恋獄坂 〜河川敷で死体が出た日、僕は幼馴染みに告白された〜
その日は、三限目で臨時休校になった。
寄り道も禁止ということで、生真面目だけが売りの僕は、高校の担任の言いつけ通りまっすぐ家路についていた。
「あ! やっぱりそっちも休校だよね」
家の前まで続く、なだらかな坂道の途中。
右手から合流するT字路で目ざとく僕を見つけ、駆け寄って右隣を歩きだしたセーラー服は、小中学校と何度か同じクラスだった本田さん。
初夏の微風に乗って、仄かに柑橘系の芳香がする。
「……さすがにね。市内の小中高はぜんぶだと思うよ」
彼女のフルネームは本田愛里。くるくる変わる表情と過剰なリアクション、そのたびゆれるポニーテールがトレードマークの、小動物みたいに可愛らしい女の子だ。
「そっかあ。……ねえねえ、そんなことよりさ」
家が近くて母親同士の仲もいい。
我が家に母親と一緒にご飯を食べにくることもあった。
まあ、いわゆる幼馴染というやつだ。
昔は二人でゲームをして遊んだりしたものだけど、中学のころそれを同級生にからかわれて以来、部屋に閉じこもって勉強するふりでやり過ごしている。
「きみに聞きたいことがあるんだけど」
ちなみに彼女の方はそもそも、バグり気味の距離感で接しては勘違いした男子に告白られる日常だったので、僕のそんな苦心など気にも止めていないようだ。
「うん?」
素っ気なく返事をしながら、ちらりと彼女に視線を向ける。
その反対側を黙って歩いているのが、中学のころに転校してきた白河紗月。物静かで、長い黒髪に色白のすらりとした美少女。
話題を振られても、か細い声でぽつりぽつりとしか話さない彼女とは、同じクラスになったこともない。
本田さんと通う女子高が一緒の彼女は、いつも連れ立って帰る。なので今日のようにたまたま時間がかぶって合流したときは、基本こんなふうに三人並んで家に帰るのだった。
「いま、好きな子とかいたりする?」
で、そんな踏み込んだ質問を投げかけてくるのはもちろん本田さん。この距離感バグが、いたいけな少年たちを惑わすのである。
「……いない。そういうの興味ないから。受験もあるし」
まっすぐ前を向いて歩きながら、生真面目な答えを返す。自室の扉を閉ざす。そうしておけば、触れたくない話をしなくてもいい。
「ふーん。……でもわたし知ってるよ、きみの好きなひと」
「いや、だからほんとにいないんだって」
否定を重ねながら、再び彼女たちの方に視線を向ける。
こちらを覗き込む本田さんのまぶしい笑顔越し、白河紗月の青白く美しい横顔は、関心なさそうに前を向いていた。
「えー、そんなわけないけどな。あ、でもたしかに、いないって言えばもういないか」
急に何か納得したらしい彼女は、片手でスマホを操作しはじめる。
歩きスマホはよくないと思うけど、注意したところで「そういうマジメなところが好き」とかなんとか誤魔化されるので、やめておく。
「ほら、例の事件の」
いまこの町で「例の事件」と言えば、臨時休校の理由でもあるあれしかないだろう。
今朝のことだ。
町はずれの河川敷で、十代と見られる若い女性の変死体が発見された。
下着姿で腹部には無数の刺し傷があり、頭部は身元がわからないほど焼けただれていた。──脱がせた衣服を、顔の上で燃やしたらしい。
「あれがそうだよ。だから、もうこの世にいないのはたしか」
僕は困惑した。
彼女は、いったい何を言い出すんだろう。
実際に同世代の女性が亡くなったというのに、冗談にしてはあまりに不謹慎で、まったく笑えない。
たしかに距離感はじめ多少デリカシーに欠ける面もあるけど、とはいえ人の死をネタにするような子ではなかったはず。
「……自分がなに言ってるか、わかってる?」
「うん。あれが、きみの好きな女の子──白河紗月だって言ってるの」
──は?
