ある親父の、生活も踊る
「君との婚約は無かったことにしてもらいたい」
そう言って婚約を破棄されたのだと、まだ自分の人生の半分にも満たない年若い少女が、笑いながらそう言った時。
そんな一言で、一人の人間の将来が駄目になるなんざ、つくづく貴族ってのは鼻持ちならねぇな、と思ったのだった。
とは言え、あっちにはあっちの言い分があるのだろう。
それくらいの事は、こちとら長い街民人生の中で、分かっているつもりである。
やれ相手に逃げられただの、別に女がいたのだの、それは貴族も平民だって似たようなものだろう。
くっついた別れたってのは、この街のどこにでもある話だし、特に若いうちは、ちょっとしたことで拗れてしまったりするのが世の常である。
商会で働く青年、オーリだってそうだ。
オーリと以前、婚約同然だった少女は、この街では比較的新しい商会の跡取りで、隣の家のオーリとは、見るからに仲睦まじい恋人同士だった。
まだほんの幼い頃から、彼女の手を引いてやるオーリの姿を周りはずっと見ていたし、成長して精悍さを増したオーリと、可愛らしい少女の二人は似合いの組み合わせだった。
いずれ商会の若夫婦として立つ2人を、周囲は皆、楽しみにしていたのだ。
それをひっくり返したのは、その頃勢いのあった、ある商会の息子だった。
噂では、どちらも一目惚れだったらしい。
周囲が気付いた時にはもう、少女の目にオーリは映っていなかったのだった。
その後はオーリには悲惨だった。
あれよあれよと商会の品揃えも客層も店構えも変わり、家族同然に手伝っていたオーリは身一つで放り出されたのだった。
もう少し、何とかならなったのかと、今でも自分はそう思っている。
オーリの十数年の年月に見合うだけのものを、もう少し用意してやるべきだったのだ。
別の店への紹介は、オーリが嫌がったかもしれないが、まだ十代の少年の人生を、蔑ろにするにも程がある。
痛かったのは、婚約が子供同士の単なる口約束だったことだろう。
誠実であることは商いの基本だが、それでも些細なことは書面にしておく、それも商売の基本である。
口約束ほど信用できないものもない。
そのあと丁度、今の商会の会頭がオーリを拾い、彼はそこで働き続けている。
その商会は一時、経営が危なかった時もあったが、それも乗り越え、今や大通りの花形で、押しも押されぬ大商会である。
この街も広いとはいえ、それでも商いをする者同士である。
噂も聞こえれば姿も見かける。
一度オーリに直接、同じ街内で辛くないのかと聞いたことがある。
「いや、もう全然。それよりも昨日入ったばかりの茶葉がさ、」
その顔は本当にさっぱりとしていて、未練など無いような様子だった。
来たばかりの頃の萎れた姿を知っている身としては、本当に立派になったと思うばかりである。
あれだけのことを根に持つ様子もなく、気持ちのいい青年に育った彼を、心の内で勝手に、息子のように応援しているのだ。
そんなオーリが、一人で商談を任されるようになったと、嬉しそうに語っていた頃からだろうか、その立ち姿や、言葉遣いがどことなく洗練されてきた。
それはオーリだけでなく、他の従業員達も同様で、店の接客が変わったと近所でも評判になっていたのだった。
それが商会に新しく入った一人の少女のお陰だと言うことは、皆すぐに分かった。
アマーリエ・スーエ、元子爵家の、歴とした貴族の令嬢である。
商会にほど近い、元貴族の未亡人がやっている女性専用の下宿家から、毎朝大通りを通う姿は注目の的だった。
未婚の子女が住み込みでないのも珍しく、また彼女の容姿も相まって、その名前も素性も、すぐに街の皆が知るところとなったのだった。
装飾のないシンプルなドレスは平民が着るものと同じはずなのに、その歩き方や、すっと上がった顎からは、隠しきれない品の良さが伝わってくる。
この辺りの治安は悪くないとはいえ、それとなく警備隊のジェイクにも、気にしてくれるように声をかけておいたものだった。
そうして話してみたアマーリエは、見た目の貴族らしさに似合わず、溌剌とした気さくな少女だった。
気取らない笑顔で、屈託なく楽しそうによく笑っている。
街の自分達には何でもないような事が、楽しくて堪らないらしい。
パンが美味しかったと言って喜び、新しく買った靴を下ろしたのだと、目の前で美しく回ってくれる。
商会の商品を覚えるために、真剣にメモを捲っている姿は、どこにでもいる少女と変わらない。
そして時に自分の身の上話をするアマーリエは、堂々としたものだった。
