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四話

千早は大獄丸という鬼の生まれ変わりだった。

そして琴葉はその大獄丸を打ち取った鈴鹿御前の生まれ変わりだった。

二人は前世の縁で結ばれていた。

二人はフチガミにかかわる事件を解決しようと奔走し始める。

 街灯もまばらな夜道を二人は人目を気にしながら歩いていた。

 流石に千早の姿を見られたら通報されかねない。

 幸いに不審者の情報が回っているからか、人の気配はなかった。

「私ね。鬼なの」

「鬼?」

「うん。正確には鬼の生まれ変わり。大嶽丸って鬼の生まれ変わりが私なんだ」

「大嶽丸──知ってる。坂上田村麻呂と鈴鹿御前がやっつけた鬼の話、私が小さい頃からお父さんに聞いたいたわ」

「じゃあ話が早いわ。高校に入ったころかな? 大嶽丸だった時の記憶がある日突然蘇った。両親は私の気が狂ったと思ったわ。そして少しずつ鬼の身体になっていった──血が欲しくなるのよ。大嶽丸は人の肉を食らい、血を吸う化け物だった。私も同じ。人の血が欲しくてたまらなくなった。実家が病院の私は輸血用の血をくすねてどうにか我慢していたけど、それにも限界が来た。その時よ、鈴鹿御前と坂上田村麻呂の思い出が蘇ったのは。大嶽丸は化け物だったけど本気で鈴鹿御前の事を愛していた。だから鈴鹿御前の血を吸えばこの吸血衝動も抑えられるかもしれないと思ったの。だから伝承を探して、この和渕市に行きついた。両親を説得して転校させてもらったの。琴葉と出逢えたのは偶然なの。まさか同じクラスに鈴鹿御前の血を引いた女の子がいるなんて思わなかった。でも運命だと思ったわ。だって一目で分かったもの。大嶽丸の記憶の中の鈴鹿御前と瓜二つ──鈴鹿御前の髪の毛は赤髪だったけどね」

 赤髪の天女──鈴鹿御前と琴葉は顔立ちがそっくりだったらしい。

 鈴音神社には鈴鹿御前の血が受け継がれている──まさか言い伝えが本当だったとは。琴葉はにわかに信じられず驚いた。

「私に鈴鹿御前の血が──」

「うん。おかげでフチガミを退けられた」

「あれはなんだったの? どうして私を襲うの?」

「鈴鹿御前と坂上田村麻呂が和渕市に祀られている表の神様。それは鈴音神社の御神体が鈴鹿御前なのからも分かるでしょ?」

「うん」

「それに対してフチガミは裏の神様。まつろわぬ荒神。洪水の化身たる水害の神様なんだよ。だから蛇なの。うねり、飲み込み、全てを壊していく神様」

「なんでそんな神様が私を狙うの?」

「ごめん。元はと言えば私のせいなんだ。鬼である私が来たことでこの地に眠る負のエネルギーが活性化してしまった。そのせいで土地神である鈴鹿御前の力に抑えつけられていたフチガミが目覚めてしまった。最近、夜に人が襲われている吸血鬼事件。あれもフチガミのせい。人を襲い、血を吸い、力を蓄えて表の神様──鈴鹿御前になり替わろうとしているんだと思う」

「だから私を襲ったの?」

「そう。琴葉は鈴鹿御前の生き写しみたいなものなの。だから琴葉も狙われている。フチガミは夜に活発になるけど夜は家にいるでしょ? 鈴音神社はこの和渕市で一番霊格が高い場所だし、鈴鹿御前を祀ってる場所だからフチガミもおいそれと手出しは出来ない。それに私がおまじないをしたしね。鬼の匂いをつけたから少しでも足しになったはずよ。でも、それにも限界が来たみたい」

「昨日、変な視線を感じたけど、あれがフチガミだったんだ──」

「恐らくはね。私も夜中に出歩いて警戒していたけど。まさかいきなり襲ってくるとは思わなかったわ。琴葉の血を吸ってなければ私は殺されていたでしょうね。やっぱり輸血用の血とは格段に違ったもの。力が溢れてきた」

「それでも痛かったでしょ。あんなにボロボロになって──ごめんね。本当にごめん」

 琴葉が頭を下げる。

「いいのよ。私の中の大嶽丸が鈴鹿御前を守りたがってる。それに何より私が琴葉を守りたかった。だからいいのよ。気にしないでちょうだい。末端とはいえ実体化したフチガミを倒したから大丈夫とは思うけど、今日は念のために琴葉の家に泊めさせてくれないかしら。いざとなったら守れるように」

 千早が微笑む。

「うん、大丈夫。ありがとう、千早」


 そうして二人は千早のマンションに到着した。


   §


「お邪魔します」

「いらっしゃい。どうせならもっと平和な時にお招きしたかったわね」

「あはは、確かにね」

 玄関でローファーを脱いで二人が部屋に入る。

「軽くシャワー浴びて血を流してくるから待っててね」

「うん」

 琴葉の目の前で千早が血まみれの制服のブラウスとびりびりに破れた黒タイツを脱いでごみ箱に捨てる。

「あーあ、お気に入りのブラジャーだったのに血まみれだわ。綺麗に落ちるかしら?」

 水色にフリルがあしらわれていたブラジャーに血が滲んでいる。

「血の汚れは水洗いに塩素系の漂白剤が良いってお母さんが言っていた気がするよ」

「なるほど、試してみるわ。ありがとうね。琴葉」

「ううん。本当にごめん。こんなに血まみれになるまでして私を守ってくれて。本当にありがとう。千早──」

 琴葉が千早を抱きしめる。

「──私の血がついちゃうわよ、琴葉。汚いわ」

「汚くなんてないよ。痛かったよね。辛かったよね。本当にありがとう。本当に、本当に、ありがとう──千早」

 琴葉がぎゅっと千早を抱きしめ続ける。

 しばらく千早は琴葉にされるがままで抱きしめられた。

 琴葉が手を離すと千早が微笑みを浮かべる。

「琴葉に抱きしめられるなんて、がんばった甲斐があったわ。じゃあ、シャワー浴びてくるから」

「うん」

 そう言って千早はシャワールームへと歩いていった。

 琴葉は取り敢えずソファーに座ってスマフォを取り出す。

「家に連絡しなきゃ」

 母親にメッセージを送る。

 自転車は盗まれたことにして、歩いて帰るから遅くなってしまったこと。そして一人暮らしの千早を暫く泊められないかという事を伝える。

 心配していたのか返信は早かった。自転車は暫く母親のものを使うことになった。

 千早の件も快諾してくれた。

「よかった──」

 一安心してソファーのクッションを抱きしめる。

 千早の匂いがする──。

 さっき抱きしめた時と同じ匂い。甘くてどこか懐かしくて優しい気持ちになる匂い──。

 落ち着くなあ。

 そんなことを琴葉は思うのだった。

 暫くして千早がタオルで髪の毛を拭きながら上がってくる。

 Tシャツにショートパンツと言うラフな格好だった。

 シンプルゆえに千早のスタイルの良さが際立っていた。

「おまたせ。すぐに着替えるから」

「ううん。大丈夫だよ」

 千早が奥の部屋へと消えていく。

 再び琴葉がクッションを抱きしめる。

 私に鈴鹿御前の血が流れてるなんて──嘘みたい。

 幼いころから聞かされていた坂上田村麻呂と鈴鹿御前の伝説が本当だったなんて、そしてうちの家系にその血筋が流れているだなんて。嘘みたいな話だった。

 水害の神様──フチガミ。

 もしかして私がたまに見る悪夢も何か関係しているんだろうか?

