表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

Crystal * Clock ーー クリスタル・クロック ーー

作者: ゾロメ

 廃墟の中で少年は目覚めた。

うっすらと瞳を開ける。

朧げな意識が冴えないまま、少年の右手は自動的に動いた。

上体を少し起こし、枕元に置かれたチョークで壁に斜線を引く。

無数の線が描かれた壁。そこにまた、一本の線が加わった。


 軋む鉄パイプのベッドを下りる。

扉もない狭い寝室を出ると、今度は広すぎる部屋が広がった。

マンションから壁を取っ払ったような、吹き抜けた空間。

無機質なコンクリートの壁と床。

その中でキッチンやテーブル、ソファーなどが寄り添うように置かれている。


 少年は窓に向かって歩きながら、メニュー画面を開いた。

これもまた、極めて自動的に。

自身の視界に映された電子画面には、様々な情報が表示されている。

HP、MP。現在のレベル。所持金。各ステータスや武器装備など。

少年は流し目でそれらを一見すると、画面を閉じた。

ここまでが朝の日課の作業だった。

窓の側に立つと、外の街並みが一望出来る。

彼が居たのは高層ビルだった。誰もいない、静かな廃ビル。


 朝の陽光に白んだ街を無感動に見下ろす。

味気ない灰色のビル群の中にあって、街の中央には、異質な白い宮殿が場違いに鎮座している。

そしてその更に向こう。

朝霧に霞んだ遥か彼方には、巨大な壁が建てられていた。

この街をぐるりと囲う、強固な壁。


 壁に囲まれた街。

 ここは、閉鎖された世界。

 既に終了した世界。


 *** 10 ***


『終わる世界』


 頭の中に、囁きが響く。


『終わり続ける世界』


 それかつて、少女が発した問いかけ。


『でも、もし終わり続ける世界なら......』


 実態を失い、囁きがだけが尚も続いている。


『本当に、終わりはくるの?』


 終わらない囁き。消えない問いかけ。


 少年ーークウは、残響する言葉を耳に感じながら、夜の街を歩いていた。

人の気配はない。

静かな都市、と言うのは、都市として矛盾しているといつも思う。

もしかしたら、ここは既に都市ではないのかもしれない。

都市であって都市でない。要するにここは、そんな街だった。

店に入る。髭面の中年店員が、威勢良くカウンターの向こうから声をかけてきた。


「おう、いらっしゃい! 今日は何にする?」

「豚肉とミルク。それから白菜とトマトも」

「オーケー、まいどあり!」

 

 男は朗らかに答えると、食料を袋に詰めながら口を開いた。

”しかし、なんだな。”


「しかし、なんだな」


 クウは男が口を開くより一瞬早く、相手の言葉を予測した。

想定通りの言葉を、なぞるように男が吐く。

”最近魔獣だのなんだの、物騒な世の中だな。”


「最近魔獣だのなんだの、物騒な世の中だな」

 

 購入した商品が自然と消失して、アイテムボックスに追加される。

”この間、客から聞いた話があるんだが、聞いてくかい?”


