生命の声
海から遠い、人里離れた山間にある児童養護施設、玉野学園。
梅雨の合間の日差しがグラウンドに点々とできた水溜りに反射してキラキラと眩しい。
施設の正門から職員に見送られ出てきたのは50歳前後のスーツ姿の男性とリュックを背負った小柄な少年。
「それでは佐藤さん、一夏君の事をよろしくお願いします」
施設の責任者であろう初老の男性は男性に手を差し出す。
「わかりました。彼の事は責任を持ってお引き受けします」
男性はスーツの少し長めな裾を手で手繰り握手を握った。裾合わせもできていない、見るからに下ろし立てのスーツのに身を包む男性に一抹の不安を覚えながらも、何かあった時の連絡用として名刺を手渡した。
新しい家族と第一歩を踏み出す門出、だがしかし少年は帽子を目深にかぶりうつむいたままだ。
責任者の後に控えていた若い女性職員は少年の顔を隠す帽子のツバを後ろに回し目線を合わせる。
『佐藤さんと仲良く、良い子でいてね。また何か困った事があったらいつでも連絡してきて。これからが大変かもしれないけど、元気でね』
そう口にしながら手話で伝えた。そう少年は耳が不自由なのだ。
ふと建物から少年と同じ年頃の女の子が一人走ってくる。そして息を整えるのもそこそこに、覚えたばかりなのかたどたどしい手つきで手話で何かを伝えた。
『元気でね、またどこかで会いしましょう』
そしてその手を差し出す。彼女はいつも友達のいない少年のことを面倒見てくれた。優しいお姉さんのような女の子だった。
その手を掴もうとするが何かが少年をためらわせている。そしてその手を受け取らず、少年は目に涙を貯め、待たせていたタクシーの後席に逃げるように乗り込んだ。
☆
電車を乗り継ぎ、バスに揺られること三時間、二人は四国の南の端に近い海に面した小さな町に降り立った。だがここもまだ終着点ではないようだ。男性のものであろう、駐車場に止められた錆だらけの白い軽ワゴン車に乗り込み三時間は走っただろう。小さな岬の高台にある男性の家に着く頃にはもう日も傾き、西の水平線に触ろうとしていた。
車から降りた一夏は水平線広がる海。そいてそこに映る夕日に目を奪われていた。ふと、赤く染まった海に何かが跳ねた。かなり大きな生き物なのだろう、大量の水飛沫を上げ再び海中へと消えて行った。
『クジラだね。この辺りの海には時々姿を見せる』
男性はどこから取り出したのかホワイトボードにそう書いて一夏に見せた。
『今はこんな方法でしか伝える事ができず申し訳ない』
「いえ、こちらこそよろしくお願いします」
一夏は帽子取るとたどたどしい言葉遣いで言った。
『なんだ、ちゃんとしゃべれるんだね』
「はい、六歳まではちゃんと声も聞けれていたらしいです」
『らしい?』
男性はサインペンを走らせる手を止めた。何も言わず俯く一夏を見てその文字を消した。
『まぁ長旅で疲れているだろう。とりあえず夕食にしようじゃないか』
空気を読んだ男性がそう書き直し終わる前、背後から何かが男性の体を体当たりで吹き飛ばした。ホワイトボードと同じようにひらひらと吹き飛んでいく男性。何が起こったのか目をまんまるに見開く一夏。
そこから飛び出してきたのであろう、開け放たれた勝手口のドア。そこに立っていたのは一夏よりさらに小柄な女の子だった。女の子は今まで風呂にでも入っていたのかびしょ濡れで、バスタオル一枚という姿だった。
目のやり場に困っていた一夏に構わず女の子は子犬のように抱きつく。甘い香りと、そしてなぜか潮の香りに包まれる。
人に触れられるのを嫌う一夏だが、今は完全に不意を突かれた。一夏の中にその女の子の心の色が広がる。
『やっと会えた・・・』
底の見えないどこまでも真っ白で満たされたその女の子の心の色。そして一言。
一夏は触れた人の心の声が聞こえてしまうのだ。
それは良い事ばかりではない。一夏は望まずに人の心の中を見てしまう事になり、そのせいで人を信じる事ができなくなってしまった。そしてそれを恐れ、人と触れ合うことも拒んでしまうようになったのだ。