 街を濁流が全てのみ込んでいく夢。

 あれはこれを予期した夢だったのだろうか?

 そんなことを考えていると千早が部屋から出てくる。

 夏服の制服を着た千早が大きなボストンバッグを持っている。

「じゃあ、行きましょうか」

「うん」

 そうして二人は琴葉の家──鈴音神社へと向かった。


   §


「おかえりなさい、琴葉ちゃん。自転車を盗まれるなんて大変だったわね。それにお友達の子もようこそ」

「ただいま。お母さん」

「初めまして。七海千早です」

「一人暮らしなんて物騒だからね。琴葉ちゃんのお友達なら何泊でもいいからね」

「ありがとうございます」

 千早が琴葉の母親に頭を下げる。

「まあまあ二人とも上がってちょうだい。晩御飯の準備すんでるから、いっぱい食べてね」

「はい」

 二人が手を洗ってテーブルに座る。

 既に父親が待っていた。

「おかえりなさい、琴葉。それにいらっしゃい。えーっと」

「七海千早です」

「七海さんもようこそ。話はお母さんから聞いているよ。物騒だから暫くは泊っていきなさい」

「ありがとうございます」

「ご飯よー」

 母親が料理を並べる。今日の晩御飯はサバの味噌煮、肉じゃが、切干大根、カブと油揚げの味噌汁だった。

「いただきます」

 みんなで揃っていただきますをして食べ始める。

「うん、とっても美味しいです。このサバの味噌煮」

 肉厚のサバを日本酒で下処理をしてから白みそ、砂糖、ショウガでくつくつと煮込んだサバの味噌煮は甘じょっぱくてご飯が良く進む味付けだった。

「お母さんは本当にお料理上手なんだよー」

「あらあら、褒めても何も出ないわよ」

「ふふふ、だって本当なんだもん」

 和やかに食事が進む。

 琴葉にとっては当たり前の光景で、しかし千早にとっては久しぶりの光景だった──。


   §


 夕食後、デザートにスイカを食べた二人は琴葉の部屋に行く。

「じゃあ、お風呂に入ってくるから、ちょっと待っていてね」

「うん。ごゆっくり」

「じゃあ、また後で」

 琴葉が部屋を出ていく。

 一人残された千早は琴葉の勉強机の椅子に座る。

「はあ──」

 そしてうなだれたように息を吐く。

「痛かったなあ」

 両腕で身体を抱きしめる。そこに傷はない。折れた骨も元通り。しかし心の傷は完全には癒えてなかった。何しろ骨が折れるなんて初めての経験で、牙で切り裂かれるのも、血反吐を吐くのも初めてだった。鬼の力に目覚めて身体能力が上がってから周囲にばれないように貧血という事にしていたが、初めて全力でその力を行使した。

「怖かった──でも、もっと戦えるようにならなきゃ」

 今日倒したのはフチガミの末端。使い魔のようなものだ。これからも琴葉は狙われるだろう。だからもっと強くならなきゃ──そう千早は思った。

 もっと、もっと、強く──琴葉を守るためにはもっと力を上手く扱えるようにならなければ。

 今日の戦いは鬼の力に任せてがむしゃらに戦っただけだった。

 もっと相手の間合いを見る目を養わなければ。

 もっと効率的に相手を倒せるように戦い方を見直さないと。

 鬼の体力は人間のものよりも圧倒的に高いが、それでも疲労は感じる。

 戦っているうちに動くスピードも落ちてしまうだろう。

 フチガミも鬼同様に人間の埒外の存在だ。荒ぶる神様を倒すには知恵が必要だ。力任せではいずれ限界が来るかもしれない。何とかしなきゃ──思ったよりも余裕はない。

 でも、取り敢えず今日は退ける事が出来た。

「暫くは襲ってこないとは思うけど、何か手を打たなきゃね」

 千早が考え込む──。


   §


「はあ──」

 浴槽で琴葉が身体を伸ばす。

 髪を洗ってサッパリして、湯船で今日の疲れを癒す。

「大変だったなあ」

 大変だったのは助けるために戦ってくれた千早なんだけど──なんて想いながら、やっぱり大変だったなと琴葉は思った。

 フチガミに襲われて、千早に助けてもらって──。

 千早が鬼だったなんて。でも優しい鬼だった。

 私をかばって血だらけになってまで戦って助けてくれた。

 本当に優しい鬼さんだ。

「カッコよくて、綺麗だったなあ──」

 腰まで伸びた白銀の髪の毛をなびかせながら戦う姿は人の理を超えた存在であることを雄弁に語っており、同時に絶世の美を証明していた。

 でも、痛そうだった。

 千早は平気だって言っていたけれど、それでも私は千早の背骨が砕ける音を忘れられない。

 普通の人間なら死んでいてもおかしくはない。

 それなのに千早は微笑んでくれた。

 守りたいと言ってくれた。

「私にも何か出来ないのかな──」

 琴葉が湯気の立ち上る浴室で一人呟く──。


   §


 お風呂上り、歯磨きをして、布団をひいていく。

「琴葉、お願いがあるの」

「なに? 千早」

「寝る前に琴葉の血を少し吸わせてくれないかしら。実はまだ身体が少し痛むの」

「うん。いいよ」

 琴葉がパジャマのボタンを緩める。

 白磁のような素肌は湯上りでほんのりと上気してるようだった。

 千早が牙を見せる。

「じゃあ、いただきます」

 千早が首筋にキスするかのように牙を突き立てる。

「んっ──。くぅ──」

 琴葉は懐かしさと一緒にどうしてか無性に気持ちよさを感じてしまっていた。こんな声聞かれたらはしたないって思われちゃうかも──でも、なんだか気持ちいい。琴葉の理性が揺らいでいく。