「だって、泣いてもお腹は膨れないものね」
その通りだと言って一緒に笑う。
婚約破棄された貴族令嬢が平民に身を窶す、そう言う悲壮感はどこにもない。
ただ、日々を逞しく生きている、自分達と同じ、一人の少女なのだった。
そんなアマーリエであるが、ある日珍しく萎れた様子に、思わず声をかけた。
聞けば、横柄な客のあしらいが上手くいかなかったらしい。
「そう言う時にはな、客を見送る時、『お前はろくな死に方しねぇ』って心の中で言ってやるといい」
勿論笑顔でな、と言い添えてやる。
客商売をしていれば、嫌な客はごまんといる。
それを溜め込まないのがコツなのだと、接客では一日の長のある自分はそう思う。
その言葉に、きょとんとした顔で見返して、
「いいわね、それ。次からはそうするわ」
こういうノリのいいところも嫌いじゃない。
似た経験をした者同士だからか、二人が一緒にいる様子を、時折見かけるようになった。
内心、似合いだなぁなんて思っていたけれど、そう思っていたのは自分だけではないようで。
けれど商会の仕事は忙しく、オーリも任される仕事が楽しいようで飛び回っているし、店に出入りする貴族の客は増え続け、アマーリエの仕事も順調のようだった。
そうして日々は変わらずに過ぎていく。
そんなある日事件は起きたのだった。
オーリが角の雑貨屋で、菫色の砂糖菓子を買い求めたのだという。
明らかに少女が喜びそうなそれを贈答用に包んだったとあって、店主である婆さんは大喜びだった。
「オーリお前、角のミラン婆さん所でいいもん買ったらしいな?」
「もう知ってんのかよ」
うんざりした顔でオーリが項垂れる。
そりゃあお前、この街内で買ったら分かるに決まってる。
「菫の花がさ、」
聞けば、道端に咲いていた何でもない菫の花を、アマーリエとしばらく愛でていたらしい。
お前らは幾つだと言ってやりたいが、二人はまだ十代であることを思い出して耐える。
自分のそれが遠過ぎて思い出せないが、そう言う時が自分にもあったに違いない。
その花が枯れてしまったのだそうだ。
おそらくただ、花が萎れただけで、株自体は生きているのだろう。
その辺りに咲く野花が、そう簡単にくたばったりはしない。
「アマーリエがあんまり残念そうなんで、まぁ代わりに」
お前、それはもう恋なんじゃないか。
と言う言葉が喉まで出かかったが、すんでの所で引っ込めておく。
こう言うのは周りがせっつくと、碌なことにならないのが世の常である。
それにまぁ、と思う。
恋仲になる事だけが人生じゃないと知っている。
自分の家の隣に住んでいた幼馴染の少女とは、お互いにそんな気になった事もあったが、結局、自分も彼女も別の奴と結婚した。
そんな彼女も今や家業を継いで数十年、同じように商売に携わる自分とは、歯に衣着せずに言い合える、戦友のような間柄である。
そういう人間に囲まれているからこそ、こうしてこの街で生きていられるのだ。
だからどんな形でも、暖かく二人を見守っていこうと思っていたのだが。
休日なのだろう、私服の二人が大通りを歩いている。
ああして二人だけで出かける姿を見るのは何度目だろう。
この間も、食堂の角の席で二人静かに、でも楽しそうに夕食をとっていた。
嬉しさにポテトサラダを山盛りにし、ソーセージを2本増やしたところでうちの奴に止められた。
パン屋の女将が店先から二人に、何か話しかけている。
こら、邪魔すんじゃねぇお前。
大方、丁度広場に来ている旅芸人の一座を見に行くのだろう。
王太子夫婦の恋物語を歌った劇が評判で、孫が連れて言って欲しいとせがんでいた。
最近ますます所作が洗練されてきたオーリは、その精悍な顔も相まって、どこかの大店の跡取りにしか見えない。
アマーリエもいつになく可愛らしいドレス姿で、元より品の良さが抜けない彼女は、誰がどう見てもお忍びの貴族令嬢である。
こんな日は警備隊も忙しいだろうが、ジェイクに一声かけておくべきだろう。
(パン屋のアニヤに、後で何を話したのか聞かねぇと)
幼馴染のアニヤはこの辺り一番の情報通である。
店が終わった後に、こっちで一杯やろうと誘わねばならない。
急速に仲が深まった理由について、恋仲なのかどうかも合わせて。
約束は守る、誠実であること。
これは商売人の基本である。
そしてこれは子供でも分かる、人としての基本だ。
だから願わくば。
あの真っ直ぐな二人が次に手にするものが、誠実に実るように。
それが二人をずっと見守ってきた周りの思いだ。
勿論、食堂の親父である、俺の願いでもある。