だがしかしその女の子の奥底まで真っ白な心に一夏は不思議と安心感を感じていた。
ふと、一夏はその置かれた状況に我に返り顔を真っ赤に染めた。女の子を突き放し、男性の背後に逃げ隠れた。
『娘の汐音だ。君と同い年だ。仲良くしてやってくれたまえ』
☆
三人で食卓を囲み初の食事会。男性が自己紹介を兼ねてキャスター付きの大きなホワイトボードに貼った海の生き物を指差し、自分の研究を簡単に説明した。佐藤潮、海洋生物学研究家。今はスーツを脱ぎポロシャツに白衣を着ている。正直そんなすごい人には見えない。
汐音はそんな事お構い無しに白魚のムニエルを美味しそうに食べている。
一夏は自分がどうすればいいかわからず、料理に手をつけるでもなく二人の様子を見ている。
そんな一夏を見かねてか潮はホワイトボードを裏返し、サインペンを一夏に差し出した。そして君の気持ちを見せて欲しい、そんな目を投げかける。
サインペンを受け取った一夏は真っ白なホワイトボードの前に立ち尽くしていた。一つだけ気になる事はある。だがしかしそれは聞くべき事なのだろうか?しばらく悩んだ後、意を決してペンを走らせた。
『僕を引き取ってくれたのは、あなたも僕の力に興味があるか(らですか?)』
そう書き終わる前に潮は一夏の手ごとペンを動かし、その文の上に大きく
『NO』
と書き重ねた。そしてあらためて一夏からペンを受け取ると返事を書いた。
『五年前、私も専門外ながら一応君の事に関する論文は読ませてもらった。だが正直そんな戯言に興味は湧かなかった。私たちはただ君にあの時のお詫びをしたい。ただそれだけなんだよ』
一夏にはそれがどういう意味なのか思い当たる節がない。返事に困った一夏はふと汐音と目が合った。汐音は魚を口いっぱいほおばったままニコッと笑った。
そんな団らんの外、岬に向かう道に一台の車が止まった。
☆
翌日の朝、ソファーで寝ていた一夏は早朝のひんやりした風に目を覚ました。
潮と汐音は大きなベッドで仲良く並んで大の字になって寝ている。一夏も一緒に寝ようと誘われたがとてもいきなりそんな気にはなれなかった。
開けっ放しになっていた窓をそっと閉じる。もう朝日は水平線の朝靄の上まで登り外は明るくなっている。窓の外には岬の先にある展望台が見える。
一夏はふと海が見たくなり家を抜け出し展望台へと歩いた。
朝早く展望台にはまだ誰もいない。一夏は展望台から身を乗り出し海を見回す。どっちを向いても水平線。
ふと一夏はこの風景にデジャヴのようなものを感じた。大きな旅客船の展望台。見渡す限りの水平線。そして両親?一夏は忘れていた記憶の断片を開きかかけた。
その時、一夏は背後から何者かに羽交い締めにされた。そして口に何か布のようなものを押し付けられる。胸をつく異臭、抵抗する間もなく一夏は意識を失った。
☆
一夏はゆっくりと目を覚ました。ここはどこ?一体何が? まだはっきりしない頭で自分の置かれた状況を確かめようとする。
どうやらここは大きなクルーザーのキャビンの中。揺れの感じから船は結構なスピードを出しているようだ。窓の外は真っ暗闇。どこに向かっているのかさえわからない。
キャビンには大柄な外人らしき男性が三人。一人は舵を握っている。もう一人アロハシャツを着た大男が一夏の意識が戻った事に気がつく。もう一人口ひげを蓄えた男性を手招きして一夏の向かいのシートに座る。
一夏は三人の誘拐犯に警戒しつつ身体を起こした。船の上逃げられる心配はないと踏んだからか特に束縛されている様子はない。
『手荒な事をしてすまなかった。私は環境保護団体オールブルー日本支部のリチャードだ。』
アロハシャツの男性がそう話したのを口ひげの男性が手話に置き換える。
リチャードは握手を求め手を伸ばすが一夏は身を引いてそれを拒んだ。
