第一章『出会い』 第一部「少女」 第四話 邂逅
その時、急にファシュラヴァの足が引っ張られた。突然の方向転換で勢いが弱まり、二人は崖のふちでギリギリ止まることができた。
何が起こったのか、ファシュラヴァはわからなかった。ただ、いままで気が付かなかった心臓の強い拍動に戸惑いを覚えるばかりだった。
「間に合った、な。ファシュラヴァ」
止めたのは、他でもないアドバラだった。片手でまだ残っている生垣に掴まり、もう片方の手でファシュラヴァの片足を捕らえたのだ。
「あり、がとう、アドバラ」
アドバラの手を借りて腕の中の人と共に安全な場所まで行くと、アドバラはぼうっとため息をついた。
二人が持っていた藁棚はばらばらになって散らばっていた。
「誰だかあたしにはわかんないけど、この人が助かってよかったよ。もちろんあんたも助かって嬉しいけどね」
「…死ぬかと思った」
ファシュラヴァはまだぼんやりする頭でそう言った。
「でも助かったろ?ああ、もし足に力が入んないとかだったら、後の仕事はあたしがやっとくよ」
「怖くは、ない」
ファシュラヴァは怖いとは思っていなかった。ただ、いとも簡単に腕の中の人のために死ぬ覚悟を決められた自分に驚いていたのだ。
「お嬢様…!」
坂の向こうからリゥレカがやってきた。リゥレカはエラジュリアがどこまで落ちたのかを心配しながら恐る恐る顔を出したのだが、彼が見たのはアバスティア侯爵家の奴隷服を着た少女がエラジュリアを抱きとめて助けた姿だった。
「お、お嬢様だって!?この人は一体どなたなのですか!?」
屋敷の使用人と思われる格好の人がそう発言したため、アドバラは驚いてリゥレカに聞いた。
「この方はエラジュリアお嬢様だ。俺の不注意で転がってっちまったんだが、あんたらが止めてくれたんだろ、ありがとう」
リゥレカは優しく笑って二人に感謝した。
一方、アドバラは真っ青になりながらファシュラヴァに向かって言った。
「エラジュリアお嬢様だって!?侯爵様のご息女の!?なんてことだ、あたしらが触れていいお方じゃない!」
「あ、ああ…ど、どうしよう、私、わたし…転がってきたから、崖に落ちちゃダメって、思っただけなのに…」
アドバラの焦りを理解したファシュラヴァは、同じように真っ青になりながら震える声でそう言った。腕の中で眠るように動かない人が、アバスティア侯爵家の宝だとは微塵も思っていなかった。
いままで侯爵家に救われて生きてきたのに、なんでこんな恩を仇で返す様なことをしてしまったのだろうか。
「ああ、お嬢様が無事なら、侯爵様も助けたあんたらを解雇したりはしないだろうさ。お嬢様、大丈夫ですか?」
リゥレカが覗き込んだので、ファシュラヴァは腕の力を抜いて自分より小さい少女を地面に寝かせた。
少女は、まるでエトラント王国一の職人が細工した骨董品のような輝きを持ちながら、穏やかな表情で草の上に横になった。どうやら、ショックで気絶しているようだ。
「怪我はパッと見無いが、もしかしたら頭を打ってるかもしれないな。お前さん、ちっこい方だ、あんたが抱えてたんだろ?もしかしたらあんたもどっか打ってるかもしれない。一応屋敷で見てもらおう。あともう一人のあんた、あんたは一部始終見てたか?なら医者に説明が必要だろうな。どうやってお嬢様が助かったか、俺は知らないからな」
リゥレカはそう言い、動かないエラジュリアを抱えた。
「あ…でもまだ仕事が…」
アドバラは屋敷に向かおうとするリゥレカにおずおずと言う。
「そうか、仕事中だったか。何の仕事だ?」
「藁棚を畜舎まで運ぶんです」
「ふむ…多分少し遅れても大丈夫だろ。今日はこれから雨が降りそうでもないし、始めてからしばらくしてるならそこそこ運べてるだろ?今すぐになにか問題が起こることはないだろうさ」
リゥレカはそう言って、二人についてくるように言った。
屋敷の勝手口の扉が開くと、出迎えた使用人たちは騒然とした。馬車に乗って庭に向かったはずのエラジュリアが、馬車ではなくリゥレカに抱えられており、しかも気を失っていたからだ。
「お嬢様!?何があったんですか!?」
「事故があったんだ。この二人はお嬢様を助けたところにいたから連れてきたんだ。早くお嬢様を医師に見せてくれ」
リゥレカはそう言って、呼ばれてやってきたハリハルトにエラジュリアを渡した。
「兄さん…俺はお嬢様を危険にさらしてしまった、解雇されるかもしれない」
「…お前が何の理由もなくお嬢様を危険にさらすわけがない。ちゃんと理由があるんだろ?大丈夫だ、安心しろ」
ハリハルトがそう言うと、リゥレカはすこし安心したように微笑んだ。
奴隷の二人は屋敷に入ることはできないので、二人が心細くならないようにリゥレカはそばにいることにした。
「…すまんな」
リゥレカは沈黙に耐えかねたように言った。
「俺があんなところに馬を止めなけりゃそもそも起こらなかったことだ…あんたらまで巻き込まれることになるなんて…お嬢様を助けてくれたことには本当に感謝する、だが謝罪もしたいんだ」
リゥレカはアドバラとファシュラヴァに頭を下げた。二人は揃って地面に膝をつき、リゥレカを見上げる姿勢を取った。
「あなたはお屋敷の正式な雇用人でしょう、奴隷に頭を下げてはいけません」
奴隷として使われる彼女らは、人と同列に扱われることのない卑民なのだ。アバスティア侯爵の所有物ではあるが、使用人より上位には決してならないので頭を下げるなどと言うことはあり得ないのだ。
「…あんたらは不運の星のもとに生まれちまったのかもしれないな。俺はどうなんだろうか…せめて兄さんに幸運の女神さまが微笑んでくれたならいいんだが…」
リゥレカは諦めたように笑った。それはここでこの先雇われ続けることはないと確信しているかのようだった。
三人は扉の前で待った。別に寒い時期でもなく、待つことは苦ではない。この先どうなるのか、三人のうち誰も知ってはいない。