰りにスーパーで材料を仕入れてくれとの連絡でした。
工藤さんはパチンコが大好きです。暇があると近くのパチンコ店に出かけます。彼は電話で長々と、昨日は勝ったとか、景品をどっさりもらってきたとか話します。
そういえば彼とも、近頃はあまり顔を合わせていません。寮は女性ばかりで、悩み事の相談は乗るけれども、自分の悩み事を、打ち明ける事はありません。私の方が15も年上のせいでしょうか、色々な世間話をするだけです。
工藤さんとの話も終わり、電話を切ったのが、1時55分です。私はゆっくりと歩いて病室に戻りました。
前にも言いましたように病室は個室です。
ドアを開けると、左手が6帖は程のフロ兼トイレ、洗面室となっています。母のベッドはその奥にあって、ドア越しから見えないようになっています。ベッドの横に整理タンスが収まっています。その中に、紙おむつや衣類、日用品が入っています。引き出しの中には、母が東京で買い求めた聖書が入っています。
私はドアを開けました。看護師さんから、患者を刺激しないために、静かに開け閉めするように注意されています。そっと中に入りました。
「お母さん、気分どう?そう、兄さんが来ているのね」
壁越しに声がします。妹の高村由利子なのだな、と察しました。
私は忍び足で近ずこうとしました。思わずはっとしました。
その声は・・・。
喉の奥から吐き出すような、甘ったるい響きがあります。少しかん高いけど、澄んだ、子供のような、一言一言確かめるような話し方です。
私は背筋が寒くなりました。全身から力が抜けていくのが判ります。私は忍び足で外に出ました。エレベーターに乗って、一階に降ります。ホテルのロビーのような待合室のソファーに腰を降ろしました。
午前中の外来患者の診察は昼の1時で終わっています。1時から2時までは看護師さんの休憩時間です。待合室には誰もいません。受付の奥に、事務員が1人いるだけです。
看護師さんの話ですと、高村由利子は2時前後に、病院に現れます。20分程病室で母と話をして、1ヵ月分の治療費の支払いの為に、1階の受付まで降りてきます。
私は由利子が降りてくるのを待ちました。頭の中が混乱しています。いっそ、病院を抜け出したい気持ちです。
待つ事20分ぐらいして、エレベーターの扉が開きます。私は胸の高鳴りを抑えて立ち上がりました。
エレベーターから現れたのは、紺のノーカラーのジャケットとスカートで身を包んだ、高月八重子でした。
「淳・・・」八重子は、大きな瞳を一層大きくして絶句しました。
「兄って、あなたの事・・・」八重子は棒立ちになりました。彼女の白い顔が青ざめています。
私は化石になったようで身動きできませんでした。私達の周りには人気がありません。2人だけの間に、時間が凍りついたようです。
動いたのは私です。
「奥の喫茶室へ・・・」私は彼女の表情を伺いながら歩きました。
喫茶室は10帖程の広さがあります。軽音楽のバックミュージックが流れ,しゃれた雰囲気です。室内装飾にも衣装が凝らされています。
テーブルも10席ありますが、客は私達だけです。窓際に席を占め、コーヒーを注文しますが、私も八重子も手を付けません。顔を合わせる事が出来ません。
「まさか、君が妹だったとは・・・」
八重子は私の児を身ごもっています。お腹はまだ目立つ程ではありませんが、八重子は6月一杯でクラブを休職します。私達の結婚式の予定は9月です。
2人が血のつながった兄妹であると判った今、結婚は出来ません。2人の心は、衝撃の大きさに、なすすべもなく、途方にけれる状態です。
いつまでも、この状態を放置することは出来ません。まずは余命いくばくもない母の事をかたずけねばなりません。母の命ある限り、仲の良い兄妹を演じようと、考えが一致しました。
病室に戻ります。母には、1階の喫茶室で兄妹の名乗りを上げたと報告しました。
八重子=由利子は母には会社の秘書をしていると言ってあります。母が喜んだのは言うまでもありません。
自分がお腹を痛めて産んだ2人の子供が、自分の目の前で手を握り合う事が出来たのです。
でも私と由利子はそうはいきません。2人の心の中には、激しい葛藤が渦巻いていました。私はそれを顔に出すまいと必死です。さすがに由利子は長年ホステスをしているだけあって、心で泣いても顔で笑っていられる芝居ができます。後日、由利子に本名を名乗らず高月八重子と称したのはどうしてかと聴きました。由利子は、自分が高村の児でないと知った時から、高村の姓と縁を切ったのだと言いました。
翌日、寮で、みいちゃんのバースデーパーティーが開かれました。私を含めて9名のささやかなパーティーです。パーティーとは言うものの、みいちゃんの誕生日を”だし”にした、どんちゃん騒ぎです。私もその雰囲気に溶け込もうと必死でした。
「淳ちゃん、どうしたの、顔色、悪いわよ」洋姉ちゃんが不審そうに尋ねます。澄ちゃんは「彼女とケンカしたのよ。どう図星でしょう」私の顔を覗き込みます。自慢の長い髪が鼻腔に甘い香りを伝えます。
お互い、”ちゃん”と呼び合う仲ですから、それ以上追求されません。