 千早が牙を抜く。どうやら血を吸い終わったようだ。

「あんっ──」

 千早が琴葉の首筋を舌で舐める。

 ペロペロと飼い犬が甘えるように。

 琴葉は未体験の快感を覚えた。

 どうにかなっちゃいそう──。

「おしまい。舐めたから傷跡は残ってないはずよ。鏡で確かめてみて」

 琴葉の血を吸って髪の毛が白銀になった千早が琴葉を促す。

「あっ、──うん」

 琴葉は快楽で少しぼうっとしていたが千早の言葉に従って鏡で首筋を確かめる。

「本当だ。なんの痕もない」

 首筋にはなんの傷跡も残っていなかった。

「鬼の唾液による治癒力と、琴葉自身の鈴鹿御前の力が活性化しているからその程度の傷ならあっという間に治っちゃうのよ」

「鈴鹿御前の力?」

「そう、琴葉の血を吸うことによって私の大嶽丸の力が活性化するように、琴葉も鈴鹿御前の力が活性化するの」

「へえ、そうなんだ」

 鈴鹿御前の力が覚醒したら──。

「鈴鹿御前の力がもっと覚醒したら、私も千早の役に立てる?」

 千早は渋い顔をする。

「琴葉には戦ってほしくない。フチガミが暴れ始めたのは私のせいだし。琴葉には危ない目にあって欲しくない」

 今度は琴葉が険しい顔をする。

「私だって千早には戦ってほしくない。今日みたいに千早が傷つくのをただ見ているだけなんて嫌だわ。私も一緒に戦って、千早の役に立ちたい」

「それでも──琴葉には戦ってほしくない。それに琴葉の力はまだ目覚めていないみたいだしね。その言葉だけでも十分よ」

 千早が微笑む。

 琴葉が泣きそうな顔で千早の胸に顔をうずめるように抱きしめる。

「無茶はしないで。お願い──約束して」

「──うん。ありがとう、琴葉」

 しばらく二人は抱きしめあった。


    §


 布団を横に並べて、琴葉と千早は並んで寝る。

 琴葉が部屋の灯かりを落とすと暗闇に包まれる。

「おやすみ。千早──今日は本当にありがとう」

「いいのよ──おやすみ、琴葉。いい夢を」


 そうして二人は夢の世界に旅立った──。


   §


 ──轟々と炎が辺りを燃やしている。

 何かに薙ぎ払われて折れた木々が燃えている。

 辺り一面を炎に囲まれている。

「鈴鹿よ。大丈夫か?」

 鈴鹿──?

「鈴鹿よ。しっかりしろ。あやつを倒すまであと僅かだ」

 そうして視界に一人の男性が映る。

 黒髪を後ろで結ってある美丈夫で、纏った鎧は所々焦げ付いているがその顔には生気がみなぎっている。

 そうだ──私は鈴鹿御前。

 鈴鹿山に生まれた天女。羽衣を纏い、赤髪を揺らして、三つの宝剣を操る化身。

 そして目の前の男、坂上田村麻呂と恋仲に落ちた。

 そう、今は蝦夷征討の途中。

 この和渕で大嶽丸という鬼を退治している最中だった。

「大丈夫です、あなた。私はまだやれます」

「そうか、大事ないか。ではいくぞ、あやつはまだ倒れていない」

 瞬間、殺気が飛んでくる。

 ひらりと躱すと今まで立っていた場所を遅れて斬撃が襲ってくる。

「鈴鹿御前よ、殺すには惜しい。どうか私と共に生きてはくれないか」

 燃え盛った木々の合間から白銀の鬼が出てくる。

 その体はあらゆる個所が傷だらけで立っているのが不思議なくらいだった。

 満身創痍の身体で、しかし大嶽丸は諦めずに爪をふるう。

 その爪を田村麻呂が受け止める。

「諦めろ、大嶽丸。鈴鹿は人の世界に下った。彼方から此方に渡ったのだ。お前とはもう住む世界が違う」

 そして大太刀で爪を払いのけ、大嶽丸を左肩から勢いよく袈裟切りする。

「がふっ──」

 白銀の鬼はなんとかこらえようとするが限界だった。

 天を仰ぎ見るようにして地面に倒れる。

 炎がパチパチと音を立てて木々を燃やす中、荒い息を吐く音が響く。

 大嶽丸が口をゆっくりと開く。

「私はもう死んでしまうだろう。頼む、後生だ──鈴鹿御前よ、とどめはお前がさしてくれ」

 私は少し躊躇してしまう。

「鈴鹿よ。私がしようか?」

 しかし──。

「いいえ。あなた──ここは私がします。そうしなければならないのです」

 三つの宝剣の一つ、顕明連を抜く。

 大の字で倒れている大嶽丸を見下ろす。

「ああ、鈴鹿御前よ。お前は美しい──まさに天女だ。赤く長い髪も、白磁のような肌も、その顔立ちも、永遠に見ていられる。本当に美しい。こんな気持ちは初めてなんだ。愛している。愛しているよ、鈴鹿御前──」

 そうして目を瞑る。

「大嶽丸。もしも出会いが違かったのならこうはならなかったでしょう。生まれ変わったのなら。もう一度会えるのなら、きっといい出会いになっていたに違いありません。再び出会えることを楽しみにしていますよ。いずれ、来世で──」

 そうして、私は顕明連を深々と彼の心臓に突き立てて──。


   §


 来世で──。


 淡い光がカーテンから差し込んでいた。

 朝だ。

 今、何か夢を見ていた気がする。

 そして気が付く。

 自分がボロボロと涙を零していたことに。

 なんで──なんで私、こんなに悲しいんだろう。

 訳も分からず、でも涙は止まらなかった。

「琴葉? おはよう。早いのね──琴葉、泣いてる?」

「あっ、おはよう。千早──何だか涙が止まらなくて」

 すると千早は琴葉を抱き寄せて優しく頭を撫でる。

「よしよし。私がいるよ。大丈夫、怖いことなんてないよ」

「千早──ありがとう。ちょっとこのままでいさせて」

「もちろん。琴葉を抱きしめられるなんて役得ね」

 暫く琴葉は千早の胸の中で泣いていた。

 けれど琴葉は徐々に悲しさが薄れて、優しい気持ちに満たされていくのを感じていくのだった。


   §


「いってきまーす」

「その、いってきます」

「二人とも行ってらっしゃーい」

 二人が琴葉の母親に見送られて学校に向かう。

 母親の自転車は使っていなかったから少しガタが来ていたが無理は言えない。

 サドルを少し上げるとサビついた音がするが気にせずに乗った。

 自転車を漕いで学校へと向かう。

「琴葉。昨日寝る前に考えたんだけどね」

「うん」

「フチガミ対策で出来る事があるかもしれないから放課後付き合ってくれない?」

「もちろんいいよ。何をするの?」

「琴葉の血を吸った状態の私の血を使ってこの和渕市の霊脈に結界を張るの」

「結界? そんな事も出来るんだ? 大嶽丸の記憶のおかげってやつ?」

「そう。大嶽丸は暴れるだけじゃない理性的な面も持ち合わせた鬼だったみたい」

「へー、そうなんだ」


『ああ、鈴鹿御前よ。お前は美しい──』


 ──何か、聴こえたような、思い出したような。

「千早?」

「なに?」

「いや、なんでもない──」

 気のせいだったのかな?