『あまり警戒しないでほしい。私たちは君に協力をしてもらいたいだけなのだよ』
その手を遮るかのように通訳のヒゲの男性が割って入る。
『五年前あの君に関する論文を読んで我々は運命のようなものを感じた。動物たちの声を聞く事のできる能力。君がその力で絶滅に瀕したクジラたちの声を世界に伝えて欲しい。そうすればきっと彼らは救われる』
これで一夏は自分が連れてこられた理由がはっきりわかった。だが一夏は彼らに触れずとも何か嫌悪感を感じていた。
ふと隣のテーブルが目に入る。ディナーの後か、無数の皿の上に食べ散らかされた肉の端切れ。
それを見てその感覚は確信に変わった。五年前の出来事がフラッシュバックのように脳裏をよぎる。忘れてしまいたかったあの出来事が。
「なぜクジラだけなの?」
それは手話ではない。一夏の腹の底から搾り出したような力のある声。
『クジラは人間に近い知能を持った生き物だ。言葉を持っている。彼らは特別なんだよ』
その一言で一夏の中で何かが弾けた。
「綺麗事を言うな!」
一夏は力の限り叫びリチャードに全体重を乗せて体をぶつけた。先程までおとなしかった少年の変貌に度肝を抜かれたリチャードはキャビンの床に大の字にで横たわっていた。
「クジラだけじゃない、牛や魚だって、小さな虫だって言葉を持っているんだ!」
小さい頃のトラウマに触れられた一夏は肩を震わせ叫んだ。そしてもうたくさんだとばかりにキャビンのドアから飛び出す。だがしかしそこは真っ暗な夜の海の真っ只中。クルーザーもかなりのスピードを出しているのか波のうねりがあっという間に後ろに消えていく。逃げ場などどこにもない。途方にくれる一夏。
『飛び込んで、私がここにいるから!』
ふと頭の中に聞こえてくる声。その声に一夏は聞き覚えがあった。そして一夏は全てを委ね真っ黒な海へと身を投げた。
☆
三百六十度見回しても水平線しか見えない海の真っ只中。救命ボートにはただ一人六歳くらいの少年がうずくまり遠くを見ていた。
もう何日前になるのだろう。目の前で大きな客船が沈んでいくのを見たのは。その中にいる両親を求め泣き叫んだのは。
海はあの嵐が嘘のように静まり返っている。打ち寄せる波の音以外何も聞こえない。それが何日も続き少年の耳はおかしくなってしまいそうだった。
ふとボートの下の海が突然盛り上がる。姿を見せたのはボートの何倍もある大きなクジラだった。そして少し離れた所からさらにその倍以上もあるような山のように大きなクジラが浮かび上がってきた。
小さい方のクジラが潮を吹き出し小さく鳴いた。
『どうしたの・・・?こんなところで』
少年の耳にはその鳴き声がぼんやりとだがそう言ったように聞こえた。
「船が沈んじゃって・・・みんないなくなってしまった」
何日かぶりに会話ができて、少年の寂しいという思いが一気に弾けた。もう枯れたと思っていた涙が溢れ出す。
『泣かないで、誰かが見つけてくれるまでわたしたちが一緒にいてあげるから』
その言葉通りクジラたちはボートに寄り添った。少年は寂しさを紛らわすためにクジラたちと話をした。
だがしかしそんな平穏な時はあっという間に過ぎ去ってしまう。ついにボートにあった非常食が底を尽きてしまったのだ。少年は最後のクッキーを食べてもう何日も何も口にしていない。見かねたクジラが捕まえた魚をボートに投げ入れる。
『やめて、お願い。見逃して!』
しかし少年の耳にはその魚の嘆願の声が聞こえてきてしまう。情が移ってしまいそのまま逃がしてしまった。
『なにしてるの?お腹空いてるんでしょ。食べなくちゃ!』
これで大丈夫と安心した子クジラは少年のとった行動に信じられないといった様子。
「だめだよ・・・かわいそうだもん」
少年はうずくまり空腹に耐える。
そんな繰り返しが一週間。結局少年は何も口にしていない。空腹でもうほとんど体を動かすこともできない。
『お願い、本当に死んじゃうよ!お願いだからこれを食べて、ねぇ・・・』