僕は絶句して、足を止めていた。
いろいろある。
自分が白河紗月に向けていたひそかな好意を、見抜かれていたこと。
それを紗月本人の目の前でバラされたこと。
しかも、親友のはずの彼女を猟奇殺人事件の犠牲者扱いしていること。
紗月本人がこの場にいるというのに。
「本田さん、ちょっとおかしいよ。なにかあった?」
どうにか平静を装う僕の鼻先に、返答のかわりにぐいと突き付けられるスマホの画面。映っていたのは、草むらの上に仰向けに寝かされた下着姿の少女の写真。
なまめかしい曲線を描く腹部を中心に、紅い血の色が青白い素肌の上を侵蝕するように拡がって、鮮やかな対比を成している。ぽつぽつと点在するどす黒い赤の模様は、刺し傷の痕なのだろう。
おへその辺りには黒い棒状のものが生えていて、我が家にある果物ナイフの柄と似ている気がした。
「きれいでしょ。記念に撮っちゃった」
画面をスライドさせ、再び目の前に突き付けてきたのは上半身のアップ。
顔は紗月のものに見えた。白いレースに飾られたささやかな胸のふくらみに、半開きの唇と虚ろな目はどこか恍惚の表情のようで、思わず見惚れてしまう。
「いや、だって白河さんは」
たぶん、はやりの画像生成AIでも使ったのだろう。そうに決まってる。きっと僕はこの二人にからかわれているのだ。
でなければ、もし本当に事件の犠牲者が紗月なら、犯人は自動的に本田さんということになる。いやそもそも、いま一緒にいる白河紗月はなんだ。幽霊だとでも言いたいのか。
「そこに、いるじゃないか」
「えっ……?」
しかし本田さんは僕の言葉を聞いて、絵に描いたようなきょとんとした表情を浮かべた。それから、嬉しそうに微笑んだ。
「そっか。──視えるんだね、きみにも」
◇ ◇ ◇
今度は僕がきょとん顔をする番だった。
それじゃまるで……いや、そんなばかな。
ありえないと思いつつも確認のため向けた視線の先。さっきまで本田さんの向こうを歩いていた白河紗月の姿は、あとかたなく消えていた。
そして。
『愛里の言ってること、真実だよ』
声が囁いたのは左の耳元──というよりもっと奥の、鼓膜のそばまで挿入された管の先から響くようだった。寒気と同時に襲う心地よいこそばゆさが、ぞわぞわとさざ波のように全身に拡がっていく。
「なッ……!?」
慌てて左耳を抑えながら、そちらに顔を向ける。息のかかりそうな至近距離で、白河紗月の美しい顔が微笑んでいた。微かに、なまぐさい匂いがした。
『ほら、見せてあげるから……』
耳を塞いでいるのに、囁きは相変わらず耳穴の内側から響いた。なのに彼女の薄い唇は、微笑みを浮かべたままぴくりとも動いていない。
『よく見て』
口を動かさず囁いて、彼女は片手でゆっくり焦らすように、セーラー服の裾をたくし上げた。白河紗月はこんな性格では──違和感を覚えつつも本能には抗えず、目が釘付けになってしまう。
露わになった青白いお腹には、紅い花弁みたいな模様がたくさん散っている。ナイフで刺された傷痕から覗く、彼女の血と肉の色だ。
『きれいでしょ? 愛里がしてくれたの。ほら、さわってみて』
もう一方の手で僕の手首を掴み、お腹の方に導く。でも掴まれた感触はなくて、なのに腕が勝手に動く。それ以外の全身は、勉強しすぎた夜中の金縛りみたいに自由が利かない。声も出ない。
なすがまま導かれた僕の指先は、彼女のお腹のまんなかで縦に開いた傷痕に触れ──そのまま、なんの抵抗もなく体内にずぶずぶと、手首まで飲み込まれていく。
『ほうら。私、幽霊だから』
そして彼女は僕の手で、自分のお腹をぐるぐるとかきまぜて見せる。生温かい、ぬめりのある液体をかきまぜるような感触。おぞましい、けれど……気持ちいい……
そうだ……僕はいま、大好きな女の子の体のなかを素手でまさぐっているのだ。よく考えてみたら、それはすごく幸せなことじゃ……
「──こらっ、紗月!」
唐突に反対側の耳に飛び込んできた本田さんの声で、僕は我に返った。体の自由も──掴まれたままの左腕以外は──戻っている。
忘れていた呼吸を取り戻すように、深く息を吐いて吸った。
「ねえ紗月、なんかやらしいことしてない?」