 琴葉は左右を見渡す。何も変わったところはなかった。

 いや、後ろから視線を感じる。


「おはよー。琴葉、千早さん」


 後ろから追いついたのは茜だった。

「茜!? もう大丈夫なの? 何日かお休みするんじゃ?」

「なんか昨日の夕方くらいから急に元気になったんだよね。気だるい感じとかが一気になくなって元通りって感じ。鉄分サプリが効いたのかなあ?」

 茜が元気そうに笑う。

「いや、サプリはそんなにすぐには効かないと思うわ」

 千早が返す。

「じゃあ、なんでかなー。でも元気になったのは本当だよ。こうして自転車も漕げるし」

 確かに普通に自転車を漕いでいた私達に追いついたもの、元気なのには違いない。何でだろう? サプリのおかげ? まさかね。やっぱり昨日フチガミ──千早は末端って言っていたけど、それを倒したからなのかな? なんてことを琴葉は思った。

「とにかく茜が元気になってよかったよ。本当に心配したんだからね」

「うん。心配した」

「あはは。もう大丈夫! これで今週末の体育祭もバッチリだよ」

「そっかー、もう体育祭だね」

「そうそう。今年は私も琴葉もいるから優勝間違いなしだね!」

「私もがんばって応援するわ」

「千早さんはやっぱり見学?」

「うん。残念だけどそうするわ」

「そっかー。残念だなー」

「いっぱい応援してね。千早」

「そうだね。応援団長よろしくね。千早さん」

「あはは、私に出来るかしら」

「大丈夫だよ。後で演劇部から衣装借りに行こう」

「えっ、本当に衣装着るの!?」

 千早が珍しく慌てた声を出す。

「やっぱりチアリーダーかなー」

「学ランもいいよねー」

「悩むなー」

「悩むねー」

 琴葉と茜がそれぞれの衣装を着た千早を想像する。

「千早さんスタイルいいからどっちの衣装も似合いそうだよね」

「うんうん、絶対似合う。本当に千早はスタイルいいんだよ。見たから分かるんだもん」

 琴葉は昨日の夜に血まみれのブラウスを脱いだ千早を思い出す。

 羨ましいことに己よりも確実に胸が大きくて、それでいて腰回りはほっそりとしていた──。

 本当に、本当に、羨ましい。

 もう少しご飯減らさなきゃダメかな? でもお母さんのご飯美味しいし。お母さんもいっぱい食べると喜んでくれるし──そんなことを琴葉は思うのだった。

「その──本当に着ないとダメ?」

「ダメ!」

「絶対に着て!」

 琴葉と茜が千早に声をあげる。

「お昼休みに行こう。そうしよう」

「そうだね。早い方がいいや。放課後は早く帰れってなるだろうし」

「確かにそうね」

「そういやなんで千早さんのスタイルが良いって琴葉は分かるの? まあ見れば分かるんだけど。実際に見たってどういう事?」

「あっ──」

 失言だったと琴葉は前言撤回したくなった。しかしもう遅い。

「最近物騒でしょう? 一人暮らしだから琴葉が心配してくれて、何日かお世話になる予定なの。それで着替えとか一緒の部屋でしたから」

 千早がフォローする。

「なんだ。そうなんだー。確かに一人暮らしだと危ないもんね。特に千早さんはめちゃくちゃ美人さんだからねー」

 そんなことを言い合いながら学校への長い坂道に差し掛かり、三人とも自転車から下りて歩いていく。

 登校する生徒で道は混み入っていた。

 まだ残暑は厳しく、陽は上りかけで中天にはまだ遠いというのにジリジリと肌を焦がすような不快な暑さが三人を包み込む。まだ自転車に乗っていた時の方が風を感じられて涼を得る事が出来ていたのだと実感する。

「自転車降りるとあついねー」

 茜が額の汗を拭う。

「そうねー。文化祭の頃には落ち着いているといいんだけど」

「文化祭っていつ?」

「十月の第二土曜日」

「へー」

「絶対に体育祭で優勝してメイド喫茶しようね! 琴葉!」

「あはは、私は別にメイド喫茶じゃなくても──」

 茜が意気込み、琴葉は曖昧な笑顔を浮かべる。

「──? なんで体育祭で優勝すると文化祭でメイド喫茶なの?」

 千早が上手く呑み込めずに問いかける。

「いつからかは分からないけど伝統なんだよ」

「体育祭の順位で倉庫の貸衣装とかの優先順位を決める伝統が昔からあるんだよね。文化祭のクラスの出し物ってメイド喫茶とかお化け屋敷が定番なんだけど体育祭で一位をとったクラスが毎回メイド喫茶をするようになって、いつの間にかそれが伝統になってるの」

「演劇部とか裁縫部が定期的にメイド服を増やしたり改造したりしてるからクラス全員分は確保できるの」

「クラス全員分って四十着以上あるわよね。凄いわ」

「という事で絶対に体育祭で一位になってメイド喫茶がしたいの!」

「そんなにメイドっていい?」

「えー、可愛いでしょ? 可愛いは正義なの。千早さんもそう思わない? みんなでメイド服着たら絶対楽しいよ。琴葉とか絶対に似合うし」

 茜が千早に話題を振る。

「──そうね。琴葉のメイド服はみたいかもしれない」

「でしょー!!」

「えー、その時は千早も着るんだよ? いいの?」

「いいわ。琴葉のメイド服が見られるんなら。私、がんばって応援する」

 千早は決意の籠った視線で琴葉を見つめる。

「はいはい。分かりましたよー、まあがんばって優勝するのは嬉しいからね。がんばりますかー!!」

「おー!!」

「おー」

 琴葉の言葉にみんなで腕を上げる。

 そうこうする内に学校へと到着する。

 今日もまた何気ない日常が始まるのだった。


   §


 授業を終えて足早に昼食を食べた三人は演劇部に向かった。


「すいませーん」

 コンコンと部室のドアをノックをする。

 暫くするとガチャリとドアが開く。

「はーい」

 黒髪を三つ編みに束ねた少女が出迎える。

「すみません。二年A組の高咲茜と言います。体育祭の応援で使う衣装を借りたいんですが」

「私、三年の扇谷すずめ。いいよ、どうせチア服か学ランでしょ? 衣裳部屋にあるのを好きに持って行って良いから」

「ありがとうございます!」

「みんなこの時期になると借りに来るからねー。衣装のタグの番号とクラスをこの貸出表に記入していってね」

「分かりました!」

「やったー。千早に似合うのは何かなー」

 三人は部室の隣にある衣裳部屋に入った。

 「わー、広いのね──」

 千早が部屋に入るとポツリとつぶやく。

 そこは普通の教室を二つ繋げたような空間で、もはや大型の倉庫と言っても過言でない広さだった。衣装の劣化を防ぐために遮光されており少し圧迫感はあるがやんわりと空調も効いていて人間にも優しい空間になっている。