「この間、客から聞いた話があるんだが、聞いてくかい?」

「いいえ」

「そうかい。んじゃ、またウチに来てくれよな」


 朗らかに言う男には目もくれず、クウは外に出た。

今のは会話ではない。

心の中で、静かに呟いた。

壁にボールを投げているのがキャッチボールとは呼べないように、返事が予測できる会話は、会話とは呼べない。

 ーー五秒後に前から若い女性が来る。

これもまた、クウは正確に予測した。きっかり五秒後に、歩道端の角から若い女性がでてきた。すれ違いざま、彼女は軽く頭を下げる。

 彼女は人ではない。人であって、人でない。先ほどの店員だってそうだ。

この街は、そんなもので溢れている......。

どこまでも空疎な街。壁に囲われた都市。閉鎖された世界。

通りを曲がった先も、全て予測がつく。

投げやりな気持ちで目を瞑って角を曲がりーー。


「きゃあっ!」


 悲鳴が、聞こえた。

ハッと目を見開く。閉じた瞳の闇の中、突如聞こえた不測の変化。

クウは即座に警戒態勢に入った。緊張に耳を澄ませる。

悲鳴は前方にある横道から聞こえたようだった。

布切れの音一つ立てない無音歩行で素早く動き、顔だけで路地裏を見やる。


 一人の少女が、魔獣に襲われていた。

十四、五歳ほどのクウよりも年下な少女だ。

ショートカットの髪は灰色で、震える手には一丁のリボルバーを握りしめている。

魔獣の方は野犬を大きくしたような怪物だった。

 ハイエンド・ダーク・ウルフ。

街に巣食う黒い獣。

手足が細長くヒョロリした印象を受けるが、体長は二メートル以上もある。

決して単体では動かず、仲間と連携して襲ってくる極めて狡猾な魔獣だ。

今も五体のダークウルフが展開し、追い詰めた餌を前に唾液を撒き散らしている。


 少女が罵声と共に引き金をひいた。

弾丸の高い音が街に響き渡る。弾は命中したものの、ダークウルフの体表に赤いダメージエフェクトを写させるに止め、効果はあまりないようだった。

 彼女は死ぬ。

クウは今の一撃で少女のレベルを悟り、確信した。

未来視など必要ない。彼女ではダークウルフを倒せない。

後ろは壁の行き止まりで逃げ場もない。完全に策にはまっている。

 再度弾丸が轟いた。今度は連続して数発。

だがダークウルフが拳銃に飛びつき、噛み払われて少女の手を離れた。

地面を滑った拳銃が、クウの目の前でスライドして止まる。


 クウは周りを見渡した。

これだけの騒ぎなら、”彼ら”は既に見つけているはずだ......。

誰かを探すように視線を巡らせ、目的の人物を発見した。

数十メートルほど離れた高層ビルの屋上に、漆黒の黒装束に身を包んだ影が佇んでいる。

 軍服のような角ばった衣服に、タキシードのように長い裾。

顔までもを黒いベールのようなもので覆い隠した、全身が闇のように真っ黒な人影。

監視人。街の秩序を守る最強の執行者。誰も彼らには敵わない。


 しかし、監視人が少女を助けようと動く様子はなかった。

心で舌打ちする。彼らはいつもそうだ。ただ遠くから見ているだけ。

プロセスには関与せず、結果にしか鑑賞しない。

それが純然たる秩序だと信じている。

少女が殺される、と言う結果が確定するまで、決して動かないだろう。

そしてその時には既に遅いのだ。

 手首を押さえ後ずさる少女。

唸り声を上げ今にも襲おうと距離を詰める五匹の獣。

クウはキリキリと唇を噛むと......やがて脱力するように嘆息した。

選択はいつだって、唐突に迫られる。


 トン、と少女の背が壁に触れた。

咆哮と同時にダークウルフが飛びかかるーー寸前。

クウは路地裏に躍り出た。

一瞬で距離を詰め、跳躍した先頭のダークウルフを上方から地面に殴りつける。

一撃。ただそれだけで、ダークウルフは顔面を潰されると金色のエフェクトと共に消失した。

残りの四匹が即座に対象を変え、一斉に飛びかかってくる。

距離が一番近いダークウルフの頭を掴む。飛びかかってきた勢いを遠心力に変え、ハンマー投げの要領で回して三体を打ち飛ばした。

側面の建物に叩きつけられ「キャンっ」と子犬のような悲鳴があがる。

手に掴んでいた一匹はそのまま首を捻って仕留めた。

 残り三体。

間を与えず、立ちあがったばかりの中央の獣へと跳躍し、ひざ蹴りで横腹を打ち砕く。

吹雪き上がった金色のエフェクトをかき消すように、残った二頭が左右から同時に襲いかかってきた。

クウは軽く身を浮かした。

そのまま寝そべるように宙で体制を横にすると、勢いよく身体を捻る。

そして左の敵に蹴りを、右にアッパーを同時に繰り出した。

凶悪なダークウルフの顔が強制的に歪められ、美しい光の輝きへと瞬時に分解される......。


 着地する。

戦闘の暴音など無かったかのように、街は再び静寂の闇に埋もれた。

金色の光が火の粉のように舞い踊る。

その中に佇むクウを見つめ、少女は呆然として問いかけた。


「あ、あなたは誰.......?」


 クウは答えず、無言で少女を見返した。


 *** 9 ***


 仮想世界『アイ・オン(I.on)』。

肉体から意識を”転移”させ、直接的に仮想空間に入り込む最先端ゲームである。

所謂VRMMOと呼ばれ、現代で一大人気を博しているジャンルの一つだった。

『I.on』。現世を離れ、理想を具現化させた現代のユートピア。

そんな、人々の楽園たる理想世界は二年前。

何の前触れもなしに、唐突に終了した。


『I.onをプレイ中の皆様に、緊急勧告です。アクシデントが発生し、皆様の肉体と意識のリンクが完全に遮断されました。皆様の肉体は既に死亡が確認されています。以後、決して死ないようご注意願います。ゲーム世界での死は現実の死とイコールになりますーー』

『誠に申し訳ありません。しかし、我々では皆様の魂の救済は不可能ーー』

現実世界(リアル)側の都合により、これが最後の通信となります。皆様の幸福とご冥福を、心よりお願い申しあげますーー』


 そして世界は終了した。

いや、より正確に言うのならば、この世界は”閉鎖”された。

どう言う訳かゲームは通常通り機能し続けた。ただ、出ることだけが叶わない。

これだけでも大変なことだが、異変はそれだけに止まらなかった。

 閉鎖と同時に謎の物質、『結晶』が世界に現出したのだ。

結晶。触れたもの全てをガラスに変える、透明な脅威。

それは、最初は誰も気づかないような、小さな欠片だった。

しかし徐々に範囲を伸ばし、今では砂漠のように広がっている。

結晶に侵食された場所に人が行く事は出来ない。

触れた瞬間、ガラスに変わってしまう。

人々はその領域を、結晶界域と呼んで恐れた。

 それが何故発生したのか、一体何なのか。

プレイヤー間では物議が交わされたが、はっきりした事は誰にも分からない。


 曰く、解析不能な未知のウイルスに違いない。

 曰く、ゲームを休止してメンタンスが出来ない故に発生したバグだ。

 曰く、ゲームの維持費が膨大なため、運営が終わらせるために仕掛けた安楽死用プログラムだ。


 何にせよ。

皆が混乱している間に、この世界の王は迅速に動いた。

ランキング一位のプレーヤーにのみ与えられる称号「皇帝」。 

 皇帝は、結晶界域から最も地理的に遠く、正反対に位置するこの街ーーこのSIM(土地)の権限を、ゲーム内通貨で丸々買い占めた。

つまり、街その物が彼の所有物になった訳である。

彼はそこを皇都と名付け、周囲を壁で囲った。のみならずハイランクプレーヤーを身近に束ね、監視人と名付け自らの護衛に当てたのだ。


 退廃した都市の中央に鎮座する、異質な白い宮殿。

その場所こそが皇帝の住まう聖域、皇居である。

近づいた者は魔獣であろうと、人であろうと問答無用で監視人によって排除される。

そして監視人より強い者はこの世に唯一人。皇帝しか存在しない。

結晶界域とは別の、もう一つの絶対不可侵領域。

皇居が世界で一番安全な場所であるならば、クウが住まうこの皇都は世界で二番目に安全な場所な筈だった。

そこで死にかけた少女を連れて、クウは自分の住居、廃ビルへと帰っていた。


「......ここが家?」


 少女は部屋とも呼べない部屋を見渡して、不思議そうに呟いた。

コンクリートが剥きだしの壁や床。

通常部屋を仕切る壁は取り払われ、吹き抜けになった空間を無骨な天井のライトが照らしている。

学校の教室四つ分を縦横に繋げたくらいの大きさである。

生活に必要な家具が揃えて一通り揃えてあり、寄り添うように置かれていた。

奥には窓が一面に広がり、夜の街が広がっている。

 

「そうだよ」


 クウは一言答えると、少女に肩を貸したまま部屋に入った。

どうやらクウが駆けつけるより前に、戦闘で足を負傷していたらしい。

満足に動けない少女をテーブルの椅子に座らせると、クウは収納棚の元へと歩く。

棚には液体の入った便が大量に敷き詰められている。

その一つを手に取り、未だ口をぽかんと開けたままの少女へと差し出した。


「はい、これ。回復薬」

「あ、ありがとう」


 渡しながら、クウはぎこちなく瓶を受け取る少女を観察した。

ショートカットの髪は、息吹くような灰色。

同じく灰色に彩られた丸い瞳。

肌は雪のように白く、来ている服もまた色がなかった。

顔立ちは幼く、背はクウの肩ほどまでしかない。

全体的に美しい少女だと言えた。

例えこの容姿が造られたアバターだとしても、今となっては生身の肉体と変わらない。

 少女は瓶を一口で飲み干すと、元気が出たように笑った。

もっとも身体の負傷が機能的に復元されただけで、体感的に飲む前と後で差などないのだが。


「助けてくれた上に薬までくれて、ほんとにありがとう。あたし、レイって言うの。あなたは?」


 先ほどは無視した問いを、再び無視する訳にも行かずクウは答えた。


「僕はクウ」


 よろしくとは続けずに。


「クウ、っていうんだ。凄く強いんだね、クウって」

「と言うより、君が弱いんだよ」


 遠慮なく断言すると、「うっ」とレイは目に見えて狼狽えた。


「そ、そうかな?」

「うん」

「や、やっぱりそっか〜。あたし、ゲーム開始して一ヶ月で閉じ込められちゃったんだよね......」


 溜息と共に呟くレイに、流石のクウも幾ばくか同情の視線を投げた。


「それは、ついてなかったね」

 

 言いながら、クウは次に何を言おうか考えていた。

魔獣から助けた。回復役も与えた。

もう彼女がここにいる必要はないし、彼女と話す理由もない。

間を置いたのは彼女に何かを言って欲しかったのではない。

ただ、別れ方を思い出せなくなっていたのだ。

なんと告げて人は別れるのか。


「あのっ」

 

 と、手持ち無沙汰の沈黙に耐えられなくなったのか、言葉を思いつく前にレイが声をあげた。顔をあげると、俯きがちにクウを見つめ、ぎゅっと裾を握っている。


「あたし、ここに居ちゃダメかな?」

「......」

 