投げ入れられた魚はもう何尾目になるのかももう忘れた。そしてその全てが口を同じく助けて、と嘆願する。それは当然のことなのだ。
だがしかし、空腹に耐えかねたのかついに少年は叫びから耳を背け、その魚を手にする。そして断末魔の叫びと悲鳴を耳にしながらその魚の身体を口にした。
何日かぶりに満たされる空腹。顔に浴びた血はまだあたたかい。生命を奪ってそれを食す。それはいたって自然な事だ。だがしかし声を持つ生命をその叫び声を無視してこの手で奪ってしまった。たった六歳の少年には重すぎる現実だった。少年は真っ赤な涙を流しながら言葉にならない叫びを上げていた。
それから少年の耳の感度は上がり、辺りの生き物すべての声が聞こえるようになった。それは街の人混みの中に一日中いる。そんな生易しいものではない。常に生と死と隣り合わせな戦場のような自然の声。
少年はうずくまり耳を塞ぎもがいた。この声を消して、と嘆願して。
数日後、偶然通りかかった漁船に発見された時、少年の耳に何も音は届かなくなっていた。
☆
『果たして、それが本当にその魚の、生き物たちの声だったのだろうか・・・?』
目の前にはいつか見た大きなクジラがいる。そして直接頭に響いてくる意識の声。その声は潮のものだった。
「わからない・・・でも、あの時の感覚は・・・」
一夏は両手で耳を塞いだ。
『確かに生命は一瞬・一秒でも生き延びようと、死を拒む。これは本能』
「でも、命を奪って食べないと、あの時の僕も・・・どんな生き物だって生きていく事はできない。そんな事はわかっているんだ、わかっているんだけど・・・」
『死を悲しいものだというのであるとするなら、この地球は悲しみで埋めつくされてしまう事になる。(死)の先にあるもの、それは(生)。たとえ自らの命が終わったとしても、次に受け続いてくれる。あの魚も君の中で生きている。いや、一つになっているというべきかな』
クジラの姿はいつの間にか消えてしまい、白衣姿の潮があらわれ一夏の胸のあたりを軽く拳で叩いた。そこに入っている、と。
『人間は脳が発達した事で他の生き物よりよく考える事が出来るようになった。だが反面、脳を基準に生命を決めつけるようになってしまった。脳が大きいクジラは知能が高い、小さい魚や虫には知能がない? そんな事はない、すべての生き物、小さな細菌から植物に至る全ての生命に知能というものに縛られない魂が存在しているのだよ。そしてその魂は受け継がれこの地球を巡り続ける。だからむやみに死を恐れる必要も、悔やむ必要もない。ただ敬意を持って受け入れればいいのだ』
潮は一夏に手を差し出す。そして汐音も一夏を誘うように両手を広げ差し出す。
『今一度問う、君が耳を塞ぐその声は本当に生き物たちの声なのか? 』
一夏はまだ再びあの生き物たちの叫び声を聞いてしまう事を恐れている。
『この星はこんなにも綺麗だよ』
汐音が耳を塞ぐ一夏の両手の上にそっと手を添えた。初めて会った時と同じように真っ白な彼女の心の色が広がる。そして真っ白のその奥から広がってくる世界。幾つもの生命が生まれ、広がり、死んでいく。そしてまた生まれてくる。それは残酷だが、愛おしく、そして何よりも美しい。
一夏は心を奪われ、いつの間にか涙を流していた。そして汐音の手を握っていた。
その耳にもう声は届いていない。ただ生き物たちの鳴き声が絶え間なく響くだけだった。
☆
朝日が一夏の顔に差し込んだ。上体を起こし、手でその光を遮る。
「ここは・・・?」
一夏は岬の展望台のベンチに横たわっていた。太陽はまだ水平線からほんの一部顔を出しただけ。
一夏はある変化に気がつく。
波が岸壁にぶつかり砕ける音、遠くの森の草木が風にざわめく音、鳥や動物たちの鳴き声が聞こえてくる。どこかで波の跳ねる音とクジラの鳴き声が聞こえてくる。
一夏は耳を澄ませる。何を言っているのかなど、わかるはずもない。只々それは心地良い自然の営みの声だった。