 そしてそこに衣装がずらりと並んでいた。

 ゴシック調のドレスだったり、タキシード、着物、ミリタリールック、洋装に和装なんでもありの空間だった。

「もう一部屋、裁縫部と共同の倉庫があるけどチア服とかならここにあるので十分だと思うよ」

 付き添いのすずめが少しだけ誇らしげに言う。

「はい! チア服か学ランを探しているんですが」

「誰が着るの?」

「この子です」

 茜が千早を指さす。

 すずめが値踏みするように千早を見つめる。

「ふむ。背が高いから学ランもいいけど、胸があるからサラシで巻いてやった方がいいかな? でもチア服の方が似合う気もするね、個人的には。千早さんはどうかな? どっちがいいとかあるかい?」

 千早が悩んだ素振りを見せる。

「うーん。正直、こだわりはあまり無いので似合う方がいいです。扇谷さんのセレクトで試着させてもらってもいいですか?」

「ふふふ、任せてもらおうじゃないか。何がいいかな──」

 すずめが倉庫の衣裳部屋の奥をガサゴソと漁って何点かピックアップする。

「まずは学ランだね。ペラペラの安物じゃなくてしっかりとした縫製がされているから型崩れもしないし良いと思うよ。じゃあ着替えてみようか。試着室もあるから」

「はい」

 部屋の中ほどに試着室が二つあった。そのうちの一つに千早が学ランを持って入る。

「サラシはきつすぎない程度でいいからね」

「分かりました」

 試着室の中で千早が制服のブラウスを脱いでいく。パステルイエローのブラが千早の胸元を彩っている。

 これ、ブラも外して着けるのかしら?

 千早は疑問に思った。

「すずめさん。サラシはブラの上からでもいいですか?」

「うん、今日はお試しだからそれでもいいよー。本気で男役やるときはブラも取ってガチガチに巻いて胸を潰すんだけどね」

「なるほど、分かりました」

 千早は少しほっとしてサラシを巻いていく。気持ち強めに胸を圧迫するように。でもブラのワイヤーが壊れないように注意して。

 そしてスカートも脱いで軽く制服を畳んで、藤製のスツールの上に置いて着替え始める。

 まずはズボンを履いてベルトをしめる。

 そして学ランを羽織り、胸元のボタンを閉めていく。

 結構きついかも──。

 そんなことを千早は想いながらも着替えを済ませた。

「千早、どう?」

「ちょっと待って。もう少し──」

 そして千早が試着室のカーテンから首を出す。

「笑わない?」

「笑うわけないよ」

「そうだよ。早く見せて、見せて」

「絶対に笑わないでね──」

 千早がカーテンをおずおずといった様子で開ける。

「おー」

「なるほどー」

 そこには男装の麗人が立っていた。

 人形のような顔立ちと黒髪のコントラストが学ランと絶妙なバランスを醸し出していた。少し華奢で線が細く見えるがそれも魅力的なアクセントになっている。

「ふむ。やはり胸が苦しそうだね」

「はい。少し苦しいです」

「君はやはりチア服の方がいいかもな」

 すずめが言う。

「あっ、着替える前に! 千早さん。ポニーテールにしてみて。絶対に似合うから!」

 茜が強めの口調で懇願する。自分のヘアゴムを外して千早に渡す。

「いいけど。似合うかしら?」

「絶対に似合う。琴葉もそう思うよね」

「うん、絶対に似合う!」

「じゃあ──」

 千早が茜のヘアゴムを使って己の長い艶髪を結っていく。

 サラサラの髪の毛が一条の房髪に纏められた。

「きゃー!! カッコいいよ千早さん!!」

「うんうんとっても素敵!」

「ふむ、いいバランスだ」

 三人が口々に千早の髪型を褒めて、そのままスマフォで撮影し始める。

「うー、なんだか恥ずかしい」

 千早が顔を俯かせる。

 そんな姿も絵になっていた。

「千早さん。こっち向いて! 本当に似合ってるから」

「うん。本当に似合ってるよ」

「そう?」

「ああ、元が美人だからたいていのものは似合うだろうが学ランも似合っていて良いと思うぞ」

「うー、でも恥ずかしいから次の衣装に着替えます!」

 千早がカーテンを閉める。

「えー、もっと写真撮りたかったー」

「後で撮った写真交換しようね」

「私ももらっていいかな?」

「もちろんいいですよ。すずめ先輩」

 そんな声を聴きながら千早は次の衣装に着替え始める。

 学ランを脱いでいってサラシを外すと解放感がやってくる。

 次の衣装はチア服だった。

 青色がベースで黄色の模様が入っているチアリーダーの衣装は千早が見ても布地がしっかりしていて本物の衣装みたいだった。

 そして何より可愛かった。

 いくら鬼の生まれ変わりだろうと嗜好は普通の女の子。

 千早は可愛いものが好きだった。

 この衣装かわいい──。

 そう思いながらアンスコを履いて。チアリーダーの衣装を身に着けていく。

 心配していた胸廻りは千早用にあつらえたかのようにぴったりだった。

 みんなの見せる前に千早は鏡の前で自分の姿を見る。

 チアリーダーの衣装から覗く千早の白い肌が青と黄色のチア服といいコントラストを生み出していた。ミニスカートから覗くスラリとした脚線美は下品さを感じさせず、健康的な付加価値を生み出していた。

