第一章『少女』 第一部「出会い」 第三話 運命
エラジュリアの座席には柔らかいクッションが使われており、馬車の振動は苦にならない。御者のリゥレカの座る座席は振動と音が大きく、話しかけてもあまり答えられないため、エラジュリアは独り言のように呟く。
「今日は絶好のお散歩日和ね」
返事が返ってくることはないと端から期待していないらしいエラジュリアは、周囲を見回して微笑む。
アバスティア侯爵家の庭園は朱片の季節(春)に花が咲く中の庭、白凪の季節に花が咲く南の庭、紫原の季節(秋)に花が咲く北の庭の三つの庭がある。
屋根のない馬車からは、手入れが行き届いている侯爵邸と庭が見える。午前の優しい光が、柔らかく降り注いでいる。
適度に雲が流れていて、朝方の優しく呼びかけるような光が徐々に昼の眩しさになっていく様が、なんともよい一日だ。
「きっと今日、何か素晴らしい出会いがあるわ。それがこの庭の住人なのか、それともお屋敷でのお父様のお客様なのかはわからないけれど」
ちょうど石畳から草の上に車輪が入ったところで言ったため、エラジュリアの言葉はリゥレカの耳に届いたようだった。
「ならあっしはお嬢様と素敵なお客様との出会いに立ち会えるかもしれないんですかい、そりゃあいい」
「リゥレカ、聞いていたの?恥ずかしいわ」
「いいじゃないですか。どんな貴族令嬢でも、お嬢様くらいの歳なら誰だって素敵な殿方との出会いを想像するはずでさぁ」
「出会いと言っても、殿方との出会いとは限らないわ!お友達かもしれないじゃない」
「まあまあ、そうやっきにならんでください。そろそろつきますから」
リゥレカはからかうように笑いつつ、馬車を進めた。
たどり着いた南の庭には、美しい芝生と、真っ白な五花弁の花が咲く植え込み、色とりどりの小さな花が咲く花壇があった。
馬車は大きな木の下に止められ、馬はリゥレカが与えた草を食み出した。
エラジュリアはリゥレカの手を取って馬車を降り、庭を歩き始めた。
一段と花が咲き誇る場所を見つけたエラジュリアは、リゥレカを見て「あっちがすごくキレイだわ!」と言って駆けだした。
リゥレカは御者と護衛を両立できる腕の持ち主だからこそこうしてエラジュリアの散歩に付き合っているわけだが、三つ上の兄ハリハルトと同様、平民出身だ。
仕事がなくなり親も死に、もう卑民に落ちるしかないと思われた彼らを救ったのがアバスティア侯爵家だったのだ。偶然にもその頃、使用人大量解雇が行われ人手不足になった侯爵邸から公募があったのだ。
侯爵令嬢の側用人とは、アバスティアの宝を守る仕事である。エラジュリアの笑顔を見るたびになんとも恵まれているとリゥレカは思うのだった。
「お嬢様、足元気を付けてくださいよ!坂になってますから!」
「ええ、わかっているわ!」
エラジュリアはもし転んでもリゥレカが止められる位置を知っているため、どんどん先を歩いていく。
「きゃっ!」
目的地に着いたエラジュリアは、驚きの悲鳴を上げた。
たくさんの蝶がエラジュリアに驚いて舞い上がったのだ。
エラジュリアも驚いたのは一瞬で、すぐにその光景を楽しむように笑った。
「リゥレカ、今の見た?とてもきれいだったわ!」
「ええ、まるでお嬢様の周りに花びらが踊ってるようでしたよ」
「ふふ、そういえば今朝見た夢にそっくりだったわ。やっぱり今日は何かいいことがありそう」
エラジュリアはさらに歩き続けた。
三の鐘(九時)が鳴りしばらくして、エラジュリアとリゥレカは屋敷に戻ろうと馬車に向かった。
しかし、馬の様子が何やらおかしい。木の上に向かって何か注目しているようだ。
「どうしたのかしら」
「さあ、わかりません。一応気を付けてみますか」
遠目から見てもはっきりわかる、馬の異常。なにかに怯えているような様子で、落ち着きがない。
二人が馬車に近づくと、馬が怒っている相手が分かった。
「カァァァァ!!」
木の上から、黒い鳥が馬に向かって威嚇している。二羽のカラスだ。
どうやら、番のカラスが巣を離れていた隙に馬車を止められ、警戒しているようだった。馬はカラスの威嚇で興奮しており、平静を失っていたのだ。
「下手に手を出したら危ないですねぇ、どうしたものか…」
二人が二種の生き物が警戒し合う様子をどうすべきかと眺めていると、いつまでたっても動かない馬に向かってカラスが突進してきた。