 嫌な予感に限って当たるのは何故だろう。

憎らしい法則に胸中で唇を噛んでいると、レイは先を続けた。


「あたし、お姉ちゃんを殺した犯人を探してるの」

「お姉ちゃん? 姉がいたの?」

「一年前に死んじゃった。PKされたんだ」

「PK......」


 悔しげに呟くレイを見ながら、クウは反芻した。

プレイヤーキル。

今となっては、仮想世界I.onにおいて最大のご法度。

以前は単なる遊びでも、今では殺人に等しい行為に変わってしまったからだ。

皇都の外。辺境の人々は、この脅威に対し一つの簡単なルールを設けた。

簡単だが、強力なルール。

『PKを行ったプレーヤーは、それ以外のプレーヤー全員でPKする』

目には目を。歯に歯を徹底する事により、PKを牽制したのだ。


 とは言っても、これはあくまで理念であって、本当に全員で戦う訳ではない。

数え切れない程のプレーヤーがいるのだから、元よりそんな事は不可能である。

なので、それぞれの町や村など.......。

そのSIM(土地)で起こったPKは、そのSIMの人々が団結して解決する、と言う意味での全員である。辺境には場所によって独自の法や規則が多い中、これは唯一共通したルールだった。

例外が非辺境の都市。この皇都である。


「犯人を見つけたいのなら、自分で探すんじゃなく、監視人に言うのが一番じゃないかな?」


 皇都においては、監視人がPKを犯した者を抹殺する。

彼らがPKをしても罪に問われる事はない。それが、この皇都でのルール。

監視人は喋らない。彼らはただ、純然たる実行者だからだ。

漆黒の黒装束に身を包み、影となり街を徘徊する。

罪人が入れば裁く。秩序を乱す者は消す。そこに言葉など必要ない。

彼らに開く口はないが、だが耳はあるだろう。

聞くかどうかは知らないが、事情を話せば調査に動くかもしれない。

クウが言うと、レイは慌てるように言った。


「あっ、言ってなかったっけ? あたし、壁の向こうから来たんだ」

「辺境から?」

「精霊の森からね。一般的には皇都には外から入れないって思われてるけど......。頑張って探してたら、偶然だけど入り口見つけちゃってさ」


 誇らしげに照れて頭を掻くレイ。

反対に、クウは険しい顔で言った。


「......外から皇都へ入る事は出来ても、皇都から外へ出ることは確実に出来ないよ

。辺境で起こったPKなら、どうして皇都に来たりしたの?」

「犯人が見つからなかったのよ......。だから、もしかしたら皇都に逃げたのかもって。皇都なら、辺境からは手出し出来ない安全な場所だし」

「あまりにもリスキーだ。もし犯人が皇都にいなかったら、君は永遠に犯人に手出しする術を失ったも同然だよ」


 クウが咎めると、レイはテーブルに沈むように肩を小さくした。

だが小さな声で続ける。


「それでもいいの......。だって、ここは結晶界域から一番遠いところでしょ? 外に居てもいつかここに逃げてくるかもしれないし、来なくたって待ってれば犯人は結晶化して死ぬんだもん。それまであたしは、ここで待つんだ」


 灰色の瞳に確かな意思を持って言うレイ。

それは、凄い覚悟だと言えた。素直にクウは認めた。

結晶が世界を飲み込むまで、どれ程の時間がかかるのか、或いはかからないのか誰にも解らない。侵食速度が不規則だからだ。

レイは永遠を覚悟してここに来たのだ。

例えその覚悟が永遠には続かないとしても、凄い事に違いはなかった。


「でも、ダメだ。ここには居させられない」

「なんでよ?」


 何故か怒ったように頬を膨らますレイに、クウは嘆息した。


「一緒にいる理由がないじゃないか」

「いない理由もないでしょう?」

「君と僕は他人だ」

「なら知り合えばいいじゃない」

「生憎、友人はいらない」

 

 レイは立ちあがった。

キッとクウを睨みつけ、背を向けて走りだす。

出口ーーではなく、窓際のソファーに向かって。

ボフンと音を立ててそこに座ると、膝を抱えて上目遣いでクウを睨んだ。


「決めた。あたし、ここに住む!」

「勝手に決められても......」


 流石に眉間に皺を寄せ厳しい顔をするクウに、レイは反駁した。


「あたしが弱いの知ってるでしょ。今あたしが出て行って魔獣に襲われて死んだら、クウの責任だよ」

「何でそうなるかな」

「川で溺れてる子供を助けない大人は、殺人と一緒なんだから」


 暴論を盾にするレイに対し、反論は思い浮かんだものの......。

クウは口を噤んだ。確かに、このまま出て行かせてもレイが死ぬ可能性は高い。

そうなったら、今までの面倒は一体なんだったのか。

しばし逡巡しーーやがてクウは諦めたように言った。


「わかったよ、君が一人で魔獣を倒せるようになるまで。その期限の間なら、ここに居てもいいよ」

「ほんとっ!? ありがと、クウ!」


 途端にレイは満開の笑顔になると、嬉しげにソファで弾んだ。

それを見やり、再び嘆息する。

ちゃんと”期限まで”と言ったのだが、解っているのだろうか。

窓に近寄り、上機嫌なレイに問う。


「皇都には犯人を捜しに来たんだよね? 何か手がかりはあるの?」


 レイは急な話の切り替えに混乱したように、ソファーからずり落ちそうになりながらも返事した。


「えっ? あ、ああ、うん。目撃した人がいて、どんな人だとか、武器の特徴を教えて貰ったの。犯人は男で、武器は剣。刀身に特徴があって、時計の模様が描かれてたって......」


 退廃してはいるものの、ポツポツと輝きを放つ夜の街並みを見つめながらクウは聞いていた。その背後で、何かに気付いたようにレイが声を上げる。


「そう言えば、クウは素手で戦ってたよね? 武器はないの?」

「あるよ。あそこ」


 予想していたように間をおかず、背を向けたまま指だけで示した。

コンクリートの硬い壁にフックが二つ埋め込まれ、鞘に納められた一本の剣が横倒しに置かれている。レイはそれを見て、不思議そうな顔をした。


「武器があるのに、どうして持ち歩かないの?」

「必要ないからさ。魔獣は素手で倒せるし、皇都で武器を持ち歩いても怪しまれるだけで、いい事は何一つない」

「ふーん、そうなんだ......」


 未だ剣を見つめているレイ。

その顔を、窓に映った反射越しにクウは見ていた。

無言の中でチクタクと。時計の音だけが鳴り響く。

剣と時計。レイの姉を殺した犯人の武器.....。


 *** 8 ***


 翌日、肉が焼ける音と共にレイは目を覚ました。

彼女は壁で仕切られた狭い寝室に寝ていた。

リビングとクウの寝室に隣接して仕切られた、最後の部屋である。

レイはいいと断ったのだが、一つしかないからとベッドを彼女の部屋に移してくれたのだ。クウは適当に寝床を繕って寝た。

寝ぼけ眼を擦りながら、灰色の髪を跳ねさせたレイは不思議そうにクウを見た。


「なにしてるの?」

「料理だよ」


 ありのままを口にする。

クウはキッチンで料理をしていた。

焼けたベーコンの香りが漂っている。


「そうじゃなくってさ。何で料理してるの?」


 間に言葉を付け足して、言い直すレイ。

彼女の言いたい事は解っていた。

『I.on』はあくまで仮想世界であり、腹など減らない。

だが、よりリアリティを求める層の需要に応えるため「空腹機能」のオン・オフが自由に設定出来る。睡眠もまた同じ。

 しかし、だからと言って料理する必要はない。食事は完成されたものを購入でき、ワンタッチで呼び出せるからだ。よって、I.onで料理など粋狂以外の何物でもない。


「趣味、かな」

「へー、意外。クウに趣味なんかあるんだ」

「誰にでもあるよ」

「あたしにもあるかなぁ?」

「さあね。魔獣に甚振(いたぶ)られるのが趣味とか」

「......」

 