その翌日から私は高月八重子、いえ、高村由利子のマンションを訪問します。実の兄妹と知った今、私達の間には深い溝が出来ました。私と彼女は、1メートル程離れて対坐します。
話し合う事は何もありませんが、由利子は喋りました。
某会社の秘書をしていたことは事実です。5年ぐらい続けたそうです。由利子は母の血を受けつでいます。堅くるしい会社の雰囲気になじめなかったのです。
彼女がホステスの道に入ったのは、同じ会社にいた同僚からの誘いがあったからです。ホステスになったのも、収入が大きかった、ただそれだけの理由です。これは前にも申し上げました。
私と由利子の話は必然的に、お腹の中の赤ちゃんの事になります。私から見れば、歓喜の世界から奈落の底に突き落とされた気分です。私は暗に降ろす様に勧めました。
由利子は利発です。勘も良く、自分の行動が周囲にどのような波紋を広げるのか、よく承知していました。
――原罪の結晶――
私も由利子もクリスチャンのはしくれです。私は5歳の時に母が蒸発して以来、祖母の手で厳しく育てられました。
日曜日には教会に行き、聖書に親しみ、キリストの言葉を生活の規範としてきました。25歳の時に母探しの旅に出ましたが、聖書の言葉にたがう行動はしたことはないと自負しています。
その私が知らなかったとは言え、実の妹とセックスに溺れ、あまつさえ、私の児まで宿していた。
――私は罪の深さにさいなまれました。それも日1日と私の心の中に深く、食いこんでくるのでした――
「私、赤ちゃんを産むわ」由利子は私を見返す様に言います。そこには彼女の固い決意が感じられます。
――赤ちゃんには、何の罪もないもの――
キリスト教では、全ての生物は神から与えられた尊い命です。人間の都合で抹殺することは許されないのです。私もその事は重々承知しておりました。承知しておりましたが、私には耐えがたい事なのでした。
3日4日が瞬く間に過ぎていきます。昼からは私と由利子は病院に行きます。毎日見舞いに顔を出す由利子を見て、母は嬉しさを隠しません。
「お仕事の方は大丈夫なの?」娘を気遣う気持ちを忘れては居ません。
「大丈夫よ。この時間が一番暇だから」由利子は母を慰め元気付けます。
母が亡くなる4日前の事です。主治医から呼び出しを受けました。主治医も看護婦さんも私を赤の他人と見ています。でも母の面倒を見ているのは私だと知っています。由利子は1ヵ月に1回見舞いに来るだけの”情の薄い娘さん”としか見ていません。
母が亡くなった後の処置を、病院側はすでに考えていたのです。後日の手間を省くために、私も呼ばれました。
主治医はレントゲン写真を見せながら、お母さんの肺機能が急激に低下していると言います。つまり間質性肺炎だと言うのです。膠原病の末期症状で、自力での呼吸が困難になってきていると言っています。
「よくもって、後2,3日です」
主治医は淡々と述べます。
私と由利子は予想していた結果なので、黙って病室に帰りました。主治医の指示で、母は集中治療室に入りました。由利子が延命処置を願い出たからです。ポンプで直接に酸素を送り込む処置が施されました。
私は寮に電話を入れて、事情を説明します。ここ数日間帰れないからと、食事の方は工藤さんに頼みました。
母の希望で枕元に聖書が置かれます。母は眼で、私に聖書を読んでと言います。
――イエスはまた海べに出ていかれると、多くの人々がみもとに集まってきたので、彼らを教えられた。また途中で、アルパヨの子レビが収税所に座っているのをごらんになって、「わたしに従ってきなさい」と言われた。すると彼は立ち上がってイエスに従った。それから彼の家で、食事の席についておられたときの事である。多くの取税人や罪人たちも、イエスや弟子たちと共にその席に着いていた。こんな人たちが大勢いて、イエスに従ってきたのである。
パリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や取税人たちと食事を共にしておられるのを見て、弟子たちに行った「なぜ、彼は取税人や罪人などと食事を共にするのか」イエスはこれを聞いて言われた「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。――マルコ伝
人工呼吸器をつけたためでしょう。母の心電図は安定してきました。ところが亡くなる前の日、母は呼吸器をはずしてくれるよう、意思表示しました。私達は反対しましたが、母は断固要求しました。
私達は母の希望通りにさせてやろうと、集中治療室から病室に移してやりました。
私と由利子は24時間、付きっきりで看病したいました。とは言え、病室で寝れるものではありません。幸いなことに、喫茶室で食事注文が出来ます。朝8時から正午まで私が看病し、正午から4時まで由利子、夜間は看護師さんが見ていてくれます。夜中の1時から2時頃には2人とも休みます。
5月10日、死を間近に迎えた病人とは思えない程、母の表情は穏やかでした。
母の声は聞き取れないほどかすれています。呼吸器をつけてまで長生きしたくないと言います。それに呼吸器をつけると喋る事が出来ません。
母は濡れた目で由利子を見ます。
「由利子、ごめんね、悪い母さんだったわ」
