愛の2パーセントの重み
愛の2パーセントの重み
1.世界の冷たい匂いと「大分裂」の代償
街は、異様な緊張感と、鼻を突く消毒液の匂いに包まれていた。それは、**「大分裂(Great Schism)」**と呼ばれる災厄から五年経った今も変わらない。あの事件以来、純粋な自我を持つ者は少数となり、魂の結合は不安定になり、バラバラの欠片となって流通し始めた。
人々は二種類に分けられる。一つは、目の周りを厳重に塞いだマスクの奥で、眼光だけを鋭く光らせる**「純粋な自我」の少数者たち。もう一つは、無防備な顔を晒しながら、時折「内の声の会議」で行動がブレる、大勢の者たち。**アキラがすれ違った女は、歩きながら突然立ち止まり、まるで自分の右手を殴りつけるかのように激しく首を振った。意識の主導権が瞬時に交代した、分かりやすいしるしだ。
アキラは、今宿っている老人の肉体を通して、深いため息をついた。この老人の肺は、空気を吸い込むたびに、湿った埃と錆の匂いを呼び起こす。数ブロック先、広場に放置された一台の車。窓ガラス越しに、目を開けたまま、ただ座っている男が見える。彼の目には、魂の議論がフリーズした抜け殻特有の、ガラス玉のような無機質な光が反射していた。この街では、魂の崩壊は日常の風景だった。
アキラは、ポケットの小型検出器を強く握りしめた。彼の最終目的は、妻の魂の残る「最後の2パーセントの欠片」を回収すること。彼と妻の「愛の誓いの記憶」という、最も大切な部分だ。アキラは知っていた。ヒカリの魂の結合は、その純粋さゆえに、元々この世界で最も脆かった。彼女の魂は完全な100パーセントでなければ、二度と目覚めない。この2%こそが、穢れを知らぬヒカリの魂の核であり、「完全な愛」を完成させるための唯一の鍵だった。
アキラの脳裏に、妻の顔が浮かんだ。彼女、ヒカリは、路地裏で自我を失い倒れた老人の手を握り、「魂を分け合うなんて、可哀想」と、自分の魂の純度を危険にさらしてまで涙を流した。あの無垢な優しさが、この世界でどれほど脆く、無防備なものだったか。
2.汚染された記憶と「愛の完成」の義務
アキラは、その2%が、現在タカシという若者の肉体に宿り、さらに**「支配魂E」という悪意の塊**と深く融合していることを知っていた。
「馬鹿め。お前の愛の記憶は、もう俺の悪意で煮詰まっている。俺は、お前の愛の誓いに**『疑念のトゲ』を埋め込んだ。回収すれば、お前の妻の心にも、永遠に『他者への不信』**が残るぞ」
Eの嘲笑が、検出器を通してアキラの耳に届く。その声には、焦げ付いた回路のような匂いが混じっていた。
アキラは立ち止まった。穢れた記憶を戻せば、ヒカリは自我を取り戻す。だが同時に、彼女の純粋な心に「不信」という毒が植え付けられる。不完全な純粋さ(98パーセント)を選び、彼女を永遠に眠らせるべきか。それとも、汚れた愛の記憶であっても、完全な100パーセントを求め、彼女の自我を回復させるべきか。アキラは迷った。ヒカリの純粋さは、この冷酷な世界では無用の長物だった。彼女の愛を、この世界で「生き残れる愛」へと完成させる――それが、愛する夫である自分の義務だと、アキラは自分に言い聞かせた。
3.愛の主導権争いと最後の誓い
アキラは、タカシを人目のない廃墟の路地に追い詰めた。この路地の湿った静寂は、街のすべてのノイズを飲み込み、アキラ自身の心臓の鼓動だけを、耳元で警鐘のように鳴らしていた。
タカシの肉体は、完全にEの支配下にあった。
「この体の新しいオーナーは俺だ。お前の汚い株(魂の欠片)など、もう必要ない!あの女の弱すぎる優しさは、この世界では無用の長物だ!」Eは吠えた。Eは魂の結合を意図的に不安定化させ、**自我の衝突が一定レベルを超えると、魂が物理的な衝撃波として排出されるように仕組んでいた。**回収するには、自我を崩壊させるしかない。アキラはその唯一の方法を知っていた。
アキラは覚悟を決め、タカシに語りかけた。それは、タカシの内側に隠れている、妻の愛の2%の欠片に届くように。
「覚えてるか、ヒカリ?あの時の誓いを。路地で倒れた老人のために、君が泣いた日だ。俺たちは誓っただろう。**いかなる汚染も、いかなる悲劇も、二人の魂を分断することはできない、と。**君の純粋な心が、俺のすべてだったんだ!」
その瞬間、タカシの肉体が痙攣した。Eの支配権と、アキラの愛の記憶が衝突し、自我の主導権争いが始まったのだ。タカシの目から、一筋の涙が流れ落ちる。それは、失われた純粋さへの涙であり、汚染された記憶の奥底に残る、愛の反抗の兆しだった。
支配魂Eはパニックに陥り、肉体を通して叫んだ。「くそっ、止まれ!くしゃみだけはするな!この自我の衝突は…魂の排出手順を誘発する!」
4.制御不能な非情な選択
タカシは顔を歪ませ、必死に鼻を押さえる。
アキラは懐からコショウのスプレーを取り出した。この行為は、無関係な男の魂を犠牲にし、妻の自我を完成させるという、非情な決断。
「ごめん…タカシ。そして、ごめん…ヒカリ。純粋なまま、君を眠らせておく勇気が、俺にはなかった。俺は、君の愛をこの世界で生き残らせる義務がある。」
アキラがスプレーを押し込むと、タカシは激しく**「クシュオン!クシュン!」と連発くしゃみを放った。崩壊した魂の成分が、微かに青白い光を帯びた霧状の飛沫となって飛び散る。**アキラは回収装置で、空中に漂う極小の光の粒を捕獲した。
タカシの肉体は、くしゃみを終えると、糸が切れたように静かに倒れた。自我はゼロになり、「思考停止の抜け殻」へと変わってしまった。倒れたタカシの瞳には、街灯の光が、二度と反射することのない氷のように冷たい輝きを放っていた。アキラは、老人の肉体から逃げ出したい本能的な恐怖と罪悪感を、回収装置を強く握りしめる力で耐え抜いた。
5.汚染された愛の帰還と重み
アキラは、回収した最後の2%を、自宅で眠る妻の抜け殻に戻した。
妻の肉体は痙攣し、目を開けた。彼女の魂は100パーセント、完全に戻ったのだ。しかし、その瞳は以前の温かい琥珀色ではなく、計算された冷たさを宿す、淡い銀色に変わっていた。
「アキラ…」
妻は微笑み、アキラと抱き合う。旅は終わった、はずだった。
安堵は一瞬で消えた。アキラの顔を見て、妻の瞳に微かな違和感がよぎる。そして、妻の口から、以前の彼女にはありえなかった、冷淡で皮肉めいた言葉が漏れた。
「純粋なまま眠らせておくべきだったわ、アキラ。あなたは私に、**『愛の記憶』の重みではなく、『愛が世界で生き残るために必要な毒』**をくれたのね。魂を分け合って、危険を冒してまで他人を救うなんて、愚かだわ。この世界で純粋な心なんて、ただの弱さよ。」
アキラは悟る。回収した**「愛の記憶」には、確かに支配魂Eの「悪意のトゲ」が残留していた。**ヒカリは完全な自我を取り戻したが、汚染された世界を生き抜く代償として、もう二度と「路地裏で老人のために泣いた、あの純粋な心」には戻れない。
彼は、不完全な**「完全な自我」を抱えた妻を抱きしめた。**抱きしめた妻の身体からは、以前のような温かい鼓動ではなく、鋼のように冷たい、計算された脈動を感じた。愛の記憶という最も大切なものを守り抜いたが、その記憶は自我の汚染という毒を帯びてしまった。アキラは、失われた2パーセント分の「純粋さ」の、計り知れない重みを理解しながら、汚染された妻と共に、孤独に生きていくことを選んだ。
この愛は、大分裂の災厄の中で生まれた、新しい種類の汚染された美しさだった。