 半目で睨んでくるレイを無視して、クウはテーブルに皿を二枚並べた。

そこへ卵を加えたベーコンエッグを載せる。芳ばしい香りが広がった。

拗ねて尖らせていたレイの口が、ぱっと広がり華やいだ。


「わあ、あたしの分もあるの?」

「欲しければね。要らなかったら僕が食べるからいいよ」

「た、食べる!」


 と、レイはいそいそと空中を指で突いた。

恐らく空腹機能をオンにしているのだろう。

焦って他のボタンでも押してしまったのか、罵倒と共にやり直している。

席に着くと、元気よく手を合わせた。


「いただきます!」

 

 食べ物は逃げないと言うのに、レイは犬のように急いで目玉焼きを口に放り込んだ。案の定「あちっ」と唇を離している。

反対にクウは落ち着いた様子で一口サイズに切り離しながら、何とはなしにレイを見ていた。

誰かと食べる食事は久しぶりだ。

......一年ぶり。その日数は、数えなくとも頭に浮かんだ。

毎朝壁に刻んだ線の数と同じだからだ。


「美味しいっ」


 やっと飲み込んだレイが言った。


「あたしもこれから、空腹機能オフにしようかな」

「僕が食費を払う前提で言ってるよね」

「......。さ、皿洗い頑張るからっ」

 

 朝の食事は、嘆息と共にスムーズに進む。

やがて食べ終えると、クウがドリップしたコーヒーを啜りながら、椅子に座り窓の外を眺めていたレイがポツリと呟いた。


「あれが、皇居......」


 窓からは広大な街が見下ろせる。遠く離れた位置に、白い宮殿が建っている。

退廃した街に鎮座する、異質なエデン。

その更に遥か向こうには、街を囲う壁が見える。

皇居。絶対不可侵領域。

住人の手が届かないその聖域は、順番的に壁よりも先に出来た。

だから皇都の外ーー壁の外の住民も、元々ここに居て壁が立つ前に去った人から、存在だけは見聞きしているようだ。

レイにとって、実物の皇居を目にするのは初めてなのだろう。

クウはそれから視線を外すと言った。


「君はここにいる間、魔獣対策のためのレベルアップと、並行してお姉さんをPKした犯人を捜すんだよね?」

「え? ああ、うん」


 顔を戻しつつ、レイは流されるように曖昧に頷いた。

クウは立ち上がり、棚から瓶を大量に持ち出しテーブルに置いた。回復薬である。


「持っていくといいよ」

「持っていくとって......」


 レイは戸惑ったように言った。


「クウは一緒に来てくれないの?」

「何で僕が行くのさ」

「だ、だって。あたし弱いから、一人だと死んじゃうかもだし......」


 どんどん声が小さくなっていくレイに、クウは特に表情を変えずに言った。


「やり方を知ってさえいれば、魔獣に殺されることはないよ」

「やり方?」


 クウは頷く。


「一、皇都内の魔獣は建物の中までは追ってこれない。だから、いざとなったら建物の中に逃げ込んで、魔獣がいなくなるのを待つこと。二、行き止まりには絶対に行かないこと。建物に逃げれなくなるからね。この二つを頭に入れて、大量に回復薬を持ってさえいれば、まず死ぬ事はないよ」


 淀みなく説明するクウに、レイは未だ納得がいかないように言った。


「で、でも、相手が魔獣じゃなくて人だったら? PKされちゃう危険だってーー」

「ないよ」


 クウはこれもきっぱりと断言した。


「監視人がいつどこで見ているか分からない皇都では、PKの心配はまずない。皆なによりも監視人を恐れてるからね」

「だ、だけど......!」


 レイは尚も何か反論しようとして、しかし言葉が浮かんでこなかったのか。

肩を落として沈むように言った。


「不安だよ、あたし......」

「......」


 クウは何も答えず、項垂れたレイの朝の日に霞む、灰色の髪をただ見ていた。


 *** 7 ***


 それは翌日の事だった。

クウは資金を補充するため、魔獣スポットに来ていた。

皇都において、魔獣はランダムに発生する。

どこにでも発生するので、この場所から魔獣が生まれるという意味ではない。

ここで言う「スポット」とは、即ち監視人が魔獣をあえて放置する場所である事を意味する。

 何故放置するのかと言えば、魔獣を狩る事でプレーヤーは金を得られるからである。監視人が全ての魔獣を刈りつくしてしまっては、皇都の人間は金銭を稼ぐ術を失う。そうなると娯楽品はともかく、回復薬などの必需品が買えなくなってしまうのだ。なので壁の中の住人は、皇都に点在する魔獣スポットを定期的に訪れる。

 最も......とクウは胸中で声を漏らした。

それでもここで誰かに会う事など、稀な事だが。

街の人々は亡霊のように、気配だけ残して姿を見せない。


 夕暮れ時。

クウが狩りを終えて廃ビルへと帰宅すると、部屋には温かな料理の香りが満ちていた。しばし沈黙し、逡巡したのちゆっくりと中に入る。

レイはこちらに背を向け、キッチンで慌ただしく作業していた。

窓から差し込むオレンジ色の夕焼けが、描くように彼女の輪郭を淡く照らしている。

クウはそれを見つめ、昨日この少女から聞かれた問いと全く同じ問いを口にした。


「なにしてんの」

「きゃあっ!?」


 レイは手にしていた鍋をひっくり返しかけると、怯えたようにこちらを振り向いた。そして、安心したように嘆息する。


「な、なんだぁ......クウじゃない。びっくりさせないでよ」

「なにしてるの?」


 クウが端的に繰り返すと、レイは鍋を置き胸を張った。


「もちろん、料理だよ。居候させてもらってるんだもん。何か役に立たなくっちゃ」

「ありがた迷惑って言葉、知ってるかな」

「ど、どう言う意味よっ」

 

 言葉の意味は知っているだろうが、レイは怒ったように聞き返した。

クウは肩を竦める。


「人には向き不向きがあるからね」

「あたしだって料理くらい出来るもん!」

「料理が出来るのと、美味しく作れるのとはまた別の話だよ」

「な、なによ。まだ食べてもないのにっ......」

  

 悔し気に唇を噛んでクウを睨むと、再びキッチンに向き直った。


「絶対、あっと言わせてやるんだから......!」


 完成したのはホワイトシチューだった。

食卓に皿を並べ、テーブルで向かい合う。

緊張に俯き上目遣いで見守るレイを尻目に、クウは軽く一口食べた。


「ホワイトソースがダマになってるし、ダシを入れ忘れてるから味がない。それに、人参の大きさも不揃いかな」

「バカっ!」

 