 いいかも──。

 さっきの学ランよりもしっくり来ている。

 少しミニスカートが短い気はするけど、アンスコを履いているから大丈夫だろう。

 うん、可愛い。

 己の姿に納得した千早はカーテンを開ける。

「わー!!」

「かわいい!!」

「似合ってるな」

 三人とも学ランよりも好感触な反応だった。

「琴葉──どうかな?」

 千早が問いかける。少しだけ期待している声色だった。

「めちゃくちゃ可愛い! 千早にすっごく似合ってるよ!」

「えへへ。嬉しい」

「これはチア服で決まりだね」

「私もそう思う」

「はい。こっちの方がしっくりきます。借りていっていいですか?」

「ああ、もちろんだ。貸出表に記入していってくれ。その衣装は家庭用の洗濯機でも洗える衣装だから洗濯ネットに入れて洗って返してくれたらいいよ」

 すずめが貸出表を持ってくる。

 それに千早が記入していく。

「じゃあ、ありがとうございました」

「ありがとうございました!」

「ありがとうございましたー」

「ああ、また遊びに来ておくれ」


   §


 三人が部室を出て教室に戻る。

「いい衣装が手に入って良かったね」

「うん、千早に似合っていた!」

「がんばって応援するね」

「うん! がんばる」

「そうだね。がんばらなきゃだね」


 そうして午後の授業が始まる。


   §


 放課後。

 まだ不審者が捕まっていないというのもあって部活禁止令は解除されていない。

 生徒たちは早めの下校を促されていた。

「じゃあ。琴葉に千早さんも気を付けてね」

「うん。茜もまだ無理するんじゃないよ」

「気を付けてね。茜さん」

「うん。二人ともありがとう。それじゃあね」

 二人は茜の家を出て自転車を漕ぐ。

「千早。朝の話だけど、霊脈に結界を張るのってどうするの? っていうか霊脈って何処?」

「琴葉の血を吸って大嶽丸の力を強くした状態で血を使って結界を張るの。霊脈は数か所あるから何日かに分けて張っていこうと思う。まずは琴葉の家──鈴音神社ね」

「私のお家?」

「鈴音神社はこの和渕市内でも屈指の霊格を持っているからまず先にそこを抑えないとね」

「なるほどね。じゃあ、今日は取り敢えずお家に直行するの?」

「ええ」

「わかった」


 二人は自転車を漕いで家路を急ぐ。

 夕方、風が涼しくなっていった。


   §


 琴葉の家に着くと二人は部屋に向かい、着替えようとする。

「琴葉、血を飲ませて」

「うん」

 慣れた様子で琴葉がブラウスのボタンを外す。

 そして露出した首筋に千早が牙を突き立てる。

「んっ、くぅ──」

 やっぱり気持ちいい。何だか変な気分になっちゃいそう──そんなことを琴葉は思う。

「ありがとう」

 千早の髪の毛が銀髪になっている。

「千早。でもその髪だとお母さん達に見つかったら目立っちゃうね。帽子でも被る?」

「大丈夫。ちゃんとウィッグを準備してるから」

 千早が旅行用のボストンバッグからウィッグを取り出す。

 銀髪を纏めようとする前に千早が琴葉に訊ねる。

「琴葉。ハサミってある? 貸してくれない?」

「ハサミ? いいよ。紙切るやつ? 布切るやつ?」

「布用の断ち切りバサミがいいな」

「うん。ちょっと待ってね」

 琴葉が引き出しからハサミを取り出す。

「はい」

「ありがとう」

 千早がハサミを受け取る。

「何を切るの?」

「私の髪の毛」

 すると千早は銀色に艶めく髪の毛を束にしてハサミで切り落とした。

「えっ、切っちゃうの!?」

「髪は神の依り代。魔力が貯められているのよ。それに戻るから安心して。これを束ねて──」

 千早が銀髪をひもで束ねる。

「そして私の血をなじませるの」

 千早がカバンから折りたたみ式のナイフを取り出す。刃渡り十センチ程のナイフは少し武骨だが持ち手が赤い漆細工が施されていて優美な印象を持っている。

 千早が掌に刃をあててナイフを僅かに滑らせる。

 僅かに遅れて血がポタポタと流れ始めた。

「こうやって髪の毛に私の血をなじませる」

 千早はなんてことのないように血をたらしているが、琴葉から見ればそれは痛みを伴う行為にしか見えなかった。

「千早。痛くない? 痛いよね?」

「まあ──ちょっと痛いわね。でも平気よ、すぐ治るし」

「でも痛いのは苦しいよ。ごめんね、ありがとう」

「だから元はと言えば私のせいなんだから気にしなくていいのよ」

「気にするよ。友達が痛がってるんだから」

「──ありがとう。琴葉」

 掌の傷が癒えて、血が止まる。

「じゃあ、行こうか」

「何処に霊脈があるの?」

「鈴音神社全体が霊脈だけどその核になる場所は私も見てみないと分からないわ。ちょっと散策してみましょう」

「うん」

 血をしみこませた髪の毛の束を封筒に入れて、二人は部屋を出て鈴音神社を回ってみることにした。


 鈴音神社はこの和渕市でも有数の大きさを誇る神社で普段は参拝客も多い。

 しかしここ最近の事件のおかげで夕方にもなれば人気は無くなって広大な敷地には寂しい空気が漂っている。

 そこを二人が歩いて霊核をさがしていく。

「この神社。広いわね」

「うん、昔からある神社だからねー」

 昼間に太陽が送っていた熱い熱波ももう薄れて程よい空気となっていた。

「やっぱり本殿かな?」

 御社殿の中でも神様を祀っているとされる本殿を覗き見る。

「流石に入れないか」

 本殿は鍵がかかっている。

「でも、やっぱりここに霊核はあるみたい。何か強い魔力──霊気と言った方が正しいのかしら? 間違いなくここにあるわ」

「うーん。あんまり良くないけど、本殿に入っちゃおうか」

「入れるの? 最悪鍵を壊そうと思ってたけど」

「壊すのはやめて! 社務所に鍵があるからこっそり持ってくるよ。ちょっと待ってて」