「ご……ごめん……彼、なかなか愛里のはなし、信じないから……」
こんどは唇を動かして、いつも通りのか細い声で答える彼女。それは僕の耳の内側には響かない。どうやらあの囁きは、僕にしか聞こえないようだ。
「そっか、じゃあ許してあげる」
あっさり許可した本田さんは、僕の左側を覗き込むと「紗月ばっかずるい」と呟いて、スマホと逆の手で僕の右手を握りしめてきた。あたたかくて柔らかい、人間の女の子の手の感触に心がなごむ。
──ただし、それはおそらく白河紗月の命を奪った手。
「ちょっと……ちょっと待って、いろいろと理解できない……」
出せるようになった声で僕は、当然の主張をする。
「ごめんごめん。紗月はね、私の告白の応援に来てくれたの。……あっどうしよう、告白って言っちゃった」
本田さんはくりくりの目を見開いて、それから恥ずかしそうに伏せる。そうじゃなく、もっと根本的なことが理解不能なのだけど……告白? いったい、何を……。
「えっと、ちゃんと言うから。私……」
僕を左右から挟んだ二人の少女。右側では、珍しくかしこまった様子の本田さんが、僕の手をぎゅっと握りしめる。
『わたし、あなたに感謝してるの。だって……』
同時に左側、僕の手をお腹に埋めたまま、白河紗月の妖しい囁きが鼓膜にまとわりつく。
『「ずっと、好きだったの』」
そして二人の声は同じ言葉で唱和した。
「きみのことが」『愛里のことが』
「すごくすごく。でもね」
『それは叶わぬ恋だってわかってた』
左右から、二人の声が僕の脳を嫐りまわす。頭がおかしくなりそうだ。いや、とっくにおかしくなっているかも知れない。
「私はきみが好きで、きみは紗月が好きで、紗月は私が好きだった」
『だけどね、愛里はちゃんとわたしを殺してくれた』
「紗月がいなくなれば、きみは愛里を見てくれると思ったの。だから」
『かたいナイフに気持ちを込めて、わたしのからだを何度も突き刺して』
「紗月も最初は痛そうだったけど、途中から喜んでくれて」
『だって、それってもうセックスと同じことじゃない……?』
──ああ。このとき僕は唐突に理解した。
いや、経緯はどうにか理解できたけれど、彼女たちの内面はなにひとつ理解できなかった。理解は不可能だと、理解した。
『あなたのおかげで、わたしは永遠に愛里のものになれたの。たぶん、守護霊ってやつかも』
「ね、昔みたいに愛里ちゃんって呼んでほしい。いっしょにお風呂もはいりたい。あとねあとね──」
もう二人の戯言は聞き流すことにした。どうせ聞くだけ無駄だ。紗月への気持ちも萎えつつある。僕が好きなのは、気が弱くて何でも言いなりにできそうな女だ。
『だからわたし、こんどは愛里の望みを叶えてあげたいの。それって、すごくあたりまえのことでしょ?』
「──私をお嫁さんにする約束も、守ってほしい」
理解を放棄したことで急激に冷静になった僕は、この異常な二人(?)からどう逃れるべきかを考え始めた。
とりあえず本田さん──愛里に掴まれた腕のほうは、全力を出せば振り払えるだろう。逆の手にはスマホを持っているから、もし彼女が凶器を持ち歩いていたとしても、すぐには取り出せないはずだ。
確認のため視線を落とした僕は、そこで愛里の手のスマホが、いつものピンクのカバー付きの愛用品でないことに気付く。そしてそれは、しばらく前に紛失した僕のスマホと同じ機種に見えた。
──まさか、そんな。
パスワードロックはかけていたが、彼女らの前で何度か解除したこともある。こいつらなら、盗み見て覚えるくらい平気でやりそうだ。
だとしたら、とてもまずい。
僕のスマホのなかに紗月の死体の画像がある、というだけじゃない。カレンダーアプリには、偶然を装って一緒に帰るため、待ち伏せして作った帰宅時間予測のメモがある。
一緒に歩いている紗月の盗撮画像は、もちろん大量にある。
さらに隠しフォルダには、家まで尾けたときたまたま部屋のカーテンの合間から見えた着替えや、たまたまバスルームの窓の隙間から覗けたシャワー中の動画もある。
いつか動画をネタに脅迫して、言いなりしてやろうと画策していた。けど……あれは本当にたまたまだったのか……?