 淡々と指摘するクウに、レイが顔を赤くして叫んだ。


「クウはデリカシーって言葉を知らないの? 初めてだから一生懸命作ったのに」

「初めてにホワイトシチューをチョイスする所が、料理に向いてないんだよ」

「なら食べなきゃいいでしょ!」

「あいにく食べ物は粗末にしない主義なんだ。例えゲームと言えどね」


 何気ない顔でシチューを啜るクウ。

レイは憮然と椅子に体育座りし、ふくれっ面でそっぽを向いた。


 *** 6 ***


 レイが来て一週間が経過した。

あれから料理にはまったのか、それとも意地か。

彼女はよく料理をするようになった。

レイの行動はいつも突発的で、直感的だった。

この日は料理をしよう、この日はレベル上げのために魔獣を狩りに行こう、と事前に計画するのではなく、その日その場で決めていた。

必然、クウの生活スタイルは彼女に合わせられる事になった。

「今日は料理をしないのか。なら自分が作ろう」と言った具合に。


 その日もまた、レイが姉殺しの犯人を捜しに聞き込みに出ていたので、クウが料理を担当していた。

決められた位置にあった調味料が、適当な並び順に変わっている。

ちゃんと元の場所に戻してくれと何度も口論になったのだが、大して変わらないじゃないと言うレイの主張に、結局クウは白旗を上げ降参した。

元より出会ってから今まで、口論で彼女に勝てた試しなどありはしないのだ......。

 不規則に並んだ調味料。

それは変化のないクウの日常に、彼女と言う変化が徐々に溶け込んでいる様でもあった。


「よくない傾向だ」

 

 部屋で独り呟いた。戒めるように。

予測のつかない変化は、予測のつかない結果を生み出す......。


 『終わる世界』


 ふと、囁きがーー。


 『終わり続ける世界』


 いつもの囁きが、耳に木霊した。


 『でも、もし終わり続ける世界なら......』


 今は失われてしまった遠い声。


 『本当に、終わりはくるの?』


 それは、決して終わらない囁き。

頭蓋の中を乱反射し、途絶える事なく小々波を立て続ける過去の残響。

チクタクと時計の音が響く。

世界が終わらないのなら、そこで時を刻む時計もまた終わりを知らない。

止まらない時計など、時計としては歪んでいる。

無限に続く砂時計など矛盾しているように。


 終わらせなければならない。

変化を。変化し続けるこの日常を。

レイ......。彼女は今、PKの犯人を探して周辺住民に聞き込みをしている。

そしていつかは、姉殺しの犯人を見つけるのだろうか......。

もし見つけたら、彼女は仇を討つ気なのだろう。

PKを犯した者は、他プレイヤー全員からPKされる。或いは監視人に。

それが、PKのルール。

 だが彼女は気づいていない。ルールにはいつも裏がある事を。

即ち、PKを犯した事を誰にも知られなければ、制裁としてPKされる事もない。

知られた人間をも消してしまえば、PKなどなかった事と同義になるのだ。

PKを犯したならば、誰にも知られてはならない。

それが裏のルール。


「誰にも知られてはならない」


 包丁に映った自身の瞳を見て、クウは静かに繰り返した。

時計の針が時を刻む。

しかし実はこの部屋にーー時計など存在しない。

時計などないのだ。

時計のない部屋に、針の音だけが響き続けている......。

それはまるで、主人を亡くしても尚続く、遠い囁きのように。


 *** 5 ***

 

 ざあざあと雨が降る。

街は暗雲に覆われ、窓を叩きつける力強い雨粒を、ソファーに膝を抱えて座ったレイがぼんやりと見ていた。


「お姉ちゃんはね」


 唐突に口を開いた。

やる事もなくテーブルで熱いコーヒーを啜っていたクウが、カップを置いて顔を向ける。


「とっても優しかったの」


 灰色の少女。

彼女が紡ぐ、透明な声。


「お姉さんは、君と同時期にI.onを始めたの?」

「うん。お姉ちゃんが一緒にやろうって、あたしの事を誘ってくれたの」

「そう」

「だから、責任を感じてたんだと思う。閉鎖されてからずっと、必死にあたしの事を守ってくれてた」


 ......こんな時、何を言えばいいのだろう。

或いは、何も言わないのがいいのか。

迷いつつも、クウは聞いた。


「事件があった日、君はどこに?」

「あたしは、待ってた......。魔獣を狩りにいったお姉ちゃんを、ずっと別の場所で待ってたんだ。それきり、お姉ちゃんは二度と帰ってこなった」

「......」

「さよならさえ、言えなかった」


 今度こそクウは、何も言わなかった。

レイは膝に顔を埋めた。鼻を啜る音と嗚咽が混じり、雨音に溶けて消える。

やがてレイは再び顔を上げた。憎しみを込めて、窓の外を睨みつける。


「あたしは犯人を、絶対に許さない」

 

 雷が轟ぎ、彼女の顔を青く照らした。


 *** 4 ***


 レイが来てから一ヶ月が過ぎた。

扉が想像しく開き、雪崩れ込むように髪を跳ねさせたレイが入ってくる。


「やったー! クウ、あたしついに回復薬なしでダーク・ウルフに勝ったよ!」


 現在昼時。

部屋の掃除をしていたクウは、箒を手を止めて彼女を振り替えった。

相当乱戦を極めたのか、服のあちこちが煤けている。

晴れやかな笑顔で報告するレイ。そんな彼女に、クウも珍しく笑顔を見せた。


「そっか、おめでとう」

「へへ。ありがとっ」


 照れたのか頭を掻くレイに、クウは笑顔のまま言い放った。


「じゃあ、今日で君ともお別れだね」

「え?」


 凍りついたようにレイは笑顔のまま固まった。

明るい表情が一点、虚を突かれたように狼狽え始める。


「な、なんでさ?」

「だって、君が自立できるまでは一緒にいる、って約束だったよね」

「そ、そりゃそう言う約束だったけど! でも、今更そんなのどうでもよくない? もう長いこと一緒にいて、この生活にも慣れてきたしっ」

「約束は約束だよ」

「そんなっ......!?」


 ガラガラと崩れ落ちるようにレイは膝をついた。

構わず掃き掃除を再開するクウに、抗議の睨みを投げかける。


「クウには情ってものがないの!?」

「僕に情はあるけれど、情に左右されないために約束がある」

「情を殺さないと果たせない約束なんて、そんなの約束の方が間違ってるのよ!」

「君だって同意したじゃないか」

「記憶にないもん」

「僕にはあるよ」

「なによ堅物」


 わーっと泣きながらレイはソファーに飛び込んだ。

うつ伏せで泣き伏せ、しくしくと恨みがましく叫ぶ。


「なによ、なによ。クウのバカっ。そんなにあたしに居てほしくないの!?」

「君に居て欲しくないんじゃなくて、僕は一人で暮らしてたいんだ」

「似たようなものじゃない。どっちにしろあたしを捨てる気なんだ」

「捨てるってそんな......」

「そうじゃない。クウに追い出されたら、あたしどこに行けばいいの?」

「どこか適当に空き家でも見つけてさ」

「あたしの居場所はここだもん」


 レイはソファーに押し付け顔を隠したまま言った。


「ここしかないんだもん。他のところになんて行きたくないよ。もしここを追い出されたら、あたし......」


 本格的に嗚咽を始め静かになる。

クウは頬を掻いた。しばらくの間、啜り泣く音を聞き続ける。

やはりと言うべきか、先に降参したのはクウだった。


「......わかった。ここに居ていいよ」

「ほんとっ!?」

 

 弾かれたように顔をあげ、レイが振り返った。


「まぁ、何となくこんな事になるんじゃないかと思ってたしね」

「ありがとう、クウ!」

 

