第3章 「現実」
第3章「現実」
長閑との約束………。俺は、彼女を護らなければならない。昨日の太陽は、どこに行ってしまったのか? 今日は、あいにくの雨模様だ。俺は、いつもより1時間早起きして、身支度をすぐに整え、彼女との待ち合わせ場所となる昨日の駅改札口前に向かった。
電車の中は、他人の身体の重力が、俺に押し寄せる。その窮屈な空間から、早く脱却したい。車窓から見える景色は、灰色に見える。昨日の長閑の瞳が、頭に浮かぶ。今日から始まる12日間の中に、どんな事態が待ち受けていようが、長閑と麻利たちの行いを必ず阻止してみせる。
―――あれこれ考えてるうちに電車は、いつもの降車駅に到着した。この駅で降りる乗客のほとんどは、俺の学校の生徒たちばかりだ。前を遮る人々を掻き分けながら、やっとの思いで、降車した。車内の異様な気温から解放され、ホット一息をつき、改札口へと足を運んだ。
改札を出ると、まだ彼女の姿はない。駅の時計を見ると、7時半過ぎだった。予定の時間より30分も早く着いてしまったのだ。俺は、駅構内にある売店で、パンとコーヒーを買い、その場ですぐさま消化した。俺は、どこぞの会社の営業マンかと、心の中でつい苦笑した。
それから、間もなくして、改札口の向こうから、一人ゆっくり歩いてくる小さな女の子が、俺の眼に映ったのである。長閑だった。大人たちの歩く速度に比べれば、天と地の差が見て伺えた。
「本当にあれで大人なのかよ? どう見ても、小学生にしか見えん………。」
思わず、独り言を口に出してしまう。改札口を何とか通過した彼女は、目をきょろきょろさせながら、俺を探し始めた。やっとの思いで、俺を見つけてくれた彼女に、軽く手を挙げ、サインを送った。彼女は、安心したのか、小さな笑顔のまま、俺の元に歩いてきた。
「お………おはよう。待った?」
「おはよう! 俺もさっき着いた所だから!」
しかし、そんな嘘も長閑には、お見通しだったようだ。俺の顔を見るなり、笑い始めた。
「大鳥くん………。明日からは、ちゃんと家で食べてくるんだよ? わかった?」
「な! 何でわかるんだよ?」
「口元にクリームついてるから………。」
長閑の指摘で焦った俺は、とっさに拭き取ろうとしたが、長閑に腕を押さえられてしまった。何をするのかと思いきや、長閑は、口元のクリームを指ですくい、食べてしまった。
彼女の姿に見とれてしまった俺だったが、すぐに注意を受けてしまった。
「腕で拭いたら、制服汚れるでしょ? 今度から、気をつけること! いい?」
「ごめんなさい………。」
その時の長閑が、親に見えた。些細な所を注意してくる所が、そっくりだった。出逢って、二日目だが、長閑といると、つくづく自分のだらしなさに気付かされる。反省した俺は、長閑の手を昨日と同じように握り、相合傘を決め込んで、いざ通学路へと足を運んだ。俺のとった行動に昨日とは違う動揺を見せていた。他生徒の目が気になるのか、長閑は、下を見たまま歩くのだ。
「大鳥くん………。あなたって、大胆な行動起こすのね………。」
「俺は、長閑と手をつないで、歩きたいだけだ! さっきの説教のお返しでもある!」
「え~っ!」
本音を言えば、彼女の可愛い慌てぶりを見たかった。ただ、それだけの事だった。
学校も近くなるにつれて、生徒たちの姿が、少しずつ増えていく。手をつなぎ、相合傘の俺らを見る生徒も、ちらほらと増え始めた。俺は、堂々と長閑のペースで歩いているが、左の彼女を見ると、頭しか見えない。駅からずっとこんな感じだったが、昨日と同じで、嫌がってはいない様子だった。
昨日のおんぶから始まり、彼女と交わしたキス………。俺は、遠い昔から彼女という存在と居続けていたのかもしれない。そんな似合わない事を考えながら、学校へと向かった―――
―――心温まる雨の日の登校は、校舎に到着すると同時に終わった。
傘の水滴を軽く振り払った後、俺たちは、上履きに履き替え、資材室へと向かおうとした時、長閑が、階段の前で足を止めた。
「長閑? どうした?」
