いや、ちょ、まてよ
家に帰った瞬間、嫌な予感はしていた。
玄関を開けたとき、妙に空気が軽い。
軽すぎる。
これはもう、何かが共有された後の空気だ。
「……ただいま」
「おかえりなさい」
母の声はいつも通りだった。
穏やかで、優しくて、平常運転。
――妹の姿が、見えない。
居間の奥から、かすかに音がした。
「……っ、ちょ、待って……!」
笑い声。
しかも、呼吸が乱れるタイプのやつ。
(あ、これもうダメだ)
俺が居間に足を踏み入れた瞬間。
「っっ、はははははははは!!」
妹が床に転がっていた。
本当に、物理的に転がっている。
「ちょ、兄さんっ……!
無理、無理無理無理!!」
「……何の話?」
聞かなくても分かってる。
でも一応、聞いた。
「何の話だと思う?」
妹は涙を拭きながら、俺を指さす。
「天地万象」
(来たーーーーー!!)
俺は天を仰いだ。
「……誰から聞いた」
「使者さんから」
「学士さんも」
「あと、騎士団の人も」
「情報共有、早すぎない?」
「だってさ!」
妹は身を起こし、楽しそうに語り始める。
「“旧西部遺跡にて、天地万象が顕現”だって!」
「顕現するな!!
普通に入場しただけだ!!」
「しかもね」
妹は、机を叩く。
「石板に刻まれし、天地万象の言葉」
(やめろーーーーーー!!!)
「それ日記なんだ!!」
反射的に叫んでいた。
居間が、一瞬静かになる。
「……日記?」
母が、首を傾げる。
「いや、だから……」
妹の目が、きらりと光った。
「え、なにそれ詳しく」
「詳しく話さなくていい」
「話そう?」
「話さなくていい」
母が、静かに口を開く。
「あなた」
「……はい」
「“天地万象、理を写し、世界を正す”って書いてあるそうだけど」
(それーーーー!!)
「正すとかじゃなくて!!
“この魔法とこの術式組み合わせたら便利かも”っていう
自分用メモだ!!」
沈黙。
次の瞬間。
「っっ、あははははははははは!!」
妹が再び床に沈んだ。
「ちょ、待って、待って!!
世界を正す(仮)!!」
「(仮)つけるな!!」
「しかも石板に刻む!?
日記を!?
永・久・保・存!?」
「刻んだのは俺じゃない!!
たまたま近くにあった石が!!」
「言い訳が全部ダサい!!」
母は、しばらく黙って聞いていたが、
やがて、ぽつりと呟いた。
「夜中に、部屋でぶつぶつ言いながら書いてたわよね」
「言うな!!」
「“今日の俺、ちょっと冴えてる”とか」
「言ってない!!」
「“この名前、強そうじゃない?”とか」
「言ってない!!!」
妹が腹を押さえながら、必死に息を整える。
「ねえ兄さん」
「何」
「天地万象ってさ」
「何」
「黒歴史の完成度、高すぎない?」
俺は、ソファに崩れ落ちた。
「……もう俺、外出たくない」
母が、紅茶を差し出してくる。
「はい」
「……ありがとう」
「大丈夫よ」
母は、優しく微笑む。
「どんな名前でも」
「?」
「晩御飯までに帰ってきて、
ちゃんと片付けもする子は、いい子です」
妹が頷く。
「それな」
「追い打ちをやめろ」
「でもさ」
妹は、にやりと笑った。
「外では神様、
家では“石板に日記刻んだ人”って、
バランスいいと思わない?」
「思わない」
母が、立ち上がる。
「さて」
「?」
「今日は煮魚よ」
その一言で、話は終わった。
伝説の英雄たち。
天地万象。
――この家では、
晩御飯に遅れない人間が一番偉い。