 レイはソファーから飛び上がり、つたたっと走ってクウの手を握った。

笑顔で握手すると、そのままクウが持っていた箒を奪い取る。


「あたし頑張るね。掃除とか、料理とか、色々さっ」


 涙を腕の袖で拭うと、せっせと掃き掃除を始める。

掃除も料理もクウの趣味だったので、寧ろやらないで欲しかったのだが......。

一生懸命なレイの姿を見ていると、何故だか言う気が失せてくるクウなのだった。


 その晩、二人は初めて一緒に料理を作った。

調理の手順で口論になり、スパイスの量で啀み合い、使い終わった器具を洗うタイミングで喧嘩をしたが。それでも。


「いただきまーす」


 テーブルで向かい合って食べ始める。

口に含んだ途端、レイの顔が喜びに綻んだ。

ぱたぱたと足をはしゃがせる。


「美味しい!」


 感嘆の声を漏らし、今度は伺うようにクウの顔を覗き込んだ。

それに促されてと言う訳ではないが、クウも食べてみる。


「......」


 なぜだろう、とクウは不思議な気持ちでいた。

一人で作るより非効率的で、圧倒的に時間がかかった。

食材も不揃いだし、調味料の分量も適当だ。だけどーー。


「......美味しい」


 それは認めざるを得ない事実だった。

二人で作った食事は、一人で作った食事よりも美味しい。

まるで口に含んだ温度が、そのまま身体に染み込んでいくように暖かい。

夕暮れに照らされたレイの顔が、得意げに言う。


「あたしだって、ちゃんと腕上げてるんだから」

「でも成長速度は遅いかな」

「......」


 レイは半目になり、唇を尖らせた。


「どうして素直に褒められないのよ」

「褒めたら調子にのるタイプだからね、レイは」


 レイは沈黙した。

黙った彼女に、怒ったのだろうかとクウは顔をあげた。

レイは呆気に取られたようにポカンと口を開き、クウの事を見つめていた。


「......どうかしたの?」

「初めて」

「え?」

「初めて、名前呼んでくれた。レイって」

「......ああ。そっか」


 特に意識した訳ではなく、完全に無意識だったので言われて初めてクウも気がついた。何とはなしに気まづさを感じ、頬を掻いて視線を外す。

誤魔化すように窓の外を見るクウと反対に、レイは悪戯な笑み浮かべた。


「へぇー。意外とクウにも可愛いところあるんだね」


 嘆息する。なんだかまるで、弱みを握られたみたいだ。

だが親しくなるとは、本来そういう事なのかもしれない。

弱さを見せ合うこと。

それが、親しくなるということなのかもしれない。


 それから二人はとりとめのない話をした。

辺境の話だとか、空の話だとか、街の野良猫の話とか。

特に意味もないが、意味のない事に意味があるような、そんな話を。

そして日も暮れた頃になって。

ふと、思い出したようにレイが言った。

コンクリートの部屋を見渡して首を傾げる。


「そう言えばこの部屋、時計の音してるけど......」


 部屋を見渡す。


「時計なんてないよね?」

 

 クウは答えなかった。

それまで途絶えなかった会話が途切れる。


「どこからしてるの......?」


 チクタクと、時計の針が鳴り響く。

レイは疑問を浮かべたまま、部屋を見渡すばかりだった。

しかし時計は見つからない。当たり前だ。この部屋に、時計などないのだから。

反響する時計の音。注意すれば、その音源は正確に辿る事が出来た。

壁に掛けられた剣 。クウの武器。時を奏でる音は、そこから響いている。

じっと......気付いたレイが剣を見つめた。


 『犯人は男で、武器は剣。刀身に特徴があって、時計の模様が描かれてたって......』


 暗幕のような沈黙が部屋を覆った。

それはまるで、終わる直前の舞台のように。

終わらせる時が来たのだ。

二人の暮らしを終わらせる時が。

胸中で呟き、クウは静かに瞳を閉じた。


 *** 3 ***

 

 深い夜。電気が消えた部屋の中、クウは窓辺で街を見下ろしていた。

腰には鞘に納められた一本の剣。

壁から外した、己が武器。

闇に覆われた室内を、遥かなる月光のみが照らし、銀色に空間を切り取っている。

その闇の部分から、コツコツと足音が響き誰かが姿を現した。

白んだ月光の領域に足を踏み入れ、顔が露わになる。


「......クウ、寝ないの?」


 灰色の少女。レイ。

クウは背を向けたまま言った。


「レイこそ。もう遅いよ」

「そうだけど......」


 レイはしばし躊躇したように立ちすくんだ。

不安げに両手を胸の前に重ねたまま逡巡する。

やがて意を決したように、か細い声を発した。


「あ、あのさ」


 それを遮るように。

クウは振り向きざまに剣を抜いた。

金属の高い音が楽のように響き、刀身が露わになる。

はっとレイが息を飲んだ。


 剣腹にはーー無数の時計の模様が描かれていた。

淡いオレンジの光で象られた、大小様々な時計。

全ての針が同時期に、揃って秒針を進めている。


「クウ。そ、それ......」


 レイは目を見開き、 信じられないものを見るように震えた声を発した。

それを制するようにすっと腕を上げ、剣先をレイに向ける。

月光を浴びて月色に染まったクウの表情は、まるで温度がないように冷たい。


「PKにはルールがある。それは、不文律の裏ルール」

 

 唄うようにクウは言った。


「PKを行ったプレーヤーは、それ以外のプレーヤー全員でPKする」


 死人のような冷たい声音で。


「ただし誰にも知られなければ、その者がPKによる制裁を受ける事はない」


 怯えるように後ずさるレイに、止めのナイフを突き刺した。

心を抉る言葉のナイフを。


「君のお姉さんは、僕が殺した」


 刹那。カッと目を見開いたレイが叫んだ。


「嘘だあ!」


 瞬時の抜き身でリボルバーを腰から取り出し、クウに狙いを定める。

冷や汗が流れる。

世界がグラつくような感覚を覚えながらも、レイは必死に立ち続け問いかけた。


「あたしを、ずっと騙してたっていうの!?」

「それは違う。僕は一度だって僕が犯人じゃないとは言わなかったし、君も聞かなかった」

「でも黙ってたじゃない。あたしがずっと、ずっと探してる事を知ってて......!」

「自分から名乗りでるバカがいるかい?」

 

 それはもっともな正論だったが、元に今クウは自白している。

何とはなしに、先ほどの言葉が頭をよぎった。


『誰にも知られなければ、その者がPKによる制裁を受ける事はない』


 レイは状況を見据え、ただ一つの結論を口にした。


「あたしを、殺す気なの......?」


 武器を向け合い対峙する二人。

涙が出てきた。視界に写ったクウの姿が歪む。

たったの一ヶ月。

瞬きをする程の短い日々。

それでも、レイの孤独を救ってくれた一ヶ月だった。


「どうして!? 殺す気なら、どうしてあたしを助けたりしたのよ!?」

「あの時は、君が彼女の妹だとは知らなかった」

「でもすぐに気づいたでしょう? なのにっ」

「君は勘違いをしている」


 淡々と告げていたクウが、唐突に腕を下ろした。

その手から剣が離れ、重たい金属音を立てて地面に弾む。


「僕が君を殺すんじゃない」


 銃を構えたまま戸惑いを浮かべるレイに、クウは言った。


「君が、僕を殺すんだ」


 やはり、淡々と。

まるで死人のように。


 *** 2 ***


 終わる世界。

 終わり続ける世界。

 でも、もし終わり続ける世界なら......。

 本当に、終わりはくるの?


