エピローグ 土用の丑の日
真夏の空に響き渡る蝉の声。それに負けない喧噪が一之瀬探偵事務所では、繰り広げられていた。喧噪と言うと何処か剣呑な相争う印象を与えるが、生憎と片方は防戦一方であった。
「二の丑の日は特上でも良いって言ったのは、晃人だ!」
「……言ったが、まさか、いわ橋の鰻だとは聞いてないぞ。」
「一の丑の日は晃人の様態を慮って、食べなかったんだ。その位良いだろう。」
「だからって、一つ八二〇〇円は高いだろう? もっと、抑え目の……いてて。」
いわ橋、帝都にある老舗の鰻屋である。味は格別に良いが、値段も格段に張るのだ。傷はだいぶ良くなり、腕を吊るす必要もなくなった晃人だが、まだ完治には遠い。一方のアリシアは、いわ橋と書かれた割り箸袋を弄びながら、じっとりとした眼つきになって告げるのだ。
「どれだけ心配したと思ってるんだ。晃人が切り札を持ってるなんて聞いてなかったんだぞ。心配で心配で吐くかと思った。」
「……いや、それは敵を騙すには味方からと言う兵法の……。」
「清太郎さんや香代子さんには言って、なんで俺に言わないんだ!」
それは、切り札が不審物として送り返されないためである。そもそも、あの場違いなお中元も半分は目晦ましで、地方の大堂路の縁者に送って貰ったものだ。それが、旦那様の仇討ちになるのですと使用人たちには頭を下げてもらう必要があった。だから伝えたのだ。
そう説明するのだが、アリシアは面白くない。相談無く晃人が動いたことが気に食わないのだ。確かに自分はあまり役に立たなかった。部屋から出ろと言われた時も、偶然とは言え部屋から閉め出された時も、情けなくて情けなくて……。
晃人にはアリシアの責任感が強い事は百も承知していた。だからこそ、決定的な場面でアリシアを遠ざけたのだ。死すら厭わず晃人を庇うことが予想できたから。晃人は狩りがなるか如何かの正念場を邪魔されたくはなかった。魔物は命を賭けねば狩れないのだ。ましてや、アリシアに死んで欲しくなどない。
だが、正直にそう告げるのは、アリシアを傷つけるだろうし、何より恥ずかしい。この思いをアリシアもそれとなく察していたからこそ、精々鰻の値段程度の報復で済んでいる。
「……俺は、お前の役に立ちたいんだ、晃人。」
「十分役立ってる。……ええい、食うぞ。」
意気消沈しかけるアリシアを見て、晃人は強引に話題を変えた。だが、その言葉に待ってましたとばかりに、割り箸を割って鰻を食べ始めるアリシアを見て、自分は謀られたのではないかと言う疑念を覚えてしまった。
だが、男に二言は無い。晃人は小さく息を吐き出して、肝吸いを啜る。いわ橋の老舗の味がやたらと身に染みる真夏の出来事だった。外に視線を転じれば、遠くに真っ白い雲が湧き起こっている。夕方は一雨来るかもしれない、そう思えば器は早めに持っていくかと思う晃人であった。
<了>




