第9話 朽ちよ、三爪の獣よ
状況は不利である。だが、一方で晃人は光明も見出していた。まずは銃弾でも傷が付けられるほどに魔獣は、この世界に、この時空に馴染んでいる。物理法則が通用すると言う事は何より光明だ。
そして、その動き。全く捕らえられないほどの物ではないと言う事。右前脚の付け根に盛り上がる肉腫が動きを阻害しているようだった。あれこそが、ロジャーが負わせた手傷に違いない。老狩人の支援は既にあったのだ。
だが、安易にあそこを狙うのは問題だ。下手に傷を付ければ、張り巡らされた毒腺から毒液が噴出するだろう。あの魔獣の持つ毒液が如何なる毒かは、接種サンプルの少なさから誰も知らないのだ。不用意に浴びれば、それも致命傷だろう。
悍ましき獣は吼えるのを止めて、じっと晃人を見据えた。その姿勢には、強烈な意思を感じられた。言うなれば一撃の意思。一撃で狩人の命を奪い、続いてその助手の命を食らう算段をしている様だった。
飢え、怒り、恐怖、そして愉悦。それらが魔獣の中に渦巻いているようだ。だが、果たして本当にそうだろうか? 今にも飛び掛かろうと僅かに身を伏せた魔獣と対峙し、刀を正眼に構えた晃人は思う。この目の前の化け物に対して、その様なありきたりな評価を下し、動きを予測するのが正しい事なのか?
そこに思い至れば、晃人はアリシアを横目でみやり、小さな声で指示を飛ばす。風に掻き消えそうな指示は、しかし、アリシアには届き、彼女は銃を構えたまま廊下へと素早く飛び退った。その動きに合わせて、晃人は刀を頭上に振り上げる。廊下から差し込む灯りに照らされて、刃が小さく煌めきを放った。
豪と唸りを上げて吹き込んでくる渦巻く風と耳障りな音。アリシアが完全に外に出ると、それが不意に止まったのだ。揺らめいていたカーテンは、窓を覆うと言う本来の仕事を思い出す。
無風。途端、晃人は刀を振り下ろした! ズンッ! 凄まじい音が先程まで魔獣が居た場所で起る。いつの間にか、晃人が手にしていた刀が床に突き刺さっていた。すっぽ抜けたのか?
いいや、これこそ晃人が幼少期より鍛錬し続けている騎西無想無念流の極意の一つ投げ太刀の技! しかし、神速の投げ太刀を以てしても魔獣は捉え切れない。
本来は脇差を用いる技、打ち刀では勝手が違う。それでも刀の刃に僅かに付着した青みがかった液体が、魔獣に手傷を負わせた事を示している。だが、その姿は晃人の眼前より消失していた。
部屋の外に出たアリシアには、魔獣が既に何処に居るのかは分からない。それは晃人も同様の様だった。晃人は、万事休すと諦めたのか、その場から微動だにしなかった。
「おい!」
アリシアが叱咤せんと口を開いた瞬間、恐るべき光景が目の前で起きた。悍ましく恐るべき者である魔獣の、あの針のように長い舌が晃人の左側から迫り……その腕を貫いたのだ。
アリシアは見た。猟犬の、あの異様な舌が晃人の左腕を貫くのを。彼は外套を揺らしながら勢いに押されたように右側に倒れて入り口からは見えなくなった。
「晃人っ!」
アリシアは背筋に冷たい物が走り抜けるのを感じながら、狼狽し怒鳴り部屋に入ろうと動き出す。それと同時に、不意に吹いた風に煽られたか、狩人と魔獣の戦いの余波か扉が激しい物音を立てて閉まってしまう。
扉に体当たりする形になったアリシアだが、それでも開かない扉に業を煮やして、衝撃に揺れる視界を抑え込むべく頭を左右に激しく振った。金色の髪がそれこそ強風に煽られたように左右に揺れ動く。今一度体当たりをと、身構えた瞬間に響いた絶叫!