 琴葉が社務所に走っていく。

 それを千早は見送る。

「本当に広いのね。ここ──」

 千早は境内をぐるっと見て回って時間を潰すことにした。

 御社殿以外にある小さな社の摂社や末社を見ていく。

「へえ、かまどの神様とかも祀っているんだ」

 本殿は鈴鹿御前を祀っているが、それ以外にも所縁のある土地神などを祀っている社を眺めて、石碑の説明文を読んでいく。

 参道を歩くと本殿よりも大きな建物が見える。

「結婚式場──ね」

 そこは神道式の結婚式を行う場所だった。

 結婚──好きあったもの同士で生涯を誓う儀式。

 千早が結婚に想いを馳せる。

 琴葉と──琴葉がいいな。

 私の中の大嶽丸は鈴鹿御前に惹かれている。

 だから鈴鹿御前の血を強く受け継ぐ琴葉に私も惹かれている。

 けれど──それだけじゃない。

 きっかけはそれだったけれど、私は、七海千早は田中琴葉に惹かれている。そう、強く思うのだった。

 千早がぼんやりとそんなことを思っていると琴葉が走ってやってくる。

「千早、本殿にいないから何処に行ったのかと思ったよ」

「ねえ、琴葉? 結婚したい?」

「結婚!? いや、どうかなあ。まだ現実的じゃなさ過ぎてよく分からないや」

「じゃあ、恋愛は?」

「恋愛も──よく分からないなあ。まだ誰かを好きになった事がないもの」

「そう──いつか、分かる日が来るといいわね」

「そういう千早は?」

「私? いるわよ。好きな人」

 千早が琴葉をじっと見つめる。

「えっ、だれ!? 私の知ってる人?」

「ふふふっ、内緒」

 千早が淡く微笑む。

「えー、ずるい。教えてよー」

「さあ、結界を張るわよ」

「あっ、話題反らすなんてずーるーいー」

 千早が本殿へと歩き始めると後ろから琴葉が駆け寄る。


   §


 琴葉が鍵を開けて、二人で本殿の中に入る。

 そこは二間に別れている大きな部屋だった。

 祭壇の中央には丸い鏡が置かれてあり、その周囲にお神酒などが添えられている。

「この鏡かな?」

「うーん。これも霊格は高いけど、もっと凄いのがあると思う」

「どれだろう?」

 二人で手分けして探す。

 大きな部屋とはいえ、ものがあまり多くはないのでそこまで手間ではなかった。

「たぶん、これ」

 千早が一メートルくらいの木箱を見つける。

「開けてみようか」

「うん」

 薄明りの中で、二人は木箱を開ける。

「これは──」

 それは日本刀だった。

 薄明りの中でもしっかりとした力強い輝きを放っており、サビとは無縁のようだった。

 造りは反りがついており腰元から強く反るタイプの太刀で平安時代に作られているタイプの刀剣だった。

「これ、見たことがある。昔、お父さんが見せてくれた。確か鈴鹿御前が持っていた刀──名前は顕明連だったはず。これ、もしかして本物なの?」

「強い力を宿しているから、本当に鈴鹿御前の刀なのかもしれないわね。もしくはそのレプリカだとしても相当な年代物よ」

「へー、お父さんの冗談だと思っていたけど、凄い刀だったんだね」

「これにしましょう」

 千早が太刀の持ち手である柄の部分に髪の毛を結んでいく。

「これでよし」

「おしまい? 結構簡単だね」

「元々ここは霊格が高いし安定してるからね。大嶽丸の血でそれを増幅させれば済むのよ。他のところでも私の血と髪の毛で結界──というかマーキングしてフチガミの力を抑え込むだけ」

「じゃあ、明日から色んな所に行かなきゃね」

「神社にこの辺の古地図とかないかしら? ヒントになりそうだからあったら嬉しいのだけど」

「うーん、あんまり古いのはないかなあ。学校の図書館の方が良いと思う」

「じゃあ、明日は図書館に行きましょう」

「うん!」

 太刀を元の場所に戻して本殿を出る。


   §


 家に戻り、夕飯を食べてお風呂に入る。


「あー、気持ちいい──」

 千早が湯船に入って身体を伸ばす。

 黒髪がふよふよと湯船を揺蕩っている。

「このまま何事も無ければ良いのだけど──」

 フチガミの気配はしない。

 あの嫌な視線や怖気が今のところ市内には漂っていない。

 本体を叩いたわけではないけど、一定の抑止効果は得られたのかな?

 そんなことを千早は思う。

 別に鬼の力に目覚めたからと言って好戦的になった訳ではない。大嶽丸の力に飲まれる感覚もない。しいて言うなら大嶽丸から感じるのは鈴鹿御前への思慕の念だ。それは日増しに強くなっているのを実感する。

「琴葉──」

 最初は大嶽丸のせいだと思っていた。

 琴葉の血が吸いたくてたまらなかった。

 琴葉の血は美味しい。

 どんな果実よりもフレッシュで、香り高くて、滑らかで、甘く感じる神聖な処女の血。

 禁断の味がする。

 ここ何日かは琴葉の血を毎日吸うことが出来ている。

 それが嬉しい。

 でも、少しだけ怖い。

「私──ずっとこのままなのかな」

 ずっと鬼のままなのだろうか?

 一生、鬼の力を宿して生きていくのだろうか?

 貧血気味で体育を休んでいるのはうっかりすると人外の力がバレて迷惑にならないようにしているからだ。本気で身体を使えば日本新記録どころか世界新記録なんて目じゃないくらいの身体能力を持っている。俊足さと怪力、それに再生能力。即死さえしなければたいていの傷は回復してしまうくらいの治癒能力がある。もちろん琴葉の血を吸っているとき限定だけど。

 琴葉の血は特別だ。

 輸血用の血液パックとはまるで違う。別格だ。

 味だけでなく、その効力も。

 ただでさえ鬼の力が発現して強化された肉体は、琴葉の血を吸っている時に限れば不死身にも等しい化け物の力が引き出せる。だからフチガミにも対抗できるけど──。

 いつかこの手で琴葉を傷つけるのではないか?

