第37話 兄と妹
父さんは村の外れにある炭鉱で働くしがない鉱夫だった。誰かと親しいわけでもなく、誰かの助けを借りることもなく、村からは離れた森の中に小屋を建てて、そこで暮らしていた、俺たちはそんな孤立した家族だった。俺たち四人は、家族以外とはほとんど誰とも喋ることはなかったけれど、それでも母さんはいつも幸せそうだった。
和島という名前は子どもにとっても無骨すぎるから、俺と妹の桜には優しい印象の名前を、と思って色々考えたのだと父さんは言っていた。
妹は俺によく懐いた。母さんと父さんもそれを見守っていた。ずっとこのまま時が過ぎていけばいいと、そう思っていた。
それがあの日、跡形もなく奪い取られてしまった。
俺はあの夜、妹と両親の三人をいっぺんに失ってしまったのだ。
「お兄、本よんで」
寝巻を着た桜が枕元でそう言った。
眠そうにして俺が渋ると、今度は父さんと母さんの方へねだりにいった。
台所で仕事をしている母さんと、居間で縁側に干した大根をぼーっと見ている父さんにも相手にしてもらえず、不満そうな顔で俺のとなりに戻ってくると、そのまま布団に入り寝付こうとした。
もうすぐ七つになる妹は野山で遊ぶか、たまにやってくる野良猫を相手にするかしか遊び相手がいない。
仕方なく俺は本を手に取ると妹の方を向いて体を起こした。
父さんが仕事の帰りに妹のためにと買ってきてくれた絵本だ。
「雨樋」
「あまどい」
「塀」
「へい」
「子猫」
「こねこ」
そのうち段々と眠くなってきたのか、妹の声が小さくなってきた。俺が軽く背中を擦ってやると、やがて小さな寝息を立て始めた。
俺は静かに起き上がると蝋燭の灯りを消して、用を足しに厠へ向かおうとした。
振り向くと薄暗い中で妹が心地よさそうに寝ている。
そろそろ村にも連れていってやろう。あそこには同じくらいの年の子どもも何人かいる。
妹の寝顔を見ながら俺はそんなことを考えていた。
厠は母屋からは少し離れた場所にある。外に出て暗がりの中へ入っていかなくてはならない。
妹の桜は夜は怖がって一人では行けないから、できるだけ夜は行かなくて済むようにと気を使っている。どうしても行く場合は大体は俺が起こされる。
年が少し離れているから、面倒はずっと俺が見てきた。
何でもやってもらうことを段々嫌がり、妹は少しずつ自分で身の回りのことをするようになった。
それでも夜だけはまだ苦手のようだった。
外は風もなく、静かな夜だった。
空には微かに月が陰って見える、朧な夜だった。
そのとき、ふいに家の方から音が聞こえた。
戸を開ける音だ。誰か外に出たのだろうか――。
俺はその音に嫌な気配を感じた。あの三人の、その誰の戸を開ける音でもなかったからだ。
やがて、家の中から何かが鳴り響く音が聞こえてきた。時折、大きな騒音も交えた、荒々しい音だった。
俺は急いで家に戻るために駆け出した。
祈るような気持ちで暗闇の中を走っていた。甲高い金属音が鳴る度に背筋が震えた。
どうか、無事でいてくれ――。
父さんと母さんと、桜の姿が目に浮かんだ。
ここは本国のすぐそばの山間だ。治安は悪くない。
そう思って戸口に立つと、期待はあっさり裏切られた。
荒らされた家の中に、見たことのない男が二人、立っていた。
床に父さんと母さんがうつ伏せで倒れていた。
一人が俺を見下ろし、もう一人が奥で父さんの寝衣を探っていた。
強盗だ――。
場の光景を理解した途端、俺の体は恐怖で力んだ。
恐怖と、焦りの力みだった。早く確認しなくては。奥へ続く部屋は暗がりで、誰も目線を向けていない。
もしかしたら――。
淡い期待を感じて祈った。しかし、そのためにはこの二人をどかさなくてはならない。
奥の着流しの男が手前の裾を端折ったふんどし姿の男に目配せをした。殺しの合図だ――。
男はおもむろに近づいて俺の胸ぐらを掴み上げるとそのまま壁に叩きつけた。そしてそのまま床に倒れ込んだ俺を真上から踏みつけようとしてきた。
背中を強く打ち、意識が途絶えかけた俺は、無心で力の全てを右腕に繋いだ。
片足立ちになったところの男の左脚に右拳を穿つように叩き込んだ。
男の体は半回転し、側頭を床に打ち、そのまま不自然な体勢で崩れ落ちた。
奥の着流しの男が気配を変えて無言で立ち上がる。
ただの強盗ではないことは、もう俺の目から見ても明らかだった。男は先に刃の付いた細い棒のようなものを持っていた。
家の中は静かだったが、物音は何一つ俺には届かなかった。
代わりに、目の前の男の心音や骨の軋む音までが地面の底から伸びる手のように聞こえてくるようだった。
男は流れるように身を運んで間合いを詰め、気が付くと指に挟んだ棒を俺の顔面に突き刺していた。
一瞬のことでよくわからなかった。そのうちの一つが右目に入った。男は左利きのようだった。視界が一気に悪くなり、男の体が膨れ上がったように見えた。
男は棒を逆手に持ち替え、体に力を込めた。
僅かな間の後、それが振り下ろされる音がした。
目の前に死がよぎった。
しかし、見えない何かが傍をかすめ、それを拒んだ。
次の瞬間、壊れかけた視界が何かの流れに乗ったのがわかった。
俺はその流れに体の動きの全てを合わせた。
気が付くと男の左手が落とされるより早く、俺の右腕は目の前にいる男の首に竹の歯刷子を突き刺していた。
男は首を押さえたまま、床に倒れた。
部屋は再び無音になった。
どうやら最初の男も打ちどころが悪く、絶命しているようだった。
俺はできるだけ何も考えずに這うように奥の部屋へ向かった。
部屋に入ると、布団に包まって寝ていたはずの桜は足元の辺りまで布団がめくられていた。
それ以上は、もう見る必要はなかった。
三人とも体に同じような刺し傷だけが残されていた。
血を流して死んでいる二人の男からは、何も知ることはできなかった。
月明かりだけが、開け放たれた窓から差して床を白く染めていた。
それ以外には何もない――。
俺はその日、自分以外の世界の全てを失った。