「──また、逃げるの?」
『逃げられるものなら、逃げてみなさい』
内心を見透かすような囁きと同時に、二人は掴んでいた僕の両腕を手離した。まるで突き放すように。
ぞっとするほど美しい二つの笑顔を見比べながら、僕はよろよろと後ずさる。
──車道のほうへ。
横合いからのすさまじい衝撃で体がふわりと浮かび、意識が暗転したのは、その直後だった。
◇ ◇ ◇
「──もう、それは言わないって約束したじゃないですか」
なだらかな坂道の途中で足を止め、彼女はハンズフリー会話の相手を、優しくたしなめる。つば広の白い帽子にノースリーブのワンピースがよく似合う、洗練された大人の女性だ。
坂には特に名前はないが、いつのころからか恋告坂──「こいつげざか」または「れんこくざか」と呼ばれるようになっていた。坂道の途中で告白すれば、必ず上手くいくのだとか。
「あの事故は、たしかに彼が私を庇ってくれたようなものだけど。それを負い目に思って、一緒にいるわけじゃないんです」
彼女は傍らを通り過ぎた乗用車を、目で追った。恋告坂は傾斜がなだらかなぶん、無意識にスピードを出しすぎてしまうドライバーも多い。
「それに、あの事件……紗月のことだって、私は彼が犯人じゃないって信じてる。スマホの中の写真も、誰かがでっちあげたに決まってる。だからお母様も、自分の息子のこと信じてあげて」
話しながら彼女はゆっくり屈みこんで、押していた車椅子の前を覗き込む。座っているのは、小ぎれいなシャツを着せられて、虚ろな目で空中の一点を見つめる青年。
「……あら、また涎……」
彼の半開きの口元に、ひとすじこぼれた液体を、自分の親指で優しく拭う。その指を自分の紅い唇にはこんで、舌で舐りまわす。恍惚の表情を浮かべながら。
「……ううん、なんでもない、大丈夫。それにね、彼が命だけでも助かったのは、きっと紗月が守ってくれたからだと思うんです」
彼女は──すっかり大人の女性になった本田愛里は、長い黒髪を左手でそっと耳にかけた。薬指で、清楚なデザインのリングがきらりと輝いた。
「明日でちょうど十年になるのだし、もう泣かないでお母様。だって私たちは、これが幸せなんだから」
ほどなく数年ぶりの実家に着くことを伝えて通話を終えた彼女は、何もない空中の一点を見詰めながら、やわらかく微笑む。
「ぜんぶあなたの計画通りに、上手くいったね。──ありがとう紗月、大好きだよ」
初夏の微風が彼女の頬を、愛しむようにふわりと撫でていった。
お読みいただき誠にまことにありがとうございます!
その上で厚かましいお願いですが、広告↓下から★の数にて作品をご評価いただけますと、作者のモチベになりまくりますので何卒!