「昨日言った事覚えてるよね? 私の「言ノ葉」が始まったら、必ず逃げるのよ………。」
「………わかってる。おまえの「言ノ葉」が始まらないよう、全力で護るから!」
「うん………。」
俺たちは、気を引き締めて、資材室への1歩を踏み出した。
「長閑! おまえが、先に階段を行け!」
「何で?」
「万が一を考えての事だ!」
長閑は、俺の言っている意味を分かっていない様子だったが、黙って階段を上り始めた。長閑は、俺の言っている意味を分かっていない様子だったが、黙って階段を上り始めた。2階に着くと、同じ2年生の生徒たちと目が合った。だが、俺たちを見るその顔には、軽蔑とも言える目で睨んでいたのだ。
10組の真実を知らないのに、あの目は何なんだ? そんな生徒たちに目をやっていた俺だったが、この時一つの隙を作ってしまった。
前を見ると長閑の姿がいない。俺が、階段上を見上げた時には、もう2階から3階へと向かう半分の位置に差し掛かっている長閑の姿が映ったのだ。俺は必死な思いで、階段を駆け上がり、長閑がいた位置に数秒で辿り着いた。そして、見上げる俺の目に飛び込んできたのは、長閑の背中だった。それは普通の背中ではなく、俺に向かって、落ちてくる長閑の背中だったのである。俺は瞬発力を生かし、転げ落ちる寸前の彼女を何とか受け止め、受け身のまま、後ろの壁に激突した。
「っつ!」
「お………大鳥くん! 大丈夫?」
長閑の小さな声が、近くで聴こえていたが、軽い脳震盪を起こしたようで、すぐに動き出せない。何とか力を振り絞り、見上げた先に俺が見たものは、さっき見た他クラスの生徒に似た目で睨む麻利たち3人の姿だった。
それから、すぐに俺は気を失ってしまった。長閑の呼びかけに答えぬままに―――
―――目を覚ました俺は、保健室に運ばれたらしい。おぼろげな意識で起き上がろうとしたが、背中に電気が走るような痛みが走る。痛みを我慢して、教室に戻ろうとしたが、どうやら、今は戻る必要はないようだ。俺の左手を握ったまま、眠る長閑の姿が、そこにあった。
長閑のあどけない寝顔は、俺を癒してくれた。6歳年上のお姉さんに見えない子供のような彼女をいつまでも、こうして眺めていたい………。彼女の髪を優しくなぞり、柔らかなその頬に手を当てた。彼女の顔が、ぴくっと反応し、まぶたがゆっくりと開いたのだ。
「よかった………。ごめんね。私のせいで………。」
長閑の白い瞳から、涙が流れ始めた。
「長閑は………泣き虫だな。はは。」
「うう………。そんな事ない。」
優しい長閑に我慢できなくなり、俺は彼女の腕を引き寄せ、そのまま抱きしめた。
抱きしめた長閑の身体は、強く力を入れ過ぎてしまうと壊れてしまいそうなぐらい、痩せ細っていた。今のこの時だけは、お互いの体温を共有できる。本当ならば、ずっとこうしていたいと、俺は思った。
そんな俺たちの時間は、何時限目かもわからないチャイムの音で、終わってしまった。長閑は、俺の胸元から離れ、安静に寝とくよう注意を促し、保健室を後にしようとしていた。
「もう行くね。………授業あるから!」
「長閑………。あんな事があったのに、教室に戻るのかよ?」
「うん。心配しないで………。」
そう笑顔で言い残した長閑は、すぐに俺の前から居なくなってしまったのである。再び身体を起こしたが、全身に走る激痛は、容赦なかった。肝心な時に動けない。この怒りをベッドに叩き付けた。俺は、しばらく保健室の天井を見つめていたが、長閑が心配でしょうがない………。
***
―――始業であろうチャイムが鳴ってから、30分ぐらい経った頃だった。
担任の由愛先生が、俺の様子を見に保健室に入ってきた。
「大鳥くん? 身体の調子は、どう?」
「まだ痛くて、動けないです。何か痛み止めとかあったら、助かるんですけど………。」
「わかったわ! 市販の鎮痛剤なら、私持ってるから! 効くと良いんだけど………。」
由愛先生は、職員室に戻り、カップ1杯の水と共に持ってきてくれた。俺は、すぐさま口に放り込み、水と一緒に飲み込んだ。薬が効くまで、それなりにかかるだろう。早く効いてくれと言わんばかりに焦りの色を隠せないでいた。由愛先生は、何も言わずにそんな俺を見ていた。