 それだけが心配だった。

 琴葉を守りたい。

 琴葉を傷つけるもの全てから琴葉を守りたい。

 己が傷つける側になるなど言語道断だ。

 そう、千早は思う。

「琴葉──」

 風呂の湯で顔をパシャパシャとする。

 お湯は少しだけぬるくなっていた。


   §


「お風呂。ありがとう」

 お風呂上り、Tシャツにショートパンツというラフな格好で千早が琴葉の部屋に戻る。

 湯上りの千早は少しだけ上気した顔で艶めかしい姿だった。

「じゃあ、私も入ってくるね」

 琴葉がバスタオルと着替えを持って出て行こうとする。

 それを千早が遮る。

「琴葉──血が吸いたい」

 しなだれかかるように千早が琴葉に抱きつく。

「えー、今日はもう吸ったじゃない」

 琴葉は少しドキドキしながらも平静を装って返す。

「もう少しだけ。お願い、琴葉」

「──仕方がないなあ」

 琴葉が部屋着を少しずらして首筋を見せる。

「じゃあ──」

 千早が吸おうとするが。

「その──」

 琴葉がサッと首筋を隠す。

「なに?」

「その──さ、首筋じゃなきゃダメ? 汗かいてるから匂いとか恥ずかしいというか」

「琴葉はいつも良い匂いよ?」

 千早が不思議そうに首を傾げる。無垢な赤ん坊のようだった。

「いや、そんなの分からないじゃない。実際に嗅いでみれば匂うかもしれないし。それは何ていうか恥ずかしいの」

「私、鬼の力が発現してから感覚も鋭くなっているけど、琴葉はいつでも良い匂いよ。安心して」

「えっ、嗅いでるの!?」

「琴葉はとってもいい香りよ。百合の花──カサブランカみたいな香り。大好きよ、私」

「えー、──恥ずかしい。めちゃくちゃ恥ずかしいよ」

 琴葉が顔を隠して俯く。

「大丈夫、恥ずかしくなんてないわ。本当に羨ましいくらいだわ。ほら、顔を見せて──」

 千早が琴葉の両手を掴んでゆっくりと開く。

 そこには少し顔を赤くした顔をのぞかせる琴葉の姿があった。

「そう言う問題じゃないよー」

「そういう問題なの。だから血を吸わせてちょうだい。汗の匂いなんて全然気にならないくらいだわ。むしろ良い匂い──」

 千早が琴葉の胸元をスンスンと嗅ぐ。

「ダメっ──」

 琴葉が後ずさる。

 その両手は胸元をガードしていた。

「ダメっ──お風呂入るまで血はお預けです」

「えー、なんでよ」

 千早が不服そうに唇を尖らせる。

 それは大人びたスタイルの千早とはアンバランスな幼子が拗ねたような顔だった。

「──そんな顔してもダメ。とにかく、お風呂に入ってくるから」

 そう言うと琴葉は再びバスタオルと着替えを持って浴室へと向かうために部屋を出ていった。

 後には千早が一人部屋に残された。

「もう──残念。もう一押しだったかしら?」

 懲りた様子はなかった。


   §


 浴室──。

 琴葉は懊悩していた。

 千早に良い匂いと褒められたのは我に返ればかなり嬉しかった事なのではないか? と思い、しかしそう思うこと自体に少し驚いたりして、でもやはり恥ずかしいという想いに塗りつぶされていく。

「ぬあー、なんで匂いなんて嗅いでるのよ──」

 忘れ去ろうとシャンプーでがむしゃらに髪の毛を痛めつけるが無駄だった。

 千早の声が、表情が後から後から際限なくリフレインしてくる。


『琴葉はとってもいい香りよ。百合の花──カサブランカみたいな香り。大好きよ、私』


 いい香りって言われたのは嬉しい。

 カサブランカってどんな百合だろう?

 っていうかやっぱり匂い嗅ぐのは反則だよー。

 ズルいよー。

 うー、でもあの顔で良い匂いとか好きとか言われたらドキッとしちゃうよ──。

 琴葉は胸の高鳴りを感じていた。

 茜とハグし合う時にそんな感覚はないけれど、千早にしなだれかかられるとドキドキしてしまう。

 顔がいいからか?

 千早は顔がいい。

 この世のものではないかのようだ。

 本人曰く鬼だからこの世のものではないのかもしれないけど──。

 でも、顔は生まれついたものだ。

「なんであんなに美人なのよ──」

 思わず琴葉は言葉を漏らす。

 その言葉に反応したかのように一滴のしずくが天井から琴葉の鼻先にポツリと落ちて濡らした。

「ずるいよー。私だけこんな気持ちするの。千早のバカ……」

 琴葉にとってこの気持ちは、この感覚は、この想いは、生まれて初めて経験するものであった。

 この想いにまだ琴葉は名前をつけることが出来なかった。

 まだこの想いのスピードに心が追いついていなかった。

「千早──」

 だから、ただ──その張本人である千早の事を漫然と想うのだった。

 琴葉がこの想いに名前をつけるのにはもう少し時間を要する。

 今はまだ、想い続けるだけ──。


   §


「と言うわけで、吸うわよ」

 お風呂上り、琴葉を待っていたのは仁王立ちしていた千早だった。

「うん──いいよ」

「じゃあ」

 千早が琴葉に抱きつかんばかりにぴたりと寄り添う。

「その、首筋じゃないとダメ? 指とかじゃダメ?」

「──ダメ」

 千早が目を反らす。

「──今の間は?」

 琴葉がジト目で千早を見つめる。

 反論を思いついた千早は琴葉と視線を絡ませる。

「やっぱりダメなものはダメ。吸血鬼と言えば首元から血を吸うでしょ? 私も言わば吸血鬼なんだから、やっぱり首筋からじゃなきゃダメ。それに首の方がやり慣れてるし。安心するの。お願い。首から吸わせて」

 ジーっと視線で訴えかける。

 いじらしさと可愛さをごちゃまぜにして庇護欲をかき立たせるような、そんな視線だった。

 視線一つにそんな意味を持たせられるのか? なんて思いそうになるが琴葉にはそう感じる視線だった。

「──特別だよ。たまには指とかからも吸ってね? 約束できる?」

「えー」

「本当に最低限しか吸わせないよ?」

「分かりました。たまには指から血をもらうわ。オーケー?」

「んっ。いいでしょう」

 琴葉がTシャツの首元を少し広げる。

「じゃあ、失礼します」

 千早が髪をかき上げながら首筋に近づく。

 ちょっと今の仕草カッコよかったな──そんなことを想いながら琴葉は千早の牙を待つ。

「ひゃん──!?」

 しかし琴葉が感じたのは牙が刺される感覚ではなくて、もっと生暖かい粘性の質感だった。

「ほほは、ひゃわいいね──」

 千早がペロペロと琴葉の首筋を舐めていた。

 丹念に、優しく、愛おし気に。

「な、なんで舐めるの!」

 琴葉が千早から離れようとする。

 しかし千早が琴葉を抱きしめて離さない。

「私の唾液には鎮痛効果とか癒しの効果があるからね。この方が痛まないの」

「だからって、その、とにかく舐めるのは反則だよ」

「大丈夫、大丈夫、琴葉なら問題ないって」

「問題あるのー!!」

「琴葉、おいしいよ?」

「味の感想はいいから──」

「ほら、血を飲ませて? 私、結構我慢したわ。優しくするから」

「分かってるよ。どうぞ──」

 琴葉が諦めて力んでいた身体を千早に委ねる。

「いただきます──」

 琴葉の首筋に千早が牙を突き立てる。

「んっ、くぅ──」

 琴葉は身体の力が抜けていくのを感じる。

 血が足りなくなったからとか、失神しそうとか、そういうものとは異なっていた。

 気持ちいいのだ。

 千早に何回か血を吸われているが、回を重ねるごとに徐々に血を吸われることに快感を覚えるようになっていることを琴葉は自覚していた。

「んあっ──」

 琴葉の口からは時々甘く爛れた声が漏れ出る。

 琴葉自身はそれを必死で我慢するが、血を吸われるたびに、抗いがたい快感が波を打つように強弱を織り交ぜて押し寄せる。

「ちはっ、もう、ダメ──」

 琴葉が千早の腕を叩く。

「んっ──」

 千早が琴葉の首筋から牙を抜く。

「ごめん、琴葉──吸い過ぎちゃった」

 千早が琴葉を抱きかかえて、そのまま布団に寝かせる。

「いま、傷を塞ぐから」

「ひゃ──」

 千早がペロペロと琴葉の刺し傷を丁寧に舐めていく。

 見る見るうちに琴葉の傷は何事もなかったかのように治っていく。

 琴葉は脱力して千早のされるがままになっていた。

「琴葉──可愛かったよ。ありがとう、おやすみなさい」

 そう言って銀髪の千早が琴葉に薄がけのタオルケットをかけて部屋の電気を消す。

 千早──綺麗だな。

 気持ちよくて頭が回らない琴葉はそんな事を想いながら、徐々に訪れる眠気に身を任せたのだった──。


四話です。

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