扉の向こうから、この世の者とは思えぬ凄まじい絶叫が響き渡ったのだ。その声に最悪を想定して体を強張らせて固まるアリシアは、見てしまった。扉の下、微かな隙間から流れてくる一筋の赤い液体を……。嗅ぎなれた、鉄錆めいた人の血液その物の匂いと共に。血を流さぬ生き物と、晃人しかいない部屋で、それが流れてくる。それの意味する所は……。
「あ、あきひとっっっ!!!!」
最早、アリシアは理性をかなぐり捨てた。命を賭して守る心算だった相棒の名を叫び、無我夢中で扉へ体当たりを繰り返す。痛みや衝撃を無視して三回も体当たりを繰り返せば、扉がようやく開かれて……。殺さば殺せと彼女は部屋に飛び込んだ。
そこでアリシアが見た物は……、あの長い舌を晃人に突き立てながら、爛れた様な皮膚が溶け出し、異様な骨格を露しだした魔獣の亡骸と、外套の左袖を真っ赤に染めながら、微かに発光する短刀を右手に持ち、よろめきつつ立ち上がった晃人の姿であった。
……大堂路邸に届いた場違いなお中元の中に、晃人が望んだ武器が一つだけ紛れていた。小狐丸、狐が共に鍛えたとされるこの刀は、長い年月を経て何時しか退魔の家系に伝わるようになっていた。
多くの魔性との戦いを経ていたこの刀は、何度となく砥がれ、今では短刀としてある家系で振るわれていたのだ。晃人はそれを何とか借り受けていたのだ。そして、この切り札が無ければ、今回の狩りは如何なっていたか分からない。
晃人は腕を貫き、左胸をも貫こうとした魔獣の舌を無視して、獣の口に短刀ごと右腕を突っ込むと言う、捨て身の一撃を放ったのだ。それは獣にとって致命の一撃となった。
「だ、大丈夫、なのか?」
「痛い。だが、生きてる。」
見ればわかるが左腕に突き刺さる舌を抜き取る前から、出血夥しく外套の左袖も赤く染まっていたが、気丈にも晃人は言い切った。血管を傷つけたのか、貫いた舌が異様な動きをして、肉を著しく傷つけたのかは定かではないが、止血を急ぐ必要があった。
アリシアは我を取り戻せば、急ぎ自身のシャツを破り、晃人の左わきに巻きつけて止血の処理を行う。斯くして、三爪の獣との戦いは終わりを迎えた。魔獣の存在を示すのは、異様な悪臭を放つ奇妙な骨格だけとなった。
「必ず仕留めるべし、か。」
「もう喋るな、傷に触る!」
アリシアに止血される間、ロジャーのくれた一言を呟いた晃人だったが、眦に涙浮かぶアリシアに叱咤されては、黙らざる得なかった。意識が薄れるような感覚を覚えながら、晃人は今一度ロジャーのメールに書かれた言葉を思い返すのだ。
『経験豊富、等と言っても私は老いの為に奴を取り逃した。それが我が生涯に渡る最後の、そして最大の悔恨になると分っていても、だ。だが、私の教え子である君の前に奴が現れた。君は私に較べればまだ未熟だが、君は私と違い若い。その若さが必ず力となる。今後、狩人としての人生を後悔なく生きたければ、必ず仕留めるべし。老人が口出しできるのはこの程度だ、健闘を祈る。』
やり遂げましたよ、サー・ラムレイ。胸中でそう師匠に報告しながら晃人は意識を失った。大堂路邸に起きた怪奇なる事件は、こうして幕を下ろしたのだ。
後の話は、簡単だ。アリシアの救急を呼んでくれと言う助けを聞き、清太郎が意を決して階上へと駆け上がってくる。そこで獣の亡骸と傷を負った狩人を見つければ、やるべき事は一つだった。
晃人とアリシアを乗せて運ぶ救急車を、大堂路邸の三人は何時までも頭を下げて見送っていた……。
台風が本邦を襲ったその日、ある一報を受けた大日本帝国陸軍の神海中佐は即座に国際電話を掛けた。魔獣の死は、あちらにとっても痛手であろう。此方としては大堂路修司を殺せたので、如何でも良い事であるが。一応は同盟関係者のよしみだ。
「神海だ。お前の推薦した魔獣が死んだぞ。」
「……相手は?」
「狩人、瑞西狩人協会員だ。」
「此方から、其方に行った狩人は居ないはずだ。」
「……生憎と、我が国が出自の狩人でな。」
僅かな沈黙。それの意味する所は神海とて分っている。電話の相手は人種差別者である。内心は、神海も馬鹿にしているのだろう。そして、亜細亜人に瑞西狩人協会員が居ると言うのが気に食わないのだろうとも。だが、その声に割って入った者は違うようだった。
「ああ、彼か。大した男だ。我らが神聖同盟に欲しい人材だな。」
「馬鹿を言うな! アジア人だぞ!」
「お前こそ馬鹿を言うな! 我らが遠い祖国の皇帝にはアフリカ系とて居るわ!」
スマートホンを用いた三者間同時通話は、まだ実験段階と言われているが既に実用化されている。選ばれた者以外は、現在は扱えないと言うだけだ。
いつも通りの陽気さと鷹揚さを見せるローマ陣営、黄禍論を信じるプロイセン陣営、そして正しき政府に、正しい血筋に政権を返還させたいと願うミカワ陣営。この三陣営こそが、神聖同盟。所属国家の軍部に巣食う獅子身中の虫。
「喧嘩は他所でやれ。ともかく、魔獣……いや、猟犬使いか? 奴の処遇は如何するのだ?」
神海中佐の言葉に程なくして返った答えは、双方ともに一致した内容だった。神海はスマートホンの通話を切れば、小さく息を吐き出して日課の座禅を再開した。それが、数百年に渡る野望に取り憑かれた彼女の日課なのだ。
大堂路邸の狩りについて新聞が賑わって居る頃。帝都日報と言う新聞に小さな記事が載った。奇しくも狩りが行われた夜の事件だ。一人の異国人が本邦で自殺したと言う物だった。最後に風光明媚な大日本帝国を見て、旅立つのだと遺書を残して居たのだと言う。事実がどうであれ、それが公表された事実のすべてであった。