第1話 大堂路邸の悲劇
初夏。風に乗り早鳴きの蝉の声が聞こえている。外の梅雨明けのからりとした天気は、今年の暑さを容易に予想させた。つい先日、今年は盛夏だそうだ、気象庁の予報でそう言っていたよ、と告げた父が今は骸となって居る事が、冬子には信じられないでいた。
いや、家人の全員が信じられない想いでいるのだ。優しかった父が何故にあのような凄惨で恐ろしい死に方をせねばならなかったのか……。
あの日、仕事から帰って来た冬子の父、修司は酷く憔悴していた。お手伝いの香代子が奇妙な父の呟きを聞いたとこっそり教えてくれたことを冬子は思い出す。
父は小さく、恐ろしい事だ、何としても止めさせなければ、そう呟いていたのだと言う。それが何を意味するのかは分からない。続く言葉の意味も良く分からない。
「連中、蛇の御前が亡くなって歯止めが利かなくなったか……。何のために小さな日本を目指したのか、祖父が湛山の言を先々帝に勧めたからこそ、今の世があると言うに。」
湛山とは、石橋湛山であろうか? 宮廷官僚であった曾祖父は48代総理大臣石橋湛山と交友があったとは冬子も聞き及んでいた。大陸の自由主義陣営と共産主義陣営、双方に顔が利く人物であり、植民地放棄政策の提言者。
少なくとも歴史の教科書にはそう書いてある。当時は大日本帝国と名乗りながら、利権を自ら放棄するのかと嘲笑われたと言うが、後に二度目の世界大戦に不干渉を貫き通すには其れしかなかった、と今では内外で評価されている。
冬子は長く艶やかな黒髪を指先で弄りながら考える。そんな歴史的な事実が、皇紀二六八八年、西暦で換算すれば二〇二八年の現在に関係があるのか? 父の死に繋がっているのか? そも、蛇の御前とはいったい誰の事なのか……。
物思いに耽る冬子は、父親が亡くなった時の姿を思い出して、身震いした。何故、温厚で優しかった父が、あの様な酷い死に方をせねばならなかったのか?
父が亡くなったあの日、憔悴したままに書斎に閉じこもった父の絶叫が響き渡ったのは、草木も眠る丑三つ時だ。家人は殆ど眠りに就いていたが、全員がその苦悶に満ちた声ではね起きた。冬子が寝間着の上からガウンを羽織り、急ぎ書斎に向かえば、先に来ていた下男の清太郎が、扉を激しく叩きながら父に声を掛けている。
お手伝いの香代子や美津子も集まって来た。ここに、療養中の母が居ない事が唯一の慰めかも知れぬと冬子は考えた事を覚えている。それほどまでに、剣呑な空気が蟠っていた。
「旦那様! 失礼しますぞ!」
一向に開かぬ扉に痺れを切らした清太郎は、近くの消火器の横に納められていた鳶口を引っ張り出して、ひと声かけてから年に似合わぬ力で、ドアノブ付近に叩きつける。一度、二度、三度と叩けば木の扉に穴が開く。
途端、異様な臭いが漏れ出すが、清太郎は臭いにも腕が傷付く事にも躊躇わず、そこに腕を突っ込んで室内錠を開けた。腕を引き抜きながら、扉を押し開けると……。一層激しい悪臭が部屋からあふれ出る。
むせ返る悪臭に、口元を抑えて中を覗き見た年若い美津子は絶叫を上げて意識を失うように倒れ込む。熟練の香代子は咄嗟に美津子を支えるも、それが精一杯で青白き顔を伏せた。実直な清太郎は、その状況下でも慌てて父の亡骸に縋りつき、声を掛ける。
書斎には、修司の惨殺死体が転がっていたのだ。獣に襲われたように三本の爪跡の様な傷が体に無数に走り、その傷口からあふれる血と毒々しい青みがかった液体が混ざり合っていた。混ざり合う血と液体は、気の良い仕立て屋が仕立ててくれたスーツを異様な色に染め上げている。
その惨状で十分恐ろしいのだが、何よりも恐ろしいのは修司の苦悶の表情である。大きく開けた口は絶叫を放ったまま息絶えたかのようであり、恐怖に濁り見開かれた双眸は虚空をただ睨み付けているようだ。だらりと垂れ下がった舌からも血液が滴り落ちており、生前の父とはあまりに違う様相だ。
だが、冬子を何よりも心胆を寒からしめたのは、父の姿ではなかった。
冬子には……書斎の窓の向こう、夜の闇の奥で何かが蠢めいたように見えた。その何かは、冬子を睨み付けて薄く笑ったような気がした。見えている訳では無い、だが、まざまざと感じる事が出来るのだ。清太郎の慟哭が現実であるように、父の死が現実であるように、それは窓の向こうから見えぬ瞳で冬子を睨め付けているのだ。
アレが父を殺したのだ。冬子は恐怖と共に確信に近い思いがわきおこるも、それに気づいたのは冬子だけだった。あまりの出来事に神経がおかしくなっているだけだ、それより今はやるべき事がある。
気丈にもそう自信を叱咤して冬子は所持していたスマートフォンで救急に電話を掛けようとした。が、指先が震えて上手く番号を押せない。その時始めて、冬子は自身が震えている事に今更ながら気づいた。