「大鳥くん………。長閑さんと仲良くなったみたいね?」
「は………はい。表では無表情決めてるけど、内面は、結構良い奴なんです。」
そう告げた俺の顔を見た由愛先生は、表情を少し曇らした。長閑の真実を話すかどうか、選択に迷ってるようにも見えた。だが、俺は由愛先生に言ってやったのだ。
「彼女の過去の話は、本人から聞きましたから! 先生は、心配しないでください!」
「え?」
由愛先生は、信じられない顔で俺を見た。俺は、昨日あった出来事すべてを由愛先生に話した。
「そう………。話してくれて、ありがとね………。」
由愛先生は、何かから吹っ切れたような顔をして、感謝の言葉を口にした。
「でも、大鳥くん? 無茶はしないでね! 今のあなたが一番心配なんだから!」
「わかってます! でも、俺は彼女と約束したんです! 護ってやるって!」
由愛先生の心配顔は、変わらないままだったが、俺の決意の姿を見て―――
「………あの子を護ってあげて。市販の鎮痛剤………何とか効いたようね! ふふ!」
俺は長閑を護る決意表明をした時に、ベッドから自然と立ち上がっていたようだ。俺は、由愛先生に感謝の言葉を言い残し、風の如く、資材室へと走り出したのだった。
―――痛みは完全になくなっていた。今この時を無駄にする訳にはいかない。一刻も早く長閑の側に行かなくては! がむしゃらに階段を駆け上がり、資材室が視界に入った。中に入ったら、まずは、麻利たちに彼女への謝罪を要求しなければ………。
俺は、ためらいもせず、扉をガラリと開けた。しかし、長閑たちの姿がなかったのだ。彼女たちの机を確認したが、不思議な事に鞄がない。もう授業は終わってしまったのかと思いながら、最後に長閑の机を確認した時、俺は見てしまった。彼女の机に血痕であろう痕跡が、付着していたのだ。その血痕を指でなぞってみると、どうした事か、まだ乾き切っていなく、生温かいのだ………。
「まだ近くにいるって事か………。」
俺は再び室内を見渡したが、誰の姿も見当たらない。時計を見ると、まだ午後に入ったばかりだ。一度外に出て、2階へと降り、他クラスを確認してみたが、生徒たちは、普通に授業を受けていた。俺は誰もいない自分の教室に戻った。こういう時こそ冷静にならなくては………。
一度自分の席に腰を下ろした。頭を抱え込み、麻利たちの行きそうな場所や今後の対策やらを静かに考えた。室内は、静まり返り、昨日と同じく窓の隙間を狙って入ってくる甲高い音だけが………。
「?」
俺は何かを感じ、耳を澄ました。窓際の風の音に混じって、何かが聞こえてくる………。その音の正体を掴む為、席を立ち、その方向へと足を進めた。その前にあったのは―――
「れ………冷蔵庫?」
資材室にこんなものがあったとは知らなかった。風とは違ったその音は、この中から聴こえていたのだ。俺は息を飲み、勇気を振り絞り、冷蔵庫の取っ手を握った。
「何してるの? 謙くん?」
突然の声に身体がびくっと反応し、後ろを振り返ると、麻利の姿があった。
「お………おまえこそ、どこ行ってたんだよ?」
「ちょっと、由愛先生に呼ばれてね。職員室に行ってた。」
今日の麻利の顔つきは、昨日とは別人だ。麻利に他の二人の所在を聞いたが、わからないと答えるのだ。麻利との間に冷たい何かが走った。どう考えても、嫌な予感しかしない………。
「謙くん………。あの白い目の女の子の過去って、聞いたかな?」
「う………うん。彼女自身から聞いた。過去の5年間の罪は、自分にあるって。」
「なんだ………。もう知ってたんだ。じゃあ、なぜ彼女をかばうの?」
麻利は、今朝の階段から突き落とした事を言っているようだ。それに関しては、俺にも言い分があった。彼女の過去の罪を理由にして、麻利たちが、彼女を責める理由はない。俺は怒り半分で、麻利に言い放ってやったが、麻利の顔は変わらなかった。
「あの子が居なくなれば、今後、惨劇は起きない。それは、謙くんも理解してるでしょ?」
