第一章『少女』 第一節「出会い」 第一話 ファシュラヴァ
ファシュラヴァは、卑民である。
卑民とは、王族、貴族、平民とある階級の中でも最下位に位置する、いわば人権なき人である。人としての扱いを受けることはなく、物として"拾われ"、"扱われ"、"捨てられて"当たり前の存在である。
卑民は、苗字を持たないものである。身寄りのない子供は卑民に落とされることも稀ではなく、そしてまた苗字を得た卑民はもはや卑民とは呼ばれない。そこに「卑民上がり」という言葉がつくのはもはや仕方がないことなのだが。
ファシュラヴァはそんな卑民としての運命のうち、ある程度、いやかなりましな天命に生まれることができた少女であった。
四歳で奴隷商人の手に渡り、そう長い時を経ずに貴族に買われたのだ。
奴隷商人は商品を粗末に扱えば商売あがったりなのだから、卑民街のように食事に困るようなことはさせなかった。かといってそこまでいい環境とも言えない奴隷商人のもとで冬を越す前に貴族の元へ移ったのだ。
そんなファシュラヴァを買ったのは、エトラント王国の貴族、アバスティア侯爵家だった。
これもファシュラヴァの幸運なのか、王国の中で王族、公爵家の次に権力のある侯爵家に買われることができたのだ。
さらに幸運だったのは、アバスティア侯爵家の奴隷の扱いだった。そこは奴隷への好待遇では王国屈指とすらいえるであろうところだったのだ。
そんなことを知る由もない当時のファシュラヴァは、奴隷商にいれば飢えることがないと考えたために買われることを嫌がって抵抗した。その際の力の強さを見た侯爵家の買い付け使用人は、彼女を荷運びなどの重労働に推薦した。
「ファシュラヴァ」
奴隷長のエクイの声である。
ファシュラヴァは眠い目をこすりながら起き上がった。
侯爵家に買われてから四年、ファシュラヴァは八歳になった。
相変わらず荷運びや掃除などの雑用の仕事ばかりだが、卑民にとっては仕事があるだけよいことと教わりながら育った彼女は不満をこぼすことなどなかった。
「今日の仕事は朝食の後にアドナウス執事から説明があるそうだよ。二の鐘(六時)に遅れないようにね」
ファシュラヴァは服を寝間着から奴隷着に着替えつつ、エクイからの言葉を脳内で反芻した。
朝食の後、アドナウス執事から説明。二の鐘に間に合うように。
アバスティア侯爵家では、奴隷にも朝晩に十分な量の温かいスープとパンが与えられる。侯爵家に仕えている奴隷たちは、そんな心優しい主人と同じように優しかった。
ファシュラヴァを含めた数名の幼い奴隷には、配膳する奴隷によってスープが多めに盛られたりするのだ。
部屋を出ながらファシュラヴァは想像する。
奴隷を決して使い捨てになどしないアバスティア侯爵様。平民や下級貴族から募集される使用人たちだって、奴隷である私たちをいじめたり見下したりしない。
ここは卑民にとっての夢を現実にしたかのような場所だ。昔、私を守ってくれたみんなも、ここに来れたらよかったな。
そんな物思いにふけりながら奴隷用廊下を歩いて奴隷用食堂に着く。
地面は土で、机はない。大鍋に入れられたスープと人数分のパンと器が持ってこられたら、配膳当番の者がスープを注ぐ。
年長者から受け取っていき、最後に余り気味になると子供には多めに盛り付けられる。具材の無いポタージュのようなスープだが、幼い奴隷にしてみれば大人たちがくれる最高の贅沢だ。
ファシュラヴァもその恩恵に与っていた。
決して薄くはない温かいスープに、さほど大きくはないもののずっしりと中の詰まった硬いパン。奴隷としては最高位の待遇がなされているここアバスティア侯爵家の主様を、是非ともどこかで一目お見掛けしたい。できうることなら、誰か一人でもいい、ご主人様にお目通りして、日頃の感謝を奴隷一同を代表して伝えることができないものか。
ここで働く奴隷ならば誰しもが考えることを、ファシュラヴァも同じように考えていた。
奴隷用の移動ルートは、使用人や貴族の生活圏とはかぶらない設計にするのが一般的で、アバスティア侯爵家でもそれは同じだった。だからこそ彼ら奴隷の中で侯爵一家を見かけたものは数えるほどもいない。感謝の気持ちを伝えるならば言葉よりも仕事に励むべきだというのが奴隷たちの考えだった。
ファシュラヴァは腹の虫が泣きわめくのを数時間は聞かなくて済む量の食事を終えた後、アドナウス執事からの説明を聞くために所定の位置に向かった。
アドナウス執事は侯爵家の使用人のトップにいるので、普段は奴隷と関わることはない。しかし、今は白凪の季節(夏)であまり忙しくないので、奴隷の現場にも顔を出すことがある。