 それは、今は消えてしまった少女が残した囁きだった。

仮想世界I.onが閉鎖された二年前。

唐突に閉ざされたゲートを前に、なす術もなく数多のプレイヤーは置き去りにされた。

彼らの行動は大きく分けると、二つに分類された。

破滅を望むものと、生存を望むもの。

 前者からはPK実行者が生まれた。

自暴自棄になり、狂気に取り付かれた無数の怪物達が。

それに対抗するため、後者の者達は共通のルールを打ち出した。

それがPK制裁である。

しかし、破滅を望む者達が必ずしもPKに走ったわけでは無い。

この世界には希望があったからだ......絶望という名の希望が。


 結晶。触れたもの全てをガラスに変える、透明な脅威。

理由もなく発生し、意味もなく広がり続けている無機の砂漠。

絶望に駆られた者達の多くが、自ら進んでその死の領域に足を踏み込んだ。

クウと一緒に居た少女もまた、そんな一人だった。


「行こう!? クウ、私と一緒に結晶界域に行こう!?」


 少女は終わりが怖かったのではない。

終わらない事を、彼女は恐れたのだ。

悩んだ末に、クウは少女の願いを受けいれた。

死にたいと思ったことはなかった。

ただ、彼女と一緒なら死ぬのも悪くないかなと、そう思えただけだった。


 二人は結晶界域に向かった。世界の中心たる皇都。

そこから最も遠い場所に位置にする、世界の果て。

荒涼な砂漠の半分が、結晶の輝きに満ちていた。

ゆるやかな砂山の上で圧倒的なその風景を目にする。

一粒一粒が結晶化したのだろう。

見渡す限りの地平線にガラスの砂が広がっている。

その光景は疑いもなく美しかった。美しく、そして恐ろしい。

 少女と手を繋いで、強く握りしめる。

風に揺れる髪を片手で押さえて、彼女は微笑んだ。


「いこう? クウ」


 答えようとして。


「よお。お前らも、クリスタルに用があんのかあ?」 


 後ろから声をかけられた。

振り返ると、髭を生やした男がいた。

目の焦点が合っていない。何がおかしいのか、口元がニタニタと笑っていた。

素早く少女を守るように背で庇うクウには目もくれず、男は独り言のようにブツブツと言葉を続けながら歩き出した。


「へっへ。俺もなんだよお。俺もクリスタルに触れに来たんだあ」

 

 男は砂の山を滑り降りた。

サラサラと砂が流れ落ち、降りた先の結晶に触れて透き通る。

男は滑り終えると、ゆっくりと歩き出した。


「ヒヒっ。俺ぁ、俺ぁもうこんな世界まっぴらなんだよ......! だからあ......」


 ぴしぴしと。

踏みしめた足元から、氷つくようにガラスに変わり出した。

男の顔が、空虚なる法悦に笑う。


「これで......楽になれ......」

 

 男の言葉はそこで終わった。

完全なガラスに変わり果て、筋力を失った身体が徐々に傾く。

ゆっくりと地面に倒れ、輪郭が粉々に砕け散った。

まるで男など最初からいなかったかのように。

少女の手が強張るように力を増し、クウの手を握った。

ごくりと生唾を飲む音が聞こえ、緊張した声音で言う。


「さあ、私たちも」


 それを遮り、クウは少女を抱きしめた。


「イヤだ」


 力強く。目一杯の力で。

少女がクウを突き飛ばした。

失望したように表情を落とし、目に涙を浮かべて叫ぶ。


「約束したじゃない......!?」

「ごめん。とにかく僕は、イヤだ」

「.....ここまで来て、裏切るっていうの?」

「ああ......」

「.....どうして?」


 割れたガラスように少女は鳴いた。


「どうして私と一緒に、死んでくれないのよ!?」


 ーークウは答えられなかった。

死ぬのが怖かった訳でない。ただ、耐えられなかったのだ。

少女という存在を失うことが。

あの男のように、意味も何もかも飲み尽くされた透明なガラスに、少女が変わり果ててしまう事が。

それはクウのエゴだった。少女にいて欲しい。その気持ちを押し付けた。

それが、悲劇を招いた。


 世界が閉鎖されて一年ほど経過したある日。

クウは少女と精霊の森を歩いていた。

レベルの高い魔獣に襲われた後で、二人とも満身創痍だった。

 ......少女が不安定な事には気づいていた。

元々危ういバランスの上に成り立っていたのだ。

それをクウが力を尽くし、強引に”正常”として保たせていた。

だが厳しい戦闘を強いられた後で、緊張の糸がぷつりと切れただろう。


 少女はついに、発狂した。


 剣を抜き、森の中を走る少女をクウは追った。

少女の手にも同じく武器が握られている。

筋力を無視したゲームならではの、自身の背丈にも匹敵する大剣だった。

必殺技を発動しており、刀身が紫に禍々しく輝いている。

 森を抜ける。木々を抜けた先には、一人の少女が居た。

クウと同い年ほどの、灰色の髪の少女。

花でも積んでいたのだろう。

長く美しい髪をなだらかに傾け、鮮やかな花畑の中に座り込んでいる。

彼女は突如として現れた脅威に、石のように硬直していた。


 クウは舌打ちした。灰色の少女は明らかに防御が間に合わない。

しかし、クウもまた少女との距離が人一人分を置いたまま縮まらなかった。

間の悪さを呪った。

クウの必殺技は時間操作で、時を一時的に止める事が可能だった。

普段なら簡単に少女を止める事が出来たのだ。

しかし、MPは先の戦闘で使い切ってしまい今は時間停止が使えない。

止める方法はただ一つだった。

少女との距離を剣で埋めること。

だが先の戦闘で、少女のHPはゼロに近くなっているのも分かっていた。

クウが一撃でも攻撃すれば、少女のライフはゼロになるだろう。

 灰色の少女のレベルは判らない。

しかし反応できずに腰を抜かしているところをみれば、さして高くない事は伺えた。少女の必殺技を食らえば、一撃で死ぬ可能性が高い。


 ......だけど、死なないかもしれない。

言い訳のようにクウは虚しく呟いた。

剣を握る手に汗が滲む。迷いと。甘えと。焦りと。

何も決められずにいる間に、灰色の少女の元に到達した。


「いやあっ......」


 怯えて顔を歪ませる灰色の少女を見てーークウは夢から覚めたように、目を見開いた。

剣に力を込め、追いかける背に向かって振るう。


 時が止まったような静寂が場を包んだ。

 クウの剣は少女の背を切り裂いた。

 対して少女の大剣は、灰色の少女の胸を貫いていた。


 一陣の風が吹き、花びらが頬を掠める。

はぁはぁと荒い呼吸を繰り返すクウの前で。 

少女は振り向いて、涙に濡れた顔で微笑んだ。


「ごめんね、クウ......」


 金色のエフェクトが舞い上がった。少女の姿が淡く消える。

灰色の少女は、信じられない面立ちで自信の胸を見下ろしていた。

彼女は一瞬クウと目が合うと......ぱっと幻のように儚く散った。


 金の雪が舞う花畑。

その中にただ一人。クウだけが残された。


 *** 1 ***


「僕はこの世界を牢獄として生きてきた」

 