馬はとうとう動き出し、興奮状態のまま馬車と共に走り出した。その先には、エラジュリアがいた。
「お嬢様!」
リゥレカはとっさにエラジュリアを突き押して、馬の動線から外した。けれど、リゥレカもそうしたことで馬の目の前まで来てしまった。
馬車を引ける立派な馬に蹴られでもしたら当然ただでは済まないし、馬に蹴られも踏まれもせずとも後ろには馬車がある。小さく軽い馬車とはいっても、やはり軽傷では済まないのだ。
リゥレカは必死で身を引いて、間一髪で逃げおおせた。すぐ後に振り返って見たものは、下り坂に放り出されたエラジュリアの小さな体だった。
リゥレカは焦った。自分の仕事は御者、つまり馬を制御することだったし、エラジュリアが怪我をすれば護衛の仕事もできなかったことになる。
いくらアバスティア侯爵が優しいとはいえ、たった一人の愛娘を危険にさらしたとなれば解雇されてもおかしくはない。それに、顔に傷がつくだけでも、貴族令嬢としては最悪の事態となりうる。本当に首が飛んでも文句は言えないのだ。
まだ、自分一人ならば構わない。けれど、兄であるハリハルトにまで罰が及ぶ可能性がある。昔から兄弟二人で支え合ってきたからこそ、それは許せない。
なにより、自分を慕ってくれているお嬢様の未来が危ぶまれる。もしも何かあったら、進んで自分の首を差し出すほどに自分で自分を許せない。それで目の前の高貴な少女が助かるとも思えないが。
「…ぁ」
エラジュリアは、状況を把握しきれなかった。リゥレカが体を張ってとっさに助けてくれたのだということはわかったものの、その後の自分が置かれた状況までは頭が回らなかった。
浮いている、地面に足がついてない。
そこで思考が止まっていたのは、このあと訪れる事態を想像しないようにしてしまっているのだろうか。
エラジュリアは、リゥレカの視界から消えた。
時を同じくして、ファシュラヴァとアドバラは藁棚を畜舎まで運ぶために庭を往復していた。
屋敷からは見えないように作られた奴隷用通路は、アドナウス執事の言っていた通り途中で崩れていたので、二人は庭の一部を、やはり屋敷からは見えないように通っていた。高貴な方々の視界に、いくら一般的な奴隷より綺麗な服を着ているとはいえ、奴隷が入るのはいけないと考えたためだ。
ちょうどそんな理由で庭の一部を歩いていた時、坂の上から誰かが叫ぶ声を聴いた。動物が暴れるような音もする。
いったいなんだとファシュラヴァが顔を上げれば、小さな人影が坂を転げ落ちてくるのが見えた。
そこまで急な坂ではないけれど、勢いがついていれば、軽い人くらいなら止まらずに落ちてくることは明らかだった。
そして、ファシュラヴァは気が付いた。この人が転がった先は、崩れた奴隷用の道だ。生垣までごっそりと崩れ落ちているものだから、止めるものはない。
どんな人であれ、この時間にこんなところにいるのはアバスティア侯爵家の一員だろう。それになにより、目の前で人が死ぬかもしれない事態を見過ごすわけにはいかなかった。
ファシュラヴァは駆けだして、転げ落ちてくる人と崩れた道の間に立った。
けれど、ファシュラヴァはその先どうすればいいのかわからなかった。考えるよりも先に動いてしまったのだ。
ファシュラヴァは持っていた藁棚を足元に落とし、その人を受け止める姿勢を取った。最悪、共に崩れた先に落ちたら自分が下敷きにでもなってしまえと思った。
ドスッと音がして、強い衝撃がファシュラヴァを襲った。けれど、腰を下ろして腕を広げていたおかげで、なんとかその人は腕の中に収まった。
同時に、足の裏が草の上を滑り出した。体が倒れ、背中と腕が地面に擦れた。
必死で足を踏ん張ったが、勢いは止まらなかった。ただ、腕の中の人を放り出すまいと手に力を込めることしかできなかった。
もうこの先は庭が終わって、崖になる。ファシュラヴァは死を覚悟した。
せめてこの人は助けないと。それくらいしないと、いままでの私の全てが無価値に終わる。
投稿が思ったより遅れてしまいました。連日の猛暑で作業が辛かったのが原因ですが、皆様も体には気を付けてくださいね。
さて、今回は会話が少なくて若干読みにくいかなと思います。僕は会話が少ないと読みにくく感じます。情景の描写などは好きなんですがね。