ファシュラヴァが所定場所についたとき、まだアドナウス執事は来ていなかった。
一緒に待っていた同室で寝起きしてる奴隷仲間のアドバラが、ファシュラヴァに話しかけた。
「ファシュラヴァ、今日のパン、普段より柔らかい気がしなかったかい?」
「アドバラのパンは柔らかかったの?みんながスープを分けてくれるから、パンはスープにつけて食べてたよ」
「ははっ、そっか、そういう食べ方もあるな。でも最近、本当にすごいと思うんだ」
「それは…どういうこと?」
ファシュラヴァがここにきて四年、待遇がどう変わったかと言えば、二年前に裁縫室から流れてくる布の切れ端が増えたことくらいだ。その切れ端で布団を作ったり、曲がった針とほつれた糸を駆使して破れた奴隷服を繕ったりできたのだ。
貴族が使う服の布は、切れ端だろうと奴隷が自由に使っていいものではない。せいぜい捨てるときに触れるくらいで、普通なら勝手に使ったりすれば鞭で五十回は打たれるだろう。
しかし、アバスティア侯爵はアドナウス執事から奴隷の様子を聞き、切れ端ならば自由に使っていいと言った。
アバスティア侯爵家以外に雇われたことのないファシュラヴァは、それがどういうことかまだよくわからないのだ。
「十五年前は酷かったよ。布を使っていいなんて夢のまた夢。食事だってパンはなかったしスープも薄くて冷たいものが少しだけ貰えるだけだった。でも現侯爵様はそれを一新したんだ!ファシュラヴァには想像もつかないかな?」
アドバラは今年で十八歳。幼い頃の記憶が鮮明に脳裏に浮かぶほどに辛かったのだろう。
しかしファシュラヴァにはそんなことはわからない。
パンも温かいスープも、当たり前のように享受できた。様々なうわさで他の貴族に仕えている奴隷の待遇を聞きはしたけれど、全く分からないのだ。
アドバラの話は主人であるアバスティア侯爵を称えるものばかりで、不満などは一切出てこなかった。
「これ以上待遇がよくなるなんて思えないさ。だって今でさえ天国みたいじゃないか!卑民がこんな贅沢するなんて考えつかないよ。こんないい思いをさせてもらえるなら、毎日百ラクト(約五十㎏)の石を運べと言われたって喜んでするね!」
アドバラが嬉しそうに話すのを、ファシュラヴァは笑って聞いていた。奴隷ですら笑顔で主人を褒め称える場所は、本当に極わずかだろう。
アドナウス執事は、二の鐘が鳴るのと同時にその場に現れた。
奴隷用の通路と狭く汚い集合場所に似つかわしくないきちんとした服を着た初老の男性だ。
ファシュラヴァは雇われてすぐの右も左もわからぬようなときにアドナウス執事に「もっと粗末で汚れてもいい服で来た方がいいんじゃないんですか?」と尋ねたことがある。
アドナウス執事はハッハと笑って、「奴隷も卑民も関係なく、あなた方は既にアバスティアに仕える身。仲間として礼儀をもって接するべきでしょう」と言った。
アドナウス執事はアドバラとファシュラヴァを見て、「しっかり眠れたようですね」と言った。
「ついてきなさい」
アドナウス執事はそう言い、歩き始めた。
「どうですか、最近は」
こうして使用人の意見を聞くことも上司の務めと考えるからこそ、アドナウス執事も侯爵と同じように奴隷たちの評判がいい。
ファシュラヴァは知らないことだが、爵位が現侯爵に渡った時、侯爵の信頼のおける使用人すらも一から調べ上げて、不正が行われていた場合には容赦なく解雇が行われたという。
アドナウス執事は当時ただの読み書きのできる平民出身の使用人だったが、経歴やその信念などを買われて数年のうちに執事にまで昇格できたのだ。
「問題ありません。あっ、パンがなんだか柔らかくなったみたいってアドバラが言ってました」
「ちょっ、あたしが食いしん坊みたいじゃないか!」
「ははは、最近は温かいからかもしれません。パンがよく膨らむんですよ」
「へぇ、そうなんですね」
少し話しながら歩くこと数分。アドナウス執事が立ち止まった。
藁棚(藁束を紐で四角にまとめたもの。造語)を積み上げて山になったものが目の前にある。
「業者はここまでしか入ってきませんからね。畜舎まで運んでください。途中道が崩れていますから、庭を横切って下さいね」
アドナウス執事は指示を出した後、その場を去った。
いくら白凪の季節であろうと、執事だから常に現場にとどまることはない。そして、奴隷の少女二人に信頼を寄せ、この場を任せるということでもある。
二人は藁棚を抱え、運び始めた。
ファシュラヴァの登場ですね。
その他ここで出てきた人たちもいろんなお話がありそうです。物語を作る時、主人公にかかわった人にも物語が生まれることが魅力のようにも感じます。