第6話 忍び寄る嵐
二人は夕刻が訪れる前に大堂路邸に戻った。狩りは長丁場になるだろう事が予想された。三爪の魔獣は、うら若い娘を襲う時は精神的に追い詰めて、追い詰めて、追い詰めてから襲うのだ。
正に外道の所業である。だが、気丈な冬子はそこまで追い込まれている訳では無かった。故に、猟犬は冬子を甚振るように夜闇から悪意をぶつけ続けると考えられた。
早急におびき寄せる必要はあるが、無理は出来ない。確実に仕留めなければならない。晃人は狩りの方法を思い描く一方で、ロジャーが書き記した一言を噛み締めていた。
大堂路邸に再び訪れた一ノ瀬探偵事務所の二人は、下男の清太郎やお手伝いの香代子に幾つかの指示を出す。そして、夜が訪れる前に客間を借りて着替えを済ませた。狩りの正当な衣装に。
独逸の黒い森で、仏蘭西のある地方で、欧州の至る所で瑞西狩人協会の狩人は戦ってきた。全身を覆う革製の外套にも、鍔の広い帽子にも、そして口元に巻いた布地にも、魔物との戦いで蓄積された経験が生きているのだ。
魔物の中には、自身の血を毒と化す者もいる。返り血を浴びると言う事は危険なのだ。だから、魔物狩りの狩人は動きやすさを多少犠牲にしても、全身を革製の外套などで覆うのだ。数多の返り血を浴びて、変色している外套を纏う晃人は、年の若さに似合わず、正に古強者の佇まいだった。
コルトパイソンをホルダーに納め、彼自身が以前から使っている刀を腰に佩く。帽子……テンガロンハットは、米国狩人のハワードの形見。人種差別主義者であり、いけ好かない男だったが、真の男でもあったハワードは最後に忌み嫌っていた筈の晃人に己の武具を譲り、立って戦えと助言を残して逝った。晃人の佇まいは、数多の狩りを、狩人の死を乗り越えてきた証でもあるのだ。
一方のアリシアは、帽子を目深にかぶり、晃人の持ち物で、やはり魔物の血の跡が多く残る外套を纏って居た。その恰好で、一旦冬子の部屋に挨拶に向かい、暫し過ごして待機場所である食堂に向かった。
食堂でアリシアは、晃人の指示に従い、椅子に座って時が来るまで休んでいた。晃人も椅子に座って武器の手入れをしたりしながら、いざと言う時を待ち構える。
大堂路家の人々は普段と変わらぬ日常を送る事を要請されていた。冬子は一人寝室で眠り、清太郎と香代子もそれぞれの部屋で休む。
……風に吹かれざわめくのは、大堂路邸の庭に植えられた木々。それらが、この邸宅の闇を濃くしている。なまじ、高級住宅が並ぶ地域の為、街灯は多くない。ましてや、大堂路邸は庭が広く自然が多い為、深い闇を意図せず作っていた。街灯の明かりも碌に届かぬ闇、遠く大都市の明かりが煌々と夜闇を照らそうと、窓近くの闇までは打ち消す事は叶わない。
まんじりとした夜を過ごす狩人達を嘲笑うように、その日は何事も無く夜が明けた……。
朝、狩人二人が冬子の部屋を訪れて様子を伺うも、変わった所はなかった。だが、冬子は疲れ果てた様に部屋から出る事は無かった。晃人も仮眠室として宛がわれた客室で日中は閉じこもり体を休める。
外套を脱いだアリシアのみがスマートホンを駆使して、幾つか調べ物をしたり、何処かに電話を掛けていた。言葉は英語であったり、広東語であったりと多岐に渡っていた。まるで、彼女だけがしっかり休めているようだった。
そして、夕刻が近づくと再び着替えた晃人とアリシアは冬子の部屋に一度赴いて、また一階の食堂で待機するのだ。
二日目の夜も、何事も無く過ぎていく。木々のざわめきだけが響く閑静な邸宅は、闇よりの恐怖とは無縁であるかのように思われた。
それでも、狩人達は諦める事は無かった。だが、何事も起こらなければ動きようがないのも事実。狩人達が来ているときに限り、冬子は不可視の悪意を感じる事は無かった。
喜ばしい事なのに、それが返って彼女の精神を追い詰める。自分は有りもしない影に怯えて居るのではないか? 父の死で精神が病んでしまったのでは? 狩人を恐れて父を殺したソレは来ないだけなのか、それとも……。そんな思考に捕らわれてしまえば、如何に気丈な冬子と言えども精神の均衡が崩れてしまう。
何時しか彼女は日中は全く部屋を出なくなり、朝夕の狩人の訪問を受けるのみとなる。
七月一二日から既に五日が経とうとしていた。この数日は、日中は多くの蝉がその命の最後の輝きを放たんと鳴き喚いている。清太郎が庭の手入れをしながら聞いているラジオからは、明後日にも迫る台風に注意を促す気象予想官の声が響いていた。
しかし、冬子は部屋に閉じこり出てくる気配はない。そうなれば、夏であると言うのに大堂路邸の雰囲気は冬の荒天を過ごす時の様に暗くひっそりとしている。清太郎も香代子も疲れを露にしながら日々の雑務をこなしていた。
地方に住まいの、大堂路邸の事件を知らぬ粗忽者はそれなりにいるようで、郵政省の職員が届けるお中元もそれなりの数が届いていた事も、使用人の二人を少なからず疲弊させていたようだ。
礼の電話や主の不在の理由の説明など、先方に気を使いながら行うのだ。この状況下では、かなり神経をすり減らす。そろそろか、晃人は仮眠室で静かに思う。この雰囲気は、魔が好む不和が潜む。そろそろ、食らいつく筈だ。
そして、運命の七月一九日。いつも通りに狩りの衣装に着替えた二人の狩人が冬子の部屋を出て、食堂に待機して既に数時間。轟々と風が吹き荒れる外を尻目にうつら、うつらとする鍔の広い帽子を目深にかぶる相方に晃人が声を掛ける頃。
台風の到来で木々が激しくざわめいていた大堂路邸を取り巻く物音が一瞬途絶える。草木も眠る丑三つ時……。冬子の部屋のぴったりと目張りされたカーテンが、風が入ってきても居ないのに微かに揺れ動き、灯されていた明かりが不意に消えた。
冬子はベッドの上で布団を頭から被っており、その異変気付いていない。部屋の一角、窓側天井付近の隅、正確にはその角から、ゆるりとした動きで闇が蠢き、滑るように冬子の部屋に入り込む物があった。途端、冬子の部屋に溢れ出るのは異様な臭い。遂に、冬子の父である大堂路修司を殺めた何者かが、冬子の命を狩り取りに来たのだ。