「淳、由利子を頼むわ、兄妹仲良くね」
くどいほど由利子に謝罪しているのです。母の眼からはとめどなく涙が溢れます。
「母さん、もういいの、由利子も悪かったわ」
由利子は顔がくしゃくしゃになるほど泣きました。包帯でまかれた手で私たちの手を握ろうとします。私達は母の手をしっかり握りました。
「淳、お願い、ヨハネの17章を読んで・・・」
「淳、私が読むわ、貸して」由利子は大きな瞳で、きちっと私を直視します。その顔には化粧気がありません。連日の看護で疲労がにじみ出ています。
私達は血のつながった兄妹と知って日から今日まで、視線を合わせるのを避けてきました。
でも由利子は私を直視しているのです。うるんだ大きな眼からは大粒の涙が流れています。
看護師さんが吸入マスクをつけようとします。母は嫌がります。私はこのままにしておくようにと、言いました。
――これらのことを語り終えると、イエスは天を見あげて言われた「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光をあらわすように、子の栄光をあらわしてください。あなたは、子に賜ったすべての者に、永遠の命を授けさせるため、万民を支配する権威を子にお与えになったのですから。
永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストを知る事であります。わたしは、わたしにさせるためにお授けになったわざを成し遂げて、地上であなたの栄光をあらわしました。父よ、世が造られる前に、わたしがみそばで持っていた栄光で、今み前にわたしを輝かせて下さい――
由利子の声は朗々としています。1語1語、確かめる様に、声を出します。しっかりとした口調も、今は震えています。
主治医が私の手から母の手を取ります。脈を見ます。
「ご臨終です」深々と頭を下げると、看護師を伴い、退室します。それでも由利子は朗読をやめません。目に一杯の涙をためながら、天に届けとばかりに、声を張り上げます。
・・・主よ、母の霊を御手にゆだねます・・・
私は黙祷しました。
葬式は母の希望で、教会で行いました。出席者は私と由利子のみ、土葬は禁じられていますので、火葬にふして、お骨を祭壇にささげて、牧師様にお祈りしていただくだけの、実に簡素なものでした。教会の裏の墓地の一角に、母の石碑を立ててやりました。
私の脳裡には母の安らかな死に顔が焼き付いています。
私は由利子と別れました。由利子はマンションを売り払いました。彼女はどこかの田舎に引きこもり、生まれてくる子供と共に一生を過ごすと言いました。
私は工藤さんや7名の女性と別れました。神戸の家に帰ろうかと思いましたが、未練を残すだけだと思い、止めました。
6月も終わり、暑い7月、8月となりました。
私は各地を転々としました。仕事に精を出せば、少しは気が晴れるだろうと思いました。
でも、由利子と過ごした日々が忌わしく思い出されるばかりです。まだ見ぬ、由利子のお腹の子供の事を思うと、わが身を責めたくなるほどに狂おしくなるのです。
私は一心になって聖書を読み、その中にわが身を埋没させようとします。時には酒を飲んで、わが身を忘れようとしました。でも罪の恐ろしさから逃れることは出来ませんでした。
唯一の救いは、死の間際に撮った母の写真です。母の、死を超越した表情を見ていると、涙があふれてくるのです。
8月のはじめ、私は、死のう、と思う様になりました。パラダイスにいるであろう母の元に行こう。それが私の唯一の救いだと思う様になりました。
キリスト教では自殺は禁じられています。自ら命を絶つことは、地獄に墜ちる行為だと信じられています。
そうだろうかと、私は反芻しました。自殺は人間のみの特権ではないかと、人間以外の動物で自殺をした事は聞いた事がありません。
この世の欲望に執着する者のみが地獄に堕ちると信じています。私は死んで、この世の原罪から解放され、母の元に行けると信じました。
今、青森県の深浦町という所にいます。深浦海岸は海水浴客で大賑わいです。私はお盆までこの海岸の料理店で働いています。
深浦町から10キロ南に行くと白土山という山脈があります。この山奥に深い谷があります。夏休みでも誰も訪れません。谷に入って、私はそこで一生を終えるつもりです。
今、松本さんにこの手紙を書いています。夜12時を過ぎました。明朝8時には料理店を出発します。この手紙が松本さんの所に届く頃には私はもうこの世にはおりません。
封筒に松本さんの住所とお名前を書き終え、その裏に自分の名前と住所を書こうとして、私は苦笑しました。
――自分には住所がない。この世に定まった土地もない。名前も、もうすぐなくなる――
私はあえて差出人の所は空白にしました。
それが私には一番相応しいと思ったからです。
松本さん、あなたに会えてよかったと思っています。これでお別れです。さようなら
――完――
お願い――この小説はフィクションです。ここに登場する個人、団体、組織等は現実の個人、団体、組織等とは一切関係ありません。
なおここに登場する地名は現実の地名ですが、その情景は作者の創作であり、現実の地名の情景ではありません。