第一章『当たり前だった日常は些細な出来事で劇的に変化を遂げたりもする』-0-
「最高だったよ……千鶴ちゃん」
カーテンの隙間から朝日が差し込み鳥の囀りが聞こえ出す。部屋の時計に視線を向ければ時刻は午前五時に差しかかろうとしていた。
時間を確認して受け入れ難い現実を直視することになった凛太郎は少し明るくなってきた部屋でため息を漏らした。
次を見たら今夜こそは寝ようと何度も自分に言い聞かせたが気づけば停止ボタンを押すのを躊躇ってしまう。
動画サブスクの再生っていうのは底なし沼の様なもので、止めない限り次の話が自動再生されていくのだが、一度見始めてしまうと止める事は出来なかった。いや、本当は止める気は無かったのかもしれない。
それ故に動画の再生ボタンを押してしまえば、後は自分の体力の限界が訪れるか完結するまでは止まることの許されない暴走機関車と化してしまうのである。
昨晩は少し前の作品にはなるがSNSでオススメされていた作品を試しに見たところ予想以上の作品で止まらなくなり、気づけば寝落ちする事もなくワンクール夜通しで見てしまった為、いっその事教室で寝れば良いという結論に行きついたのだ。
見終わった後の心の中の満たされた感覚っていうのは、日常では決して味わえる代物ではない。
汚いものに蓋をするではないけれど、現実の女という生き物に対して期待と興味は持てないのだ。
最初は主人公に関心がなかったヒロインが徐々に変わっていき問題を乗り越えながらも絆を深めていく。
作画の表情や声優さんの演技、更に本質的な優しさや人に対しての純粋さも感じ取れて本当にこの世界はとても綺麗に思えた。
最高の作品に出会うことの出来た余韻に浸っていたいところなのだが、そんな時間も束の間。
現実というのは容赦なく訪れるもので、時間は止まってはくれることはない。
軽く伸びをすると、少しでも多い睡眠時間確保の為に登校の準備を始めた。
眠気眼のまま、鞄も用意して制服の袖に手を通し準備を終えて部屋を出る。
家族はまだ寝静まっている為なるべく物音を立てずに玄関まで足を運んだ。
そんな時に予想外にも、この時間帯に部屋から出てきた妹の沙由は凛太郎の存在に気づくや気怠そうにこちらを一瞥すると。
「……キモっ」
まだ寝起きであろう細めた瞳で寝癖のついた髪を手櫛で整えながら小さいため息と共に言葉を漏らした。
年頃の兄妹といえど「行ってらっしゃい」もしくは「今朝は早いね?」などが普通の会話というものだろう。
早朝に家を出ようとした兄に対して発する言葉のレパートリーの中にその台詞は通常存在しないのだが、反抗期なのか年子で中三故に受験によるストレスが溜まっての発言なのかは定かではないが、我が妹は小さくため息を吐き、ど厳しい言葉を投げかけると背を向けて去っていった。
やはり現実の女というものは相入れない。実の妹ですらそう思うのだから間違いない事実なのだろう。
可愛く献身的なお兄ちゃん思いの妹なんて存在しなければ、学校で一番の美少女との奇跡の出会いなんてあるわけもなく、主人公に想いを寄せながらも明るく振る舞う元気っ子同級生なんて現実には存在しないのだ。
実際に現実世界で生きている女性の多くはあくまでも個人的な価値観ではあるが、嫉妬や妬みに自己顕示欲。他者への見栄や周りからの視線を最重要視して最終的には自分を最優先で他人の気持ちなんて考えず都合の良い理由を並べて自分を正当化する生き物、悲しいけどそれが三次元の女の実態だ。
そんなことを考えながら小さく溜め息を溢し、ポケットに入っているイヤホンを取り出すと、お気に入りのアニソンを流しながら静かに玄関の扉を開けた。
ーー学校に着いたのは家を出てから三十分後の六時過ぎ。
下駄箱で靴を履き替え極度の眠気と倦怠感による重い足取りの中、教室の前までたどり着くと扉を開けるべく伸ばした手をピタッと止めることになる。
「――荻原くん!私と付き合ってください!」
誰もいないだろうとの想定で到着した教室前の廊下で呆然と立ち尽くす。まさかこんな最悪の場面に出くわすとは思いもしなかった。
部活動の朝練組以外は登校していない静まり返った校内で教室から漏れてきた女子の声は緊張感が感じ取れる声色で少し震えていたが、それでもはっきりと聞こえて来た声に扉に差し掛かった手を思わず止めたのだ。
「……最悪だ」
恐らく今日一番であろう重い溜め息を吐くと頭を抱える。
流石にこんな空気感の中、教室のドアを開けるわけにもいかず移動するべきかと考えるが睡眠不足の思考ではすぐさま解決案を導き出せるわけもない。
立ち往生したままどうしたもんかと考えていると、数分と経たないうちに目の前のドアは勢いよく開き俯いた女生徒が走ってその場を去っていった。
女生徒の雰囲気を見る限り大体どうなったかは察しがつくが正直関心はない。
そんな事よりも重要なのは諦めかけていた睡眠時間が担保されたという事実で、走り去る女生徒の後ろ姿を横目にほっと胸を撫でおろした。
教室に入り自分の席に向かおうとすると一人取り残された同じクラスの男子生徒、荻原真人は早朝から目を瞑りたくなる程の爽やかな笑顔を凛太郎に向ける。
クラスの中、いや校内で見ても間違いなくカースト最上位の荻原は成績優秀スポーツ万能。こんな早朝でも髪は綺麗にセットされていてバランスよく遊ばせた髪型に目鼻立ちも綺麗な中性的な顔立ち。女子人気もかなり高く、他クラスなのに女生徒が話をするためだけに昼休みに教室まで駆けつけて来たり何かと女子達が騒ぎ立てているのは記憶に新しい。
「おはよう鈴本、なんだか悪かったな」
「……何がだ?」
「教室に入ってこようとしたけど待っててくれただろ? こういうことになるなんて思わなくてさ」
荻原は参ったな、なんて表情で歩み寄って来たが、微塵の興味も唆られない凛太郎は視線も向けずに自分の机の傍に鞄をおろすと眉尻を下げ聞こえない様にため息を漏らす。
現在の時刻は朝の六時でクラスの人間は誰もいない教室。
部活の朝練でもないのに、こんな早朝から女子生徒に呼び出されてこの展開を想像しない男子高校生なんて果たしているだろうか?
そう思ったが、それをツッコむ程の交友関係でもない凛太郎は荻原に対して「そうだな」と一言応えると両腕を枕に睡眠の体制に入る。
「……お前は変わらないな」
そんな倫太郎の様子を数秒眺めた荻原は聞こえない位の小声で呟くと肩を竦めて自らの座席へと戻って行くのであった。