「違う! あの子は、惨劇を起こしたくないと望んでいる! 長閑の瞳は、そう言っている!」
「長閑………ね。もう呼び捨てなんだ? 随分と仲良くなったみたいね………。」
麻利は静かに腕を上げ、俺の横で真っ直ぐと振り下ろした。
何の動作なのか、見た時は分からなかったが、なぜだろう? 冷蔵庫の取ってを握る手に力が入らない。一瞬の麻痺から数秒し、じわじわと痛みが沸いてきた。左腕に目をやると、制服ごと切られていたのだ。俺は、その場に膝を落とし、あまりの痛さで動きが止まってしまう。切り口からは、じわじわと大量の血が溜まっては、制服に浸潤し、床にこぼれ始めた。
「ま………麻利! おまえ………。何やったのか、わかってんのか?」
「冷蔵庫開けようとしたから、アンタの左腕の神経………切ってあげたの。」
彼女の右手を見ると、俺の血で濡れたカッターナイフが、目に止まった。彼女は、ナイフを見つめるなり、俺の血をぺろぺろと舐め始めたのだ。
「未奈ぁ? アンタも謙くん大好きなんでしょ? 一緒に舐めてみる?」
その言葉に驚愕した俺は、後ろの気配に気付いた。麻利の前で這い蹲ったまま、振り返ると、目の前に未奈の顔があったのだ。
「謙くん! 会いたかった………。」
未奈の唇が、俺の唇に触れた。未奈の舌が、俺の口の中に入ってくる。俺はこんな状況の中、変な気分になる自分がいたが、異音がした拍子に未奈を両手で突き飛ばした。口内が、鉄分の味で広がり始めた。俺は堪えきれず、吐き出した。俺の血だった。未奈は、ゆらりと起き上がり、俺に笑みを浮かべ、ガムを噛んでるかのような動きを見せていた。
「急に突き飛ばしたら、ダメだよ………。でも、謙くんの味………美味しい。」
「………。」
うまく言葉が出せない………。俺は口の中を舌で転がしたが、舌先が口内に当たらない。
どうやら未奈は、俺の舌を噛み千切ったようだ。まともに言葉を発せなくなってしまった。
動かない左腕と言葉の出ない口………どうする事もできない。それでも、彼女たちの強行が止まる気配はなかった。左腕はともかく、舌先の出血が多すぎる。口内に溜まっては、吐き出しを何回も繰り返す。次第に室内の床が、俺の血で覆われ始めた。
「謙くん! すごいよ! 教室が謙くんの色で染まってくよ! あはは! こうなったら、果歩も呼ぼうよ? 麻利?」
「そうだね………。果歩? 出てきて良いわよ!」
―――夢だったら、覚めてくれ………。俺はもう意識を保つだけで精いっぱいだった。貧血に陥り始めた俺のかすんだ瞳は、ゆっくりと歩いてくる果歩を捉えた。
「う………嘘だろ?」
果歩の握られていた物は、彫刻刀だった………。
「謙くんの身体に私の名前………刻みたかった。」
逃げ出そうとする俺を麻利と未奈は、両腕を掴んで動けないようにした。普段の俺ならば、振り切るのも可能だが、左腕の麻痺と出血のせいで、身体が思うように動かない。果歩が俺の前で屈み込み、ある事を言い出した。
「そうだ………。未奈だけ謙くんのカケラを持っているなんて、我慢できないから、私もどこか貰おうかな………。」
コイツらは、もはや人道からかけ離れている………。あれだけ長閑を護ると宣言しておきながら、このザマか………。駄目だ………もう意識が。
―――約束だよ?
昨日の長閑の声が、俺の中で響いた。もうろうとする意識を気合で立て直す。目先に果歩の彫刻刀が、ゆっくりと近づいていた。コイツは、俺から目を奪う気だ………。くそ! どうしたらいい? 切られた腕も舌も痛い! 口の中は気持ち悪い………。
「………これか!」
前方に果歩、左に麻利、右に未奈がいる。俺は、勢いよく麻利から未奈に向けて、口内の血を霧状に吐き出した。3人は、俺の血を真っ向に受け、目を抑え悶え始めた。
舌の損失が、チャンスを生んだ。そして、何よりのこいつらの敗因は、俺の両足を生かした事だ!
麻利と未奈を何とか振り払い、俺の生きた右腕で、冷蔵庫の取っ手を握り、勢いをつけて、開け放った。言葉にできなくとも、彼女が答えてくれると信じて………。