 月光に照らされ、罪を告白するようにクウは語った。


「一年前、僕は皇都に来た。この街が世界で最も安全な場所だからだ。ここなら、いつまでも僕を生かしてくれる。それが罰だと思ったんだ」


 壁に囲まれた皇都は正しく牢獄だった。

ここにいる人間は、内側から空虚になっていく。

結晶化するように心を凍らせ、腐らせていく。

 レイは銃を構えたまま全てを聞いていた。

いつのまにか腕の震えが止まっている。

透き通った灰色の瞳が、静かにクウを見据えた。


「なら、どうしてあたしに教えたの?」

「最初は教えないでおこうと思った。だけど、こうするのが一番だと思ったんだ。君には真実を知る権理がある。PKをする武器もね」

「皇都でPKをしたら、監視人にPKされるんでしょ?」

「この部屋の時間は、僕の能力で切り離されてる。ライフゲージも減らしておいたからレイでも一撃で殺せるよ。監視人に見られる心配はない」


 クウの背後の窓から差し込んでいる月光の入射角が、外と内とで違っていた。

下を見てレイはそれを認めたのだろう。

再び顔を上げると、クウを睨んだ。

怒りを込めた鋭い瞳で。

 ちくりと胸に痛みを感じ、クウは内心で皮肉に苦笑した。

こうなる事を期待して告白したのだろうに。

何を今更傷つく事があると言うのか。


「......っ!」


 引き金を握るレイの指に力が込められる。

眠るようにクウは目を閉じた。

リボルバーの高い銃声が闇夜に響く。

静寂とガラスを、弾丸が貫いた。


 *** 0 ***


 白んだ朝日が室内を照らす。

トントンと、レイはキッチンで日課となった料理をしていた。

無機質なコンクリートの床には、砕け散った窓ガラスが散乱している。

広い廃墟に彼女一人。

他には誰もいない。

レイはテーブルに皿を一枚だけ並べた。

手を合わせて食べ始める。

一人で食べるのは久しぶりだな、なんて思いながら。

そこへ。


「あ、おはよ」


 壁に仕切られた向こう側から少年ーークウが姿を現した。

いつもと変わらない様子であいさつをするレイに、慣れない調子で返す。


「......おはよう」

「あんまりにも気持ちよさそうに寝てたから、先に食べちゃった」

「別にいいけど」


 なぜ自分は生きているのか。

キッチンから皿をもう一杯並べるレイを見つつ、腰を下ろしながらクウは改めてそんな事を思った。


「どうしたの? ぼおっとして。食べないと冷めちゃうよ?」


 食べ始めると、レイは楽しげに朝食の出来栄えについて語った。

それを聞くともなく聞きながら、クウは昨夜の事を思い出していたーー。


 高い弾丸の音が響き渡る。 

クウは脱力し、散らばるガラスと共に地面に座り込んだ。

パラパラと破片が地面に落ちて弾ける。

 ”座り込んだ?”

疑問にクウは呟いた。

おかしい。死んだならば、自分は消える筈だ。

消えたならば座る事も出来ない。

なのに何故、地面を感じているのか。

違和感に気づき、ゆっくりと瞼を開いた。

 目の前にはレイがいた。

リボルバーを握り、先ほどまで自分が立っていた高さに腕が掲げられている。

だがその方向は僅かに逸れていた。

銃身が横にズラされ、背後のガラスのみを撃ち抜いている。

外れた。いやーー外された。


「お姉ちゃんを返してって......」

 

 震える声でレイは吐き出した。


「犯人は許さないって.......そう、思ってた」


 クウは呆けたまま聞く。


「どうして?」

 

 どうして自分を撃たなかったのか。

レイは俯いて前髪に隠れていた顔を上げる。


「どうして......ですって!?」


 レイは泣いていた。

赤くなった目で、怒ったようにこちらを睨みつけている。

構えた手先から銃が溢れるように落ち、カッと地面を転がった。

だがそれには目もくれず、勢いよくクウに歩み寄りながら叫んだ。


「クウこそ、どうしてそんな悲しいこと聞くのよ」

「僕は君のお姉さんを殺したんだ」


 戸惑いながら答える。

レイが何に怒っているのか理解できない。

だがレイは憮然とした態度で言い返してきた。


「他人のやった事を自分のした事にするのは傲慢よ」

「だけど、発端は僕だ」

「じゃあ始まりはどこなの? 世界が閉鎖されたのも自分のせいにするつもり?」

「そんなのはーー」

「あたしは......!」


 反論しようとするクウを、レイは強引に遮った。

涙に濡れた目で真っ直ぐに見つめてくる。


「あたしは、クウがいないと寂しい」


 当たり前の事を聞くように問いかける。


「それじゃいけないの?」


 唐突な言葉に、クウは目を見開いた。

咄嗟に反駁しようとする。

しかし、言葉はでてこなかった。

そんな事を言われるなど、思ってもみなかったのだ。

 何かを言おうと口を開き、何も言えずに閉じる。

それを何度も繰り返しーーやがてクウは、静かに下を見た。

俯いたのではない。ただ、耳を傾けたのだ。


『クウがいないと寂しい』


 それは緩やかに胸に響いた。

頬に触れられるような暖かさを感じる。

寂しい......。人がいないと、人は寂しい。

それは確かに、当たり前のこと......。

 止まった時間が動き始める。

向かい合った二人。月光により象られた影が、針のように回り出した。

レイは黙ってクウを見つめていた。

クウは座り込んだままいつまでも聞き続けた。

耳に残ったレイの言葉を。

久しく忘れていた感情を、胸の奥に感じながらーー。


 ......きっと、言葉だったんだ。

思い出しながら、なんとはなしにふと悟る。

今はもう消えてしまった少女。

彼女にすべきだった事は、きっと言葉を伝える事だったのだ、と。

 それは自分には出来なかったこと......。

言葉と言うのは伝えたところで、相手が聞くとは限らない。

自分の言葉に少女を繋ぎ止める力など、ないのではないか。それを恐れた。

だがそれでも伝えるべきだったのだ。

レイのように、素直な言葉で。


「ーーねえ、聞いてるのクウ?」


 ふと名を呼ばれて現実に引き戻された。


「ごめん、何の話だっけ?」

「もうっ。だから、あたしが一人でダークウルフを倒すところを見て欲しいんだってば」

「何で?」

「なんでって.......見て欲しい、から?」

 

 レイは言っておきながら、自身でも首を傾げた。

だが理由などどうでもいいとでも言うように首を振ると、拳を握って立ち上がった。


「とにかく! 行こう、どうせ暇でしょ」


 クウは思わず声を出して笑った。

確かにどうでもいいかもしれない。

一緒にいるのに、理由なんていらない。

”ただ居たいから”。

それでいいのかもしれない。


 割れた窓を通り越して、朝の空気が流れ込んでくる。

まるで外へと誘うように。

息を吸う。心地よいが、少し冷たい街の風。

それを胸に感じつつ、外の街を見渡した。

退廃したビル群。鎮座する白い宮殿。街を囲う巨大な壁。

息を吐き、クウは遥か彼方で今も広がり続けている結晶の事を思った。


 遠い、遠い未来。

或いは、そう遠くない未来に......。

世界がガラスに覆われる日が、きっと来るだろう。

それまで心を凍らせずに生き抜く強さは、人にはない。

だが一人ではダメでも、二人なら乗り越えられるかもしれない。


「ねぇ」


 レイが笑顔で手を差し伸べる。

 

「早くいこう?」

 

  いつの日か。


「......うん」


  世界がガラスに包まれる、その日まで。


「いこうか、レイ。一緒に」


 クウはそっと、小さな手を握った。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