今日は魔法使いの作るシチュー
夕方になると、我が家の台所は少しだけ騒がしくなる。
鍋の中で何かが煮える音と、包丁がまな板を叩く軽快なリズム。それに混じって、魔力の流れを感じるのは、もう今さら気にすることでもなかった。
「今日はシチューにしようと思うんだけど」
そう言ったのは妹だ。
かつて魔王軍の筆頭魔法使いとして世界を破滅寸前まで追い込んだ張本人だが、今はエプロン姿で鍋を覗き込んでいる。
「それならパンがいいな」
「白米も炊いてあるわよ」
母が穏やかに返す。
元・聖女。世界を救ったその人は、今では家族の好みを完璧に把握する主婦だ。
ソファの上では、姉が微動だにせず横になっている。
悪役令嬢として生き残るために全力を尽くした反動で、最近は「動かない」という選択を極めていた。
「……配膳、誰がやるの」
「俺がやるよ」
そう答えながら、俺は立ち上がった。
無能だと追放されたコピー能力者。世界を救ったこともあるが、それは思い出したくない黒歴史だ。
戦争を終わらせた伝説の傭兵である弟は、黙々とテーブルを拭いている。
誰も、自分たちがかつて英雄だったことを話題にしない。
今、この家で一番重要なのは――
本日の晩御飯が、シチューかカレーかという点だけだった。
世界の危機?
再召喚の兆候?
そんなものは、夕食のあとでいい。
ここは、戦いの果てに帰ってきた場所。
伝説の英雄たちが、ただ家族として集まる家なのだから。
鍋が静かに湯気を立てている。
コンロの前に立つ妹は、鍋の中身を確かめるように一度だけ覗き込み、満足そうに頷いた。
「……うん、今日はいける」
「それ、毎回言ってない?」
母が苦笑しながら、食器棚から皿を取り出す。
白い湯気と一緒に、どこか甘い匂いが台所に広がっていた。
「今日はシチューよね?」
「そう。弟いないし、軽めでいいかなって」
「修学旅行だものね。あの子、向こうでちゃんと食べてるかしら」
母はそう言いながら、手慣れた動きでテーブルに皿を並べていく。
その仕草は、聖堂で祈りを捧げていた頃と何一つ変わらない――と言いたいところだけれど、今はその話をする空気でもなかった。
「兄さん、パン切って」
妹に言われて、俺は棚から包丁を取り出す。
硬すぎず、柔らかすぎない。今日の出来は良さそうだ。
「……ねえ」
妹が、何でもない調子で聞いてきた。
「今日、何か来てた?」
「来てない。静かなもんだよ」
「そっか」
それだけで、会話は終わった。
来ていたら、ここはもう少し騒がしくなっている。
母がシチューを皿によそいながら、ぽつりと言う。
「今日は平和ね」
「そうだね」
本当に、平和だった。
少なくとも、この家の中では。
鍋の火を止め、妹が深く息を吐く。
「じゃ、食べよっか」
世界がどうなっていようと、
今日の晩御飯は、今しか食べられない。
初投稿です.読んでくれたら嬉